#18 一刻も早く
ホッチキスの芯状になった梯子を昇ると、大きな鉄パイプの上に辿り着いた。私は息を吐いて、鉄パイプの上を走る。幸いにも中には何も通っていないらしく、音はひとつも聞こえてこない。しばらく走っていると、やや上の方に小さな窓のとっかかりを見つけた。魔法は極力使わない。つまり、この先は私の身体能力だけで突破しなければならない。私は窓に向かって跳んだ。とっかかりを掴み、鍵のかかっていない窓から中に入る。
誰もいない部屋だ。目的地はこの部屋ではない。私は扉に近づく。持続的にぱたぱたと歩く音が聞こえてくる。
なんとなく辺りを見回す。薄汚れた机。鉛筆かペンの跡が残った壁。波のような形が規則正しい天井。息がつまる。かつて通っていた学校の教室と関連する要素は皆無なのにも関わらず、その窮屈さを思い出す。何が嫌だったのか。私のことが嫌いであることが見えているのに、義務のように私に話しかけてくる男女。私の心配をするフリをした教師。別に無視していれば済む話。態々関わり合いを持つことすら面倒だ。ただ、一刻も早く抜け出して、ペルプ達に逢いに行きたかった。一刻も早く、幸せな時間を――
そんなことを考えている場合ではない。足音は消えていた。あの男への対処に向かったのか、もしくは今限りの偶然か。私は扉を開け、外の様子をうかがった。たくさんのパソコンと積み重なった紙の束が並ぶオフィス。尋常ではない広さだ。上着の前を閉める。頭にフードを被る。知り合いは配信女に監視カメラを無効化させると言っていた。だが、確かあの女は対象の物に触れていない限り信号を送れなかったはずだ。そうなると、監視カメラに映ることは覚悟するしかない。
息を吸い、オフィスに足を踏み出した。
あの部屋より広いのに、空気は更に淀んでいる。それでも、教室により近いと感じるのは、私が学校を嫌悪していたからだろうか。違う。この部屋に蔓延する薄い『闇』の残り香だ。
壁際に、また扉が現れた。塗りつぶされているひとつめの部屋はここで間違いない。入ると、そこは倉庫であるようだった。いや、隅にひとつ机がある。その上には、原稿用紙のような紙が置いてある。部屋にいるはずの社員は不在か。当たり前だ。そうなると、帰ってきたその時を狙うべきだ。
扉の傍に立つ。私は服越しに、バッジに手を……まだだ。魔力で気づかれる可能性がある。社員が扉を開けて中に入ったその瞬間、握った拳を全力で、相手の腹に撃ち込んだ。
予想外に事はうまく運んだ。それから私は、地図を確認しては部屋を移動し、同じことを繰り返した。階段を使って上の階に昇り、小さな部屋に入り、戻ってくる社員を待つ。その社員たちは、本当にここに入ったばかりの社員であるらしかった。私に対抗する戦闘能力も持たず、その場で闇に変わることもなく、人間としてその場に倒れ伏す。端末を奪うのは非常に簡単であった。
移動中にも、存外に誰にも出くわさなかった。奇妙だ。まさか、全員であの男の対処に向かったわけではないはずだ。それなのに誰もいないとなると、何か、罠を仕掛けられている可能性が高い。しかし、私はその罠に極限まで乗る必要があった。必要な情報をすべて入手した上で、相手の思惑に嵌ったことに気づいたその瞬間になんとかする方が面倒事が少ないだろうと思っていた。
九階の小部屋の扉を開けると、部屋には既に人がいた。油断したか、と心の中で舌打ちする。 その白髪の混じった茶髪の男は、机に座っていた。手元に向かってぶつぶつと何事かを唱えている。
「闇……私は……感じられてしまうのか……種類まで……少女の闇……」
その手元には、何か紙が置かれていた。その紙にペンを走らせている。男に近づいて背中側に回り込んでも、男は私の存在を見ようとしない。
「少女……青少年が何故……ムクルレ……ミイナル……」
聞き覚えのある名前。私は手を止めた。止めてしまった。男は不意に振り向いた。私と目を合わせた。
「あの二人が……あの二人のせいで私は……」
男は血走った眼で私を見た。その瞬間、私はあることに気づいた。原稿用紙に目を落とし、その憶測が正しいことを確信する。この男は違う。入社してから幾か月も経過している、いわば手遅れの存在だ。
「……私は、闇を書かねばならない……私の欲を……淀んだ闇を……」
心の中に闇を持つと、敵がそれを探知する。
そのことを忘れたまま、学校について考えていた私が甘かった。
私が行動するより先に、男――あの文学青年の「先生」は、辺りに濃厚な闇を散らしていた。
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