第8話:遅刻メイド
朝の温かさを含んだそよ風が二人の頬を撫でる。
まったりとした空間は二人の心を穏やかにするが、太陽の上昇を止めさせるには至らなかった。
「なあイリーナ。今何時頃だ?」
「あっ……」
ふとしたエリクの呟きに、イリーナの表情が固まる。
これまで浮かべていた穏やかな微笑みはすっかりと消えてしまい、慌てて広場の端に置いてある掃除道具を手に持つと、メイド寮の方へ駆け出す。
「俺はまだ時間に余裕を持ってる。もしよければ馬で送っていくが」
「よろしいのですか?」
「女性を足で走らせて、自分は馬でのうのうと戻るなんて真似はしない」
あまりの慌てようにエリクは咄嗟に提案をするが、イリーナは自分の足元を見て申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ございません。乗馬の難しい服装でして……」
「少しだけ待っててくれ。すぐに戻る。」
イリーナの申告に即答したエリクは、勢いよく近くに止めていた白馬に乗り込むと、そのまま近くにあるワイン蔵の方へ走り出させる。
森の中を一気に駆け抜けた先には、たくさんの荷台が置いてあった。
「行けるか?」
手早く荷台を背中の器具に取り付けると、白く誇り高い王子の愛馬が主の期待に応えるように力強く地面を蹴る。
数分も経たないうちにイリーナのいる広場まで戻ったエリクは、後ろの荷台に指を刺す。
「かなり揺れるが大丈夫か?」
「はい。故郷でそれなりに乗馬は経験しています」
「そうか。なら、少しスピードを出して行くぞ」
「承知いたしました」
素早くイリーナの腕を引いて馬の上に乗せると、持っていた掃除道具も荷台に放り込む。
「ありがとうございます」
「慣れているかもしれないが、気をつけてくれ」
「大丈夫です!」
エリクに頭を軽く撫でられると、王子の愛馬は白く誇り高い毛並みを靡かせて走り出す。
「わぁ! 風が気持ちいです!」
「急いでいなければもっと楽しめたのにな」
「そうですね。今度は背中に乗せてもらっても宜しいですか?」
イリーナの言葉にエリクよりも先に愛馬の方が嬉しそうに吠える。
「あぁ。こいつも喜ぶぞ」
「楽しみです」
イリーナの言葉に激励され、白い風が森の中を一気に駆け抜ける。
「しっかりと捕まってくれ」
どんどん加速していく白馬の走りに、イリーナは体を揺らしながらも風を切る爽快感に肌を震わせた。
「メイド寮が見えたぞ。ここら辺に留めればいいか?」
「あっという間でしたね。わざわざありがとうございます」
猛スピードで森の中を突き抜けたにも関わらず、白馬は疲れを見せずに飄々としている。
「この子の名前はなんというのですか?」
「ルーカスだ。また、イリーナのことを乗せてくれないか?」
エリクに頭を撫でられたルーカスは、どうだすごいだろうと自慢するように吠えた。
「ルーカス。カッコいい走りでしたよ」
イリーナに白い毛並みを手で優しくなぞると、ルーカスは嬉しそうに顔をだらけさせる。
「はぁ……」
「どうかされたのですか?」
「いや、なんでもない」
だらしなく口を開けて笑っているルーカスを見て、エリクは再度ため息をつく。
不機嫌そうな目線をルーカスに向けるエリクの様子に、イリーナはクスりと小さく笑ってしまう。
「それにしても、エリク殿下は乗馬の腕もあるのですね」
「頻繁に乗っているうちに上達しただけさ」
「それでも凄いですよ」
満足そうな表情を浮かべるエリクの反応に、イリーナは微笑ましさを感じる。
それと同時に、イリーナは素直な気持ちでエリクの努力に尊敬の念を抱いていた。
「行かなくても大丈夫なのか?」
「あっ。早く戻らなきゃ」
慌てて荷台に積んでいた掃除道具を手に持つと、そのままメイド寮まで歩き出す。
「それじゃあ、また明日」
「えぇ。また明日もよろしくお願いします!」
振り返ったイリーナの目には、優しい太陽の光に照らされて清々しく笑っているエリクの姿があった。
「ちょっと名残惜しいですね」
段々とエリクの気配が遠のく感覚に、イリーナの背中は寂しさを覚える。
それでも、明日も会おうという約束がイリーナの足を前に進めさせた。
「よっ。二日連続の遅刻レディー」
「また王子様と逢瀬してた」
「そんな関係じゃないわよ。きっと、気の合う相手としか思われてないよ」
「ただの友達と口にする人ほど怪しい」
四つの瞳でジト目を向ける同僚に、イリーナは苦笑いを浮かべる。
「殿下とメイドでは住んでいる世界が違うわ」
「身分の差から世界から拒まれる禁断の恋」
「離れ離れになる未来に耐えきれず、二人は全てを投げ出して駆け落ちをする」
「駆け落ちしません!」
演劇のような大袈裟な身振りと一緒にナレーションを入れる二人の揶揄いに、イリーナはつい声を大きくして反論してしまう。
「つまり、堂々と王子の妻を狙うと」
「そうでもありません!」
「ちぇ。面白くない」
「面白くないって……」
穏やかな朝の時間は終わり、騒がしくも楽しげなメイド寮の昼がやってくる。
それでも、朝は再度二人の元へ訪れるという安心感が、イリーナの胸を踊らせた。
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