最強暗部の隠居生活 〜金髪幼妻、時々、不穏〜
灰色サレナ
1:斬鬼
「終わった……儂には無理だったのか」
関東大震災から18年、時は大正。
にぎわう人々が浅草の朝を
「人の世、と言うのはかくも生きるのが難しい……」
着物の上にこの辺では珍しい
「かーちゃん、あのお爺ちゃん……刀持ってるよ! 活動写真撮るのかな!?」
買い物に向かう親子がすれ違いざまに刀を見て声を上げる。
そう、一際目立つ鉄ごしらえの
老人は緩く沿った日本刀を腰の
「あらやだ、行き倒れ?」
息子に問われ、老人に目を向けた母親は思わず子供を引き寄せるが……刀の柄尻についた根付を見て気づく。
「駄目よ指をさしちゃ。活動写真じゃなくてあの人の刀は本物……よく見なさい、お国のために尽くした『二条松の紋』でしょう? とっても偉くて恐れ多いお人なの」
ひゅるりと吹いて来た風に合わせ、鮮やかな朱色の糸で編まれた根付が寂しげに揺れる。
その先に括り付けられた切子硝子の『二条松の紋』。
幕末から明治、大正に至るまで闇に潜みながら国のため、未来のため、事情は人それぞれではあるが……その身をあらゆる危険と動乱に投じた証である。
「でも……なんでそんなお人が行き倒れとるのかねぇ?」
「かねぇ? かねぇ?」
首をかしげる母親の言葉を息子は面白そうに繰り返す。
どうやら周りの人も彼の根付には気づいているらしく、刀については騒ぎ立ててはいなかった。
どちらかと言うと……。
「お声かけた方が良いのかしら? でも、御巡りさんの家の前だしねぇ……」
母親の言う通り、そんな場所的な不運で老人は放置されていた。
それに……偶にぐぐぅ、と盛大なおなかの音が響く当たりまだまだ老人が餓死するには猶予がある。
そう、少なくともこの家に住む警察官が起きて新聞を取りに来る時間までは。
「かーちゃん! 紙芝居やってる!! 見てきていい!?」
そんな子供の興味は移ろいやすい物、数秒後には老人の事などすっかり忘れ。
通りの向こうで始まる紙芝居の人だかりに心を躍らせていた。
「あら、珍しいわね? こんな時間にやってるなんて……お母さんが買い物している間だけよ?」
どうせその通りの向こう、自転車で紙芝居のすぐ向こうには目当ての豆腐屋がある。
まだまだ落ち着きのない息子が大人しくしてくれるのであれば願ったりだ。
「やった! お金頂戴!!」
満面の笑みで10銭を貰った子供が駆ける。
それを微笑ましく見送る母親の視界の端に一台の自動車が映った。
普段であれば『自動車なんて珍しい』で済むのだが……様子がおかしい。
「あら?」
気が付くとその黒い車は砂煙を上げ、車輪から炎と石畳を引っ掻く悲鳴を上げて蛇行し始めた。
ぐんぐんと、見る見る内に……その車は自分らの方へ向かってくる。
その頃には他の歩行者もホイールが地面に擦れる金切り音やゴムの焼ける嫌な臭いで暴走車に気づき、騒ぎ立てながらその場から逃げ始めた。
「いやぁ!? 何あれ!」
「そこの親子!! 危ないぞ!!」
誰かが挙げた声で母親は向かいくる車が危険だという事はすぐにわかった。
しかし、子供の手を取ろうにもほんの僅かに遠く……。
子供もまた、どうしたらいいのか分からず立ち尽くす……。
――ギャリッ!!
速度を上げ続けた車の前輪が急に進路を曲げて、片輪を上げながら親子へ襲い掛かった。
運転手も慣性に耐えきれず車の外に放り出される。
「きゃああああ!」
「にげろぉぉ!!」
――騒がしいのう、腹が減っておるのに
キィンとささやかな、何か金属の鳴る音。
その音色は絶望的な状況の中でも、母と子の耳にしっかりと届いた。
「危な……い?」
その場面を最初から最後まで目に焼き付けていた青年は……車が母子にぶつかる場面を見なかった。
代わりに映るのは鉄の塊である自動車が冗談の様に空中を舞っている光景。
次の瞬間には車が二つに綺麗に別れて街灯と御巡りさんの自宅へ突っ込んでいくのを……見届けた。
「え?」
母親も、気が付けば子供を抱いて。
その場にしゃがみこんでいた。
「……生きて、る?」
遅れて通り過ぎる突風に神が揺らされる中。
周りの大人が不可思議な事故にあっけにとられる中。
子供だけは呆けるような声でその名を紡ぐ。
「ざん、き」
奇しくも通りの向こうでは、紙芝居を生業にする中年が自転車に足を取られ商売道具の平絵をぶちまけていた。
その一枚目には、最近巷で人気の演目。
『月夜の斬鬼』
鮮やかな絵の具で……満月を背にする一人の侍の一枚絵。
「斬鬼が斬ってくれたんだ!!」
「な、何を馬鹿なこと言ってるんだい! 無事でよかったよ!!」
ぎゅうと抱きしめる母のぬくもりと安堵など露知らず、子供は幾度も幾度も繰り返す。
月夜の晩に刀一つで悪を斬り、人知れず、世の為人の為に生きる。
正義のヒーロー『斬鬼』の名を。
道端に放り出された事故車の運転手が通行人に介抱される中、自宅の玄関を車に占拠された御巡りさんが騒ぎに気付き、二階の窓から身を乗り出して叫ぶ。
「怪我人はいないか!? 今行く!!」
「安心してくれ!! 親子ともども皆無事だ!! 運転手も!」
そう誰かが答える頃には……行き倒れの爺の事など誰一人。
記憶の隅にも残っていなかった。
そんな少々派手な騒ぎの向こうで、一台の車がゆっくりと動き出す。
丸いサイドミラーに切り取られた幸運な親子を視界に収め、運転手はつぶやいた。
「……ダメか」
ただ一人、明確な目的を持って黒いスーツを纏う男は車を走らせた。
その助手席にポン、と無造作に仕事道具を放り投げ。
それは普通に生きている人には縁が無い『銃』だった。
「事故ならいけると思ったが……まあいい、あの様子じゃどこかで野垂れ死ぬだろう」
胸ポケットに入った紙巻きタバコを一本取り出し、器用に左手だけでマッチを擦る。
鼻を突く燐の燃える匂いに合わせ、ちろちろと揺れる灯火に咥えた煙草の先を突っ込み……一息をゆっくり吸った。
揺らぐ紫煙をふう、と吐き。
満足げに男は笑みを浮かべてさらに車の速度を上げる。
「さあ、次は何を狩ろうか」
助手席の回転式弾倉銃のグリップには黒地に金の装飾が施されていた。
日本政府最大の裏組織、月夜連合の解体から一週間……一人の老人と少女の活劇はここ日本の首都『東京』浅草の路地裏にてひっそりと……
「……いかん、腹が減りすぎて目が霞んできた」
斬る事にかけてはこの国で一番の老人の平穏な暮らしは始まらないで終わるかもしれない。
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