45. サナンの話

「ひろった」


 答えは簡潔だった。少し待ってみたが、それ以上言葉が続く様子はない。いかにもそれで十分、他には何も言うことはないとばかりの顔をしているサナンに、ミカはため息をついた。この子の知性は疑いないが、情報伝達能力には少し……かなり問題がある。一つ一つ訊いていくしかないか。


「拾ったって、俺をか。どこで?」


「はたけの、むこう」


 この家から見て薬草園の先は施療所、その先は聖堂前広場へと続いている。ちょうど昨夜、ミカの意識が途切れた場所と一致している。


「そこから、俺をここまで運んだのか。おまえひとりでか? よくそんなことできたな」


「くるま」


「車?」


「つちのくるま」


 何のことだ、と思ったが、やがてサナンが家の外を指し示して、ミカはようやくそれに思い当たった。堆肥たいひを運ぶ手押し車だ。確か昨日、雨が降る前、サナンは畑で、手押し車から降ろしたそれらを土に混ぜ込む作業をしていた。


 どうやらサナンは、意識のない彼を見つけて、荷車に押し込んで運んできたらしい。堆肥扱いされたと思うと、多少微妙な気持ちにならないでもないが、おかげであの土砂降りの中から避難させてもらえたのなら文句は言えない。意識もないままあんな雨に当たり続けていたら、今頃息もなく冷たくなっていただろう。


 いや、まず間違いなくそうなっていたはずだ。不意に左胸の傷がうずいたような気がして、ミカはぎくりと背中を強張らせた。雨に打たれるまでもない、こんなところに刃を打ち込まれたら、本当ならその場で命はなかったはずなのだ。


 誰が、彼に死んでほしかったのか。そしてもっと謎なのは――どうして今、彼は死んでいないのか。


 ミカは辛抱強く質問を続けた。それによると、サナンがあの土砂降りの闇夜の中、薬草園辺りをうろついていたのは、水路の門を開けるためだったらしい。ミカはこれまで気がつかなかったが、薬草園と菜園の周りには細い水路が引かれていて、あまりに好天が続いたときには水をいたり、ちょっとした用事ができるようになっているらしい。普段、雨が降ると、増水した川から水が勢いよく流れ込んでくるのを防ぐために、門――といっても、小さな板で作られたごく簡素なものだが――を閉めておく。しかしあまりに多く雨が降ると、今度は畑から水が抜けずに水びたしになる。昨晩の雨の降りようは、その境目を超えたものらしく、サナンはこの森の中の小屋を出て、真っ暗な修道院へと向かった。


 そして、そこで彼を見つけたのだ。石畳の上に倒れ伏してぴくりとも動かない、闇の中の暗い影を。


「よく、そこに俺が、じゃなくても人が倒れてるって気づいたな。薬草園からは少し離れてるだろ」


「おと」


「音?」


「ばしゃばしゃ。はしって、とおくにいった」


 これまでと同じく、サナンはあっさりと答えたが、ミカは密かに息を呑む。まさにそれが話の核心だ。彼の体をその場に残して、慌ただしく走り去った人物――そいつこそは、彼の殺人者ではないか。


「そいつ、誰だった? 姿を見たか?」


 勢い込んで聞いたものの、しかしサナンは首を横に振った。話からしてそうだろうとは思っていたが、やはり多少落胆せずにはおれない。もしサナンがそれが誰かを見ていれば、話はだいぶ簡単だったのに。


 だがその場合、この子に見られたと察した殺人者はどうしただろう。当然、口を塞ごうと試みたに違いないと思い至って、ミカは今更ながらに青ざめる心地だった。サナンが相手を見ていなくてよかった。見ていなければ、少なくとも、殺人の目撃を理由に、危害を加えようと狙われることはない。


 だがそれも、ミカがまだ生きていると知られていない間は、だ。


「おまえ、それで俺のことを隠しておいてくれたのか」


 奥の壁に目をやって、ミカは今更ながらに気付く。堆肥よろしく手押し車で運んできたとはいえ、意識のない彼の体を外から運び入れるのは、この子供には大変な作業だっただろう。その辺の床に転がしておけばよかったのに、でなくとも小屋の中には使っていない寝台があったのに、わざわざあの奥まった納屋まで運んだのには、ちゃんと理由があったのだ。


 それが効を奏したのは明らかだ。ミカはまだここにいる――追手に見つかってはいない。彼がここにいる間、サナン以外にこの小屋に足を踏み入れたのは一人だけだが、それもミカの存在に気がついたようには思えなかった。


「朝、ここに来たのはヘルマーか?」


 おぼろな記憶を確かめると、サナンはこくりと頷いた。


「何しに来た? 俺を捜してたのか?」


 再び、小さな頭が上下する。


「他には、何か言ってなかったか?」


 サナンは小さく首を傾げる。何かを思い出すように視線をさまよわせたが、やがてきっぱりと口を開いた。


「『坊主、まさかとは思うが、あの若造を見なかっただろうな。わからんとは言わせんぞ、ここ最近、おまえの周りをうろついている、あの司祭だ。一体、どういうつもりなんだ。おまえのような薄のろからなら、何かを聞き出せるとでも思っているのか。とにかく、あの男には近付くな。分を守っておらねば、おまえに居場所はないのだからな。よく弁えろ』」


「おまえすごいな」


 ミカは感嘆して言った。殊更に真似をするようではないのに、サナンの言い方はまさにヘルマーの口調そのものだ。細かな発音や抑揚よくようが再現されて、ミカにはそのときのヘルマーの様子がありありと目に浮かんだ。不機嫌で尊大でピリピリしていて、間違っても朝一番に戸口に立っていてほしい人間ではない。


 ――つか、こいつ……ほんと、賢いな。


 たった一度、それも出合い頭に聞いただけの言葉を、こうもすらすらと再現してみせるとは。もっとも、常日頃からヘルマーに似たような悪態ばかりつかれていて、すっかり耳に馴染んでいるからかもしれないが、それでもこの子に随分な記憶力が備わっているのは確かなようだ。このまま、あのヘルマーなどに好き放題に罵られながら、こんな辺境の修道院の貧しい下働きとして生きていくのは、いかにも惜しい……。


「『そこをどけ、中を見せろ。何もないことはわかっているが、一応は確かめなければならん。まったく迷惑な話だ、どうしてあの男は、あんな土砂降りの中に姿をくらますなんてことを仕出かすのだ。だから止めておけばよかったのだ、あの若造に知らせるなど! 我々で十分対処できたのに、結局、余計に厄介なことになっただけだ』」


 しかし、続くサナンの言葉にはっとする。そうだ、その言葉は確かに聞いた。板壁の向こうで、彼が動けずにいる間、押し入ってきたヘルマーは、サナンに向かってというよりは大きな独り言のようにそんなことを言いながら、辺りを熊のようにうろついていたのだ。


 あのときは、それがどういう意味かわからなかった。たった今まで思い出さず、考えもしなかった。しかし今、その言葉は、彼に多くのことを教えてくれる。


 修道院は、ミカの姿が見えなくなったことに気付いている。ミカが自分の意志で消えたと思っている様子なのは奇妙といえば奇妙だが、無理からぬことではある。大の大人が一人いなくなった、それも修道院の塀に守られた中で消え失せたとなれば、強盗や誘拐といった行きずりのならず者の犯罪は考えにくい。これまで塀の内側で平穏に暮らしてきた修道士たちは、たとえミカが事件に巻き込まれたのだとしても、彼が自分から塀の外へ出て行ったのでない限りは、そんなことにはなり得ないと考えるだろう。もちろん、彼の殺人者がそうではないことを示唆するはずもない。


 更に彼らは、ミカが夜中に、それもとりわけ雨の強かった『土砂降りの中』でいなくなったということまで把握している。何故なら、その時間に施療所に呼ばれたミカが、そこには現れなかったからだ。


 ――だから止めておけばよかったのだ、あの若造に知らせるなど!


 あの若い修道士が彼の部屋を訪ねてきて、すぐに施療所に来るよう伝えてきたとき、果たしてヘルマーはこのことを知っているのだろうかと思ったものだが、この言葉は答えを示している。ヘルマーは、ミカに連絡がいったことを知っていた。もちろん、ヘルマーが望んでのことではない。彼としては全く賛成していなかった……だがとにかく、そのときはそうする必要があったのだ。


 何故だろう。王女の侍女の具合が、それほどに良くなかったのか――あるいは他に理由があるのか……。


「!」


 突然、大きな鐘の音が辺りに響き渡って、ミカは思考を中断された。ほとんど自動的にと言えるほどの迷いない動きで、サナンがすっと立ち上がる。午後の仕事のはじまりを告げる鐘だ。


 しかし、子供はすぐには動き出さなかった。何かもの言いたげな目で、じっとミカを見つめている。


「え、何だ……ああ、皿? 悪い、あとでまとめて片付けとくから、おまえはもう行けよ」


 何か行動を要求されているような気がして、思わずそう言ってしまったが、どうやらその答えは外れだったらしい。ミカが手を伸ばすより先に、サナンは素早く空の皿を取り上げる。更にじっと、今度はいくらか憤った様子で見据えられる。


 ミカはいよいよ当惑したが、やがてはたと閃いた。


「ああ、わかった! 今度は大人しくしてる。外を歩き回ったりしないで、できるだけ中にいるようにするから。それでいいか?」


「…………」


「ていうかおまえ、言いたいことがあるなら口で言えよ! 何でヘルマーの台詞なんかあんなにすらすら言えて、自分の言いたいことが言えないんだよ」


 とはいえ、ミカがそういったところで効き目はないようだ。サナンはそれなりに満足したように一つ頷くと、皿を持って離れていく。


 その手が扉にかかる前に、ミカは思わず声をかける。


「サナン」


 しかし、呼び止めてしまって逡巡しゅんじゅんする。今、彼が言おうとしていることは、正当なことだろうか。この子を危険にさらしはしないだろうか。


 だがそれを言うなら、既にサナンは危険に晒されているのだ。ミカを殺そうとした者は、まだ彼が生きていると知ったら、おそらく再び彼の命を狙ってくるだろう。彼を救って、ここに置いていることで、サナンはもう十分巻き込まれてしまったのだ。


 ミカにできることはただ、一刻も早くここを離れるか、あるいは敵の正体を突き止めるかだ。そしてそのどちらも、今の彼一人ではできない。どうしても、サナンに手を貸してもらう必要がある。


「一つ、頼みがあるんだ」


 内心の葛藤を脇へけてそう切り出すと、サナンはぴたりと足を止めて振り返った。緑がかった茶色の瞳が、きらっと光る。


「施療所に行って、アルティラ王女の侍女の……エーリンて言ったっけ、彼女の様子を見てきてくれないか。昨日の夜、俺は彼女の具合が悪くなったって言われて呼び出された。どうなったのか、知りたいんだ」


 病状はどうなったのか、今はどんな様子なのか――あるいは、本当にそんなことがあったのかどうか。


 そして皆まで言わずとも、サナンには言いたいことが伝わったに違いない。小首を傾げて、少しの間何か考えているようだったが、やがて確信のこもった顔つきで小さく一つ頷いた。そのまま扉を出て行く。


「あ、それと……」


 その後ろ姿に更に言い足しかけて、しかしミカは思い直して口をつぐむ。再び振り返ったサナンに、首を横に振ってみせた。


「いや、何でもない。……面倒なことになりそうだったら、無理すんな。怪しまれるくらいなら、何もわからなくていいんだ」


 気をつけろよ、と伝えると、サナンはまた一つ頷いた。くるりと背を向けると、小屋を出て行く。小さな背中の背後で、扉が音もなく閉まった。



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