ブンヤ

ブンヤ

   森川 めだか


Butter Knighves Thence


pool


 被害者Aの母の供述。

「怖かったんです。ただ怖かった。スてるとか、はい、本当にそれだけです。汚したくなかった・・」

アパートジョイセル。新聞記者の真神まがみふゆと赤内あかないレルは赤ちゃん投げ落としの現場の取材に来ていた。

ふゆはアパートを見上げた。

「同じ部屋で・・」レルが口を挟んだ。

「あの部屋か」ふゆが指を差した。

「そうみたいですね」

下は堅い石が固められている。

「これじゃ助からんな」

「自分で110番通報か」レルは資料を見ながらその部屋の小さなベランダを見上げた。今は何も干されていない。

「単なる偶然ですかねえ」

「同じ部屋で同じ事件が二件も起きてんだぞ。気味悪いな」

「ふゆさん、そういうの信じるタチですか」レルは釣り目を細くして笑った。

ふゆはこのアパートを照らす街路灯によりかかっていた。

「蠅の一生ってさ、」

「え?」

「いや、いい。先生書いてくれるかな」

「そのためにもちゃんと調べなきゃ。早く書かないとまた罰金ですよ」

夜は湿ったプールの匂いがする。

レルは新聞社で資料室にいた。ふゆはデスクで母親たちの供述書を読み直していた。

「ふゆさん、ありましたよ」レルから仕事用のフィーチャーフォンに着電があった。

薄暗い階段を行く。

途中の自販機で炭酸飲料を買って、資料室に入った。

「意外な共通点」レルが自慢げに過去の新聞を手にしている。

「こんなのも出てきました」その前に、レルが出したのは去年のエープリルフールの新聞の欄だった。

「ああ、懐かしいなあ。みんなで頭ひねったっけ」

「結局、誰の案が採用されたんでしたっけ?」

「覚えてない」その小さな記事には「地底人の骨、見つかる」と書いてある。

「で?」

「ああ、二人とも薬剤師でした。見て下さい」レルは机に過去の新聞と最近の新聞を比べるように並べた。

「ホントだ、職業薬剤師か」容疑者の名前の上に小さく書いてある。

「住所は一緒」レルは爪をずらした。

「民生委員がいたみたいですね。同じ。今もやってるんでしょうか」

「この記事面白いな。こんな事件もあったっけってのが多いけど、この記事は取っておこう」ふゆがコピーしているのは地底人のエープリルフールの欄だった。

二人の母親の元を回っていた民生委員は西弥生子にしやえこといった。

「他のご家族も回ってますから、そうです、このアパートも全部です。お二人は困窮されてた様子は見られませんでした。二人とも赤ちゃんが生まれたばっかりで、幸せそうでしたよ」

ふゆは喫茶で自分のフィーチャーフォンの番号が書かれた名刺を渡した。

上ではプロペラが回っている。

「驚きました」弥生子はそう言って、汗ばんだ口元を拭って俯いた。

「もちろん事故物件として出したわけですよね」ふゆは火を差し出した。弥生子は煙草を吸うのだ。

「それでも構わないと仰る方は多いようです。格安ですし。小学校も近いし」弥生子は灰色の息を吹き出した。

「この記事をね、小説にしたいんですよ」

「小説?」弥生子の手が止まった。

「面白がってるわけじゃないんです。ただ、この件には今の日本の根深いものが潜んでいる気がしてね。ああ、どうぞ。新聞記者も事件を解決できるわけではないんです、それは警察とか検事とか裁判の仕事。後を追うこともできますが、毎日事件が起きるでしょう。続報を出すような気持ちでこの事件を小説にしたいんです」

「実際の事件を基にしてですか?」弥生子は煙草をもみ消し、コーヒーをすすった。

「その方が新聞連載にいいでしょう」

弥生子は何か考えていたのか窓から外を見ていた。通る人の足が見える。

「私には何の権限もありませんから」

「もうあの物件には」

「恐らく誰も住み着かないでしょうね。管理組合も及び腰ですし」

「ご足労かけて申し訳ございません」

「倉庫ですよ、倉庫」

弥生子の吐き出すような声がいつまでも消えなかった。

ふゆもレルも未婚だ。

新聞社に帰るとレルがアソートチョコを差し出した。

「今日、バレンタインだっけ?」

「別にバレンタインじゃなくても良くないですか?」

みんなももらったらしい。

「面白い話が聞けた」ふゆは自分のデスクに座るとチョコを一つ口に放り入れた。

「ふゆさん、何か言いかけたでしょう。私に」

「何を?」

「あの時、アパートの前でですよ」

「ああ、蠅の一生な。蠅は約500もの卵を産み付けるらしい」

「よくチョコ食いながらそんな話できますよね」

「それからな、蠅はウジになったりさなぎになったり、忙しいんだ。生きてから死ぬまで約一か月半だよ。それしか生きられないんだ」

「どこにでもいますし、いつもいるように感じますけどね」レルもふゆのアソートの一つを摘まんだ。

「同じ蠅じゃないんだよ。薬剤師か」ふゆは蓋をして脇に置いといた。

「ちょっとずつ食べる気ですね」

「頭がいい蠅は他の蠅と比べて寿命が短いんだと」

「誰が調べたんですか?」

「知らないよ。蠅にもストレスがあるんだと」ふゆは笑った。

「薬剤師か」

レルはもう他の記者とお喋りをしている。

ふゆは今回の赤ちゃん投げ落としの一応の書類をまとめた。その中にエープリルフールの記事も混ざっていることに気が付いた。

同じクリップで留めた。

「おい、レル。お茶持ってきてくれよ」

レルには無視された。

「いいよ、自分で行くから」給湯室にはみんながデスクで食べた食い物のプラ容器が捨ててある。その下にコバエが死んでいた。

「食べるものもなかったか」ふゆはティーパックを上へ下へお湯に浸した。

育児放棄ならこの世界にごまんとあるが。

手を出しそうになった経験なら誰だってあるだろう。

「罰金ですよ」戻ったらレルが罰金状を持っていた。

ここの部署では次の新聞に記事が間に合わなかった罰金を取る仕組みになっている。

「また俺か。いくら溜まってる?」

「一万円ぐらい。断トツ」

「俺と組みになってるんだからお前も一緒だろう」

「私のは間に合わせました」レルは舌を出した。

思うところがあったのかレルは黙った。

「本当の気持ちが新聞記者に書けるんでしょうか」

「甘っちょろいこと言ってんじゃないよ」

「その子にはその世界しかないんだからって書きたかったんです」

レルのデスクの脇には大きいキャリーバッグが立たされてある。

「キャリーバッグ・・」

「ああ、他の取材です。ビジネスホテルで女性の死体が発見されたんですよ」

「わざわざ行くことか」

「それが、何か月経っても身許が分からないらしいんです。不思議でしょう、高齢女性が、お金を持ってそのまま死んで、その身許が誰にも分からないんだって」

「親族は?」

「何人か名乗り出たらしいんですけど、その誰も別人だったって」

「行旅死亡人か」

「温泉でも入ってゆっくりしたいです」

「お疲れさん」


silver spoon


 ふゆとレルは取材のレポートを持って氷雨銀ひさめしろという作家に会いに行った。もう話は付いてるはずだ。

「銀さんの過去、知ってるか」ふゆは行く途中でレルに聞いた。行き交う人々は二人が新聞記者だと知らない。

「氷雨先生のですか?」

「父親が愛人殺したんだとよ。変わり種だよ」

レルは初めて氷雨の部屋に入った。

そこには文机と、飾り棚一つだけ。

座る場所さえ用意されていなかった。銀は文机の前に陣取ったままである。

「先生、今度の」ふゆがレポートを銀の前に置いた。

「ああ」と言って、しばらく銀はそれを見ずにペンの先で耳をほじくっていた。

「実際の事件って言ったのは僕なんですよ。せっかく新聞小説書くんだから」銀はレルを見て話した。

「赤ちゃん投げ落としですか?」

銀は肯いた。

「たまたまテレビつけたらそれが映っててね」

部屋にはテレビがなさそうだ。

やっと銀がレポートに目を通し始めた。

「街路灯の色は何色でしたか」

「普通の・・」

「普通の」と言った銀の唇は薄い。

「これは?」銀が手控えと見紛うほどの小さな切り抜きを手にした。黄ばんでいる。

「去年の、お遊び半分で書いた、エープリルフールの記事です」

「嘘か」

銀は何かを書き付けた原稿用紙をヒラリと二人の前に置いた。それを手に取ったのはレルだ。

「アガーサの人類プロデュースフォースの力を試すゲーム? どういう事ですか」原稿用紙にはそこしか書かれてない。ふゆに渡した。

「アガーサってのが地下人類、で、フォースってのが地球」

レルは思わず笑ってしまった。

「聞いても分かんない」

銀は体の向きを変えた。

「日本人は何も信じていない。この事件の根っこはそこにあると思いませんか」その指は床に置かれた原稿用紙にある。

「信じるとは」

「神を信じるのは人の勝手、という風潮ですよ」

「それで地底人類?」

また、銀はペンで耳をほじった。

「地球空洞説。小説って例えば変なものですよ、全て知ってて始まるんですからね」その原稿用紙を文机に戻した。

「タイトルは」

「美毒」

「社会面に掲載します」

「そんな大層な」銀は笑った。

「日本人はシマウマですね。黒にも白にも染まる」

「そういえば、稀に人間にも宿るそうですね、羊とか」

「ああ、ウジね」

「蠅の一生って自分で考えたんじゃないんですか」

「蠅は暖かい部屋なら50日、蠅のさなぎはね、土中で花開くんですよ」

「花、ですか」

「こうやって、環のように蓋が開くんです」

「先生、母親は二人とも薬剤師でした」

「読みました、興味深い」

「じゃあ、そろそろ」

ふゆとレルは立った。

「動機は、汚したくなかった、だけですか」

「今のところは」

「先生、連載開始は今年の、エープリルフールになるようです」

銀は肯いた。

「蠅は英語でフライですが、バターフライがなぜバターなのか今も分かってないようです」

「どうした、鳩が豆鉄砲くらったような顔してさ」

「常識がない人ですね」レルはプンプンだった。

「初めましての挨拶もなかったですよ」

「お前もしなかっただろ」

「おこんばんわしか出てこなくて・・」

外には星が出ていた。

「変なこと気にしてましたね、街路灯の光が何とかって」

「もう一回、見に行ってみるか」

銀は電気を消してスタンドライトだけだ。

「アガーサは母親に殺された子供なんだ。そして、フォースは車を燃やしてアガーサに対抗する・・」

思い付くまま書き出していった。

「惑星直列か」

ペンで耳をほじくった。

「アガーサは何かを失った人類、何か、何かな」今やっていることだ。何も置かれていない飾り棚。

「アートだ」

気が逸れるのがあって良かった。

「さすが作家さんは言う事が違うね」

「どこがですか」

「何も信じてないのが日本人だって」

「それぞれ矜持とか宗教に限らず持ってるんじゃないですか、思いあがりですよ」

「神は心的事実の中にいるんだよ」

「思い込みってことですか」

「今の日本じゃ確かにそうだろ。俺は日本のことしか知らんが」

現場に着いた。

アパートには灯が点っているところもある。

「んー」ふゆは街路灯を見上げた。

「そういえば、海の色に見えなくもないな」

「ただの黄色。昼光色ですけど」

ふゆもレルもあの部屋を見た。

「何か言ったらどうですか」

「小説じゃないんだからそうスラスラ出てこないよ」ふゆは街路灯に手を付いた。

「ジェリーフィッシュだな、俺達」

「くらげ?」

「地上で溺れてる」

「じゃあアガーサはモールですか」レルは地面を踏み鳴らして笑った。

「そうだ、モグラだ。新聞記者にできる事はって聞いたよな。フィクションとノンフィクションの垣根を作ることだよ。ここから先は越えちゃいけませんよってな。それがどっちだか分からなくなっちまった」ふゆは土を蹴った。

「ちょっと寝てリフレッシュした方がいいですよ。目に隈ができてますよ」

近くの公園ではスプリンクラーの散水が始まっていた。

「夜なのに」

「朝にやりすぎると蒸発するんだ。植物は夜に育つんだよ」

「人工芝なのに」

レルの頭は原稿用紙に戻っていた。あの原稿用紙も黄ばんでいた。

ここから先は見えない。

「頭のいい蠅は何をするんでしょうか」

公園の柵の中ではどこへも行けない動物たちが誰も乗せずに笑っていた。


many love


 銀は神に代わるものとして善を置いた。アガーサの世界に。

それからゆっくり父親に思いを馳せた。

「私が行っても寂しがらないでくださいね」

レルは首元にマフラーを巻いた。

「どこに行くんだっけ?」

「熱海」

「何て名乗ってたんだ、その死んだばあさん」

「えと・・」レルは黒い皮張りの手帖を取った。

「いいの持ってんな」

「私の就職祝いに買ってくれたんですよ、・・容莉枝よりえです」

「それだけか? チェックイン時の名字は?」

「あれ? 聞き忘れたのかな」

「抜けてんな」

「お土産何がいいですか」

「ロールケーキ」

「何で熱海なのにロールケーキなんですか」

ふゆは笑った。

「いいネタ取ってこいよ」

レルはキャリーバッグを引いて部屋から出ていった。

民生委員の西からふゆのフィーチャーフォンに着電が入っていた。

ふゆも表にでて下の自販機で炭酸水を買って、折り返した。

「何か分かりましたか、他にも。あのアパートの件ですよね」

西は慌てていた。

「いえ、違うんです。ジョイセルの他にも私、見回りを持ってて、マンションなんですけど」

「そこで何か?」

「あの事件があってから気味悪くて」

「また事件が?」

「多分」

西の話では受け持った当時から、長年、倉庫になっている部屋がそのマンションにあるという。これまでは気に留めなかったが気にし出すと止まらない。

「来ていただけませんか。民生委員っていっても何もできませんから」

「見てみましょう。鍵は持ってるんですか?」

西はマンションの名を告げた。

弥生子はマンションの前で待っていた。白塗りのマンションだ。

「新しく見えますが」

「何年か前に大規模修繕したんですよ。こう見えても築年数は経ってます」西は前に立って、エントランスキーで中に入らせた。

「これも新しく取り入れたみたいです」

「それまでは誰でも入れたんですか」

西はある一室の前で立ち止まった。

「この部屋です」

番号も表札をかける所もない。ふゆはドアポストを押してみる。

「目張りされてますね」

「入りますか?」

ふゆは肯いた。

西が鍵穴に貼られた白い粘着テープを剥ぎ取って鍵を差して回した。

先に入ったのはふゆだった。

籠った匂いがする。

「倉庫といっても何も入ってない」ふゆは足で床を擦ってみた。誰も使ってないようだ。

「表向きですね。風、入れましょうか」こんな時でも民生委員なのか西が窓を開けようとした。

「ここにも粘着テープが」

「開けない方がいいですよ」ふゆは全体を回ってみて、また元の位置に戻った。

「ここで何かがあった」

「ずっと前ですよ」

「後で資料を調べてみますよ。マンションの名前は変わってませんよね」ふゆはレルの手帳とは比べ物にならない100均で買った手帖を広げた。

資料室にはその当時、取材に行った記者たちの覚え書きも入っている。今は電子化の時代だが忙しくて手が回らない。

黄ばんだ三面記事にこれもまた手垢の付いた取材レポートがクリップで留めてあった。

「ここか」

マンションの名こそ書かれていないがあの部屋で赤ちゃんが殺された。母親の手で。

取材には産後うつ? と書かれている。

「枕で顔を」母親の証言だ。

「母親はどうした」記事にも取材にも母親の名は消されている。これは精神に問題があった場合が多い。

その時の現場の写真が残されていた。木目調の部屋。マンションは白塗りではなく真っ茶色をしていた。昔の写真では入り切れなかったらしくマンション自体が歪んで写っている。

窓からは何も写っていない。下は畑、その時にはここにマンションは珍しかったのだろう。

銀は獄中死した父のことを思い出しながら、ふゆが持って来た赤ちゃん投げ落としのレポートに目を通していた。

「汚したくなかった、か」

どういう意味なのだろう。

人は離婚する遺伝子を持って生まれてくることもあるという。父は僕をお母さんからも奪おうとする。

だから銀は神を信じ切れないのだ。

母はあの事があってから呪詛しか口にしなくなった。銀の中で父は蠅だった。他人の死体に群がるどうでもいいもの。ただ、目障りだった。

子供の象徴は孤独だった。他ならぬ自分に付いた影。

それは今も自分を覆い隠す。それは誰の影なのか母親の影ではないだろうか。

銀は父のことを小説に起こそうとかそんなことはしない。

思い出より貴重な物はない。

「さあ、書かなきゃ」

アガーサの主人公はすももにした。女の子だ。

自分の手で父を書いて小説を汚したくなかった。

アガーサは手火たひを持っている。暗い地中でも生きていけるように。その他は地表人と変わらない。

銀は煙草を吸った。一枚目の原稿用紙に「美毒」と書いて、また新しい原稿用紙をめくった。

銀は結婚は考えてない。

「だーれだ」ふゆの目が手で覆われた。

「帰って来たのか」

「何だ、分かっちゃいましたか」レルが手を離した。

「ちゃんと取ってきただろうな」

「ちゃんとありますよ、ほら手拭い」レルが持って来たのは瓦の柄の手拭いだった。

「みなさんの分もありますよ」

レルは貝紫色の手拭いを配って回った。

「何かありましたか、何か元気ない」

「もう一人の被害者が出たからな」

「また赤ちゃんですか?」

ふゆは肯いた。

「ずっと前のな」

ふゆはため息を吐いた。

「後は天運に任せるしかない」

「心配いらないですよ。最後に春は勝つんですから」

レルは罰金状に書き付けた。

「どうした?」

「私、この記事間に合わなかったから」

ふゆは下に降りて、帰ってから飲もうと自販機で缶ビールを買った。

忘れてはいけないと思い、西に電話した。

「風邪声ですみません」西が出た。

「現状維持。あの部屋には入らないでください」

「頼まれたって」

ふゆは新聞社のビルを見上げた。今日も新聞記事は心のすき間を通り抜ける。

ふゆはビールの蓋を開けた。

あの部屋にはいつから置いてあるのだろう、青いボックスティシューだけが蓋も開けられずに部屋に残されているだけ。


lives matter


「お疲れのご様子ですね」

ふゆは椅子に座りながら目を閉じていた。

レルは手帖を見ながら記事を書いている。

「その女の事件、解決したのか?」

「まあ、何というか・・」

「お前、西弥生子に会ってないよな」

「誰ですか、それ」

「あのアパートの見回りやってた民生委員だよ」

「はあ」レルは生返事だ。

「もっと気合い入れて聞けよ」

「うるさい! 今、書いてるんです」

ふゆは目をもみ解した。

「どんづまりだな」

「また投げ落としですか?」記事を上げたレルが戻ってきた。

「んあ?」

「その昔の」レルは自分のデスクに着いた。

ふゆはコピーしておいた三面記事と取材のレポートを手だけで後ろに回した。

「枕で顔をねえー」

ふゆはレルが持って来た貝紫の手拭いで目を覆った。そのまま寝る気だ。

「一―6、ちょっと行ってみませんか」

「行っても何もないよ」

「この住所に心当たりがあるんです」

ふゆが手拭いをどけるとレルがレポートを差し出していた。

「お手数おかけして申し訳ございません」ふゆとレルは西とまた会った。

「いえ、」西は手持ちのタオルで鼻の下に噴き出た汗を拭った。

「赤内です」

「あーあー、そんなご丁寧に、どうも」

「ご迷惑はおかけしませんから」

「私は入れませんよ」

ふゆもレルも肯いた。

ふゆとレルは西の後を追うようにマンションまでの道を歩いていた。

「いい天気だ」

レルは手帖を見ながら歩いている。

「このマンションそんな新しくないですよね、写真だと」レルはエントランスの門に手を付いた。

「大がかりな修繕したんだと」

西はもうエントランスキーで開けて手でドアを押さえて待っている。

「ここがその倉庫」

西が粘着テープを剥がしてドアを開けた。

「鍵はどうしますか? 次、会った時にでも」

「郵送で送ります」ふゆは部屋の鍵を受け取って、西は帰って行った。

もうレルは部屋の中にいる。

「そろそろ話してくれよ」ふゆはしゃがんだ。このどこかで赤ちゃんが死んだのだ。

「まず、話しますね」窓は白い磨りガラスで中からも外からも見えないようになっている。

「私が追っていた容莉枝って人は、住所もちゃんと書いてあったんです、ほら、ここです」レルは手帖の中を見せた。

「・・確かに、ここの住所だ」

「私も問い合わせてはみたんです。そしたら初めは存在しないって言われました」

「そんなの調べりゃすぐ分かるだろ」ふゆは胡坐をかいてしまった。

「部屋番号を言ったのがいけなかったのかな。画像で見たここは新しそうだったし」

「部屋が存在しないってことか」

「倉庫になってたんですね」

ふゆは立ち上がった。

「その容莉枝の名は?」

床尾とこおあいです」

「相さんか」ふゆはしゃがんで、手を合わせた。

「弔ってやらないとな、誰か」

「忘れられなかったんですよね、ここのこと」

いつかの時分、ここで殺された赤ちゃんと、ホテルで死んだ女が重なった。

「母だけが事情を知っている」レルは窓枠に付いた露を指で落とした。

「アガーサの世界みたいですよね」

「アガー、ああ、氷雨先生のね」

「このネタ、記事にしてもいいですか」

「その女は何て言ってた」

「ホテルにいたい」

「解決するのが新聞記者じゃないんだよ、この事件も終わりかも知れないな」

「作家ってのは全て知ってて始まる。あの先生言ってましたよね」

「俺なんか、昨日も明日も時で見えないよ」

「涙の前のさよならみたいですね、前から知ってたなんて」

「死んだおふくろに聞かせてやりたいよ」

「また、そういう・・」

「何で先生は地球にフォースなんて付けたんだろうな、力なんてさ」

「あの人が考えてることは分かりません」

「あれ?」ふゆは自分の手帖を見ていた。

「どうしました?」

「あの西さんの住所、書いてねえや。ミスったなあ」

「コレステロールが溜まってるんじゃないですか」

「そんなに飲んでねえよ」

「さっきからインスタントラーメンの匂いしてますよ」

ふゆとレルは出て、鍵をかけた。

「風が入ったな」

「よかったんじゃないですか」

日光で道が白く見える。

「フォースって四番目って意味もありましたね。地球は太陽から離れて三番目だけど太陽入れたら四番目ですよ」

ふゆは新聞社に戻ったら、西に電話しようと思っていたが、西からもう着信が残っていた。

「もう気付いたのかな」

レルは手帖に何かしきりに書き付けていた。

「すぐ戻る」そう言って、ふゆは駐車場に入った。

「え? 何のことですか」

西は会って話したいと言う。鍵の事ではないらしい。

「今、どちらに?」

電話を終えたふゆはレルを探した。

住宅街なのにパン屋がある。レルが金を払う時だった。

「ずいぶん、長いな」

「フランスパン。これでコレステロール出してください」

ふゆとレルはその足で西の待っている喫茶に行った。

「すみません、こんな長い物」ふゆは窓際にとび出したフランスパンを傾けた。

鍵を置いた。

西はそれを受け取ると、財布の中に入れていた。

「気になることって」

「世の中がどうなってんのか分からないですよ」今度はもみあげの所に付いた汗にタオルを当てた。

「冷たい物でも頼みましょうか」

「あのアパート、次の入居者が決まったって」

「ジョイセルのあの部屋のですか」

「はい、そうなんです」

「こんな事言ったら何ですが、掘り出し物ですからね」ふゆは胸の前で指を組んだ。

「募集もしてないのに、あの部屋空いてますかって」

そういう時代なんですよ、とは言えなかった。

「気にされない方も多いですからね」

「私、もう回れませんよ。どんな顔して会ったらいいか」

「入居者はやっぱりご家族で?」

「それが、若い夫婦さんでね、もう少しで赤ん坊が産まれるって。何から何まであのままなんですよ」今度は額の汗を拭いた。タオルを握りしめて離すことはなさそうだ。

「賃貸でしたよね」レルが聞いた。

西は肯いた。

「まあ、もう、あんな事件起こらないとは思うんですけどね・・」

ふゆとレルはアパートジョイセルに来ていた。

アパートの下の地面は土になっていた。

「植栽でもするのかねえ」

二人でフランスパンをちぎって食べた。

近くの小学生たちが帰って来る頃合いだった。

「この頃、楽しい?」レルが子供に聞いた。

「次の母親は薬剤師じゃないですよね」

ちょうどあの部屋から母親が出てきて干すところだった。お腹が大きい。

黄色い帽子の小学生は返事もしなかった。

「あの子から見たらおばさんなんでしょうね」

「母親の方が若い」

同じ公園なのに前とは違って見える。子供がいるだけで違うのだ。

「私たち大人ができることって、神様を信じさせることでしょうか」

「真実を信じさせることだよ」

「でも、」レルは言いかけて黙った。

どこの真実ですか?


decelarate


 ふゆとレルはデスクに向かって自分の仕事に集中していた。

「結局、汚したくなかった、か」

動機はそれだけしか分からなかった。

レルは容莉枝について考えていた。

容莉枝はどうだったのだろう。記者はモノにならないと考えたのか、供述も取ってない。

「蠅って最後どうなるんですか」

「死ぬよ」

「子供を残して?」

ふゆは肯いた。

「眠り病ってのもあるんだ。蠅が媒介して、意識混濁、その後、死ぬよ」

「眠ったままで?」

「蠅には近寄らない方がいい」

「見出しは汚したくなかった、でいいんじゃないでしょうか。受け取り方は様々でしょうけど、それで考えさせるきっかけを、」

「そのためにはまだ追う必要があるよ」

「母親たちのその後をですか?」

ふゆは肯いた。

「記事にはならないよ」

二人とも背広を手にした。

「じゃあ、行こう」

二人目の母親は今も勾留中のはずだ、一人目はもう刑期を終えてるはずだが行方は知れない。

「社に入った時に言われた事、覚えてますか。いつまでも清新な感情を忘れないよう・・」

「俺も似たようなこと言われたよ。それが社訓の一つだからな」

「感情って邪魔な場合が多いですよね」

ふゆは笑った。形だけの笑いだった。

ジョイセルには行かなかった。

昼に欠けた月が見えた。

「考える必要なんてあるのかな」

「ん?」

「いや、動機さ。読者もライターも分からないものを口にして満足するだけなんじゃないか」

「曲がりなりにも新聞記者なんだから、清新な感情を大切にしていきましょうよ」

ふゆは鼻で笑った。

「母親たちもまさか自分がそんな事するはずないって思ってたはずだよ。それが何かのはずみで、」

「テルクラブにいた頃、」

「ああ、記者クラブね」

「他の社の記者は我先んじようとしてました。知る権利っておかしいですよね」

二人の着いた先は先に殺された赤ん坊の墓だった。

享年がいちじるしく低い赤ん坊の名と横に寄り添うように新しい名前が彫られていた。

「ああ、母親も死んだんだ」

花が活けてある。

妻の横にはまだ朱色の文字が彫られてある。

レルは他の墓も見ていた。

二人目の赤ちゃんの名。それとともに朱色で母親の名がある。

どれも若くして亡くなったお墓には生前、その子が好きだったものが石になっている。

二つのお墓に共通するのは「愛」という文字だ。

ビタミン栄養ドリンクの茶色い容器にもう枯れた花が挿してある。

「公判はずっと先だ」ふゆが坂を下りてきた。

ふゆもしゃがんで、それを見た。

「そうでもしなきゃやりきれなかったんだろうよ」

「切ないですねえ」

「それが感情か」

「氷雨さんの、そろそろ取りに行かないとですよね」

「もうエープリルフールか」立ち上がったふゆはすごく不機嫌で、レルはなかなか立ち上がれなかった。横に並ぶのが怖かったのだ。

ふゆはゴミ箱を見に行った。その際にレルは立ち上がった。

ふゆはゴミ箱を覗き込んで、ため息を吐いているようだ。

「何がつまらないんですか」

「まあ、嘘じゃない世界だよ」

「かたちある物がないからですねー」

「何が?」

「新聞記事」

「つまり?」

「つまり・・、わ!」

坂を上ってくる人がいたので二人は黙って立っていた。

おじいさんと子供だった。

墓の前に立つと線香の束におじいさんがライターで火をつけた。

「ワー」子供が何かに驚いて喜んでいる。

「火が出来上がってる」

ふゆもレルも春に微笑んだ。

「記事にはならんな」

「帰りましょうか」

新聞社に戻るとふゆはフィーチャーフォンから西弥生子の名前と履歴を消去した。

「俺が書くからいいよ」

ふゆが手にしたのは取材レポートに使う安いコピー用紙だ。

枡目が打ってある。

それに今回携わった人と、レルと自分の名前、簡単な要旨だけを書いて、それまでのレポートにクリップで留めた。

資料室に行くと、赤ちゃん投げ落としの記事にそれらを挟んだ。

氷雨銀の名前を書き忘れたが、それもよしと思った。

黄色い資料室の明かりを落とした。

戻ると、レルが何やら紙を突き付けた。

「罰金状。ふゆさんが一番ですよ」

「いくら溜まってる?」

「一万とちょっと」

「蠅算だね」

レルはまたその紙をデスクの真ん中に置いてあるペーパースタンドに挟んで立てた。

ふゆは次のページへ続く新聞記事を書いていた。

これも間に合いそうもない。

もう外は夜だった。

「なあ、次のエープリルフール何にする」と話している。

「空白のまま出す気ですか」レルが顔を覗かせた。

「もう、私が手伝いますよ」

「人間が赤ん坊を産み付けるなんてどうですか」エープリルフールの話をしている記者にふゆは言った。

「この世界に」

結膜炎を起こした子供がいた。

お医者さんは付き添っていたお母さんに言った。

「朝になるとね、目ヤニで目が開かなくなるから、その時は・・」

子供は眠っていた。

子供が言った。

「目ヤニで目が開かないよお、お母さん」

「はいはい」

湯桶を持った母親が優しく目を洗う。

「お湯で溶かしてあげてください」

起きて初めて見る顔は笑ってるお母さんだった。

そんな時もあったっけ。

「お前、可愛がられたんだろうな」レルに言った。

「え? 今、何か言いました?」集中すると聞こえなくなるタチか。

下に行ってフィーチャーフォンで母親に電話をした。

登録してない番号だったから出なかった。

家に帰ってからにするか。

ああ駄目だ、今夜も徹夜だ。

なぜだ。

ゴミ箱には花が入っていた。

それが感情か。

お湯で溶けた目が流れる星を追っている。


uroboros


「氷雨先生の初稿、取って来ました」

エープリルフール。

「一週間分あるようですね」

「アガーサの人、何て名前ですか」

「李」

「すもも?」

「善だってよ」

「ああ、信じるものがないって、あの」

「読んでる暇はないぞ」

朝刊にエープリルフールの記事が載って、夕刊から美毒が始まる。

「ウロボロスって何ですか」

下の自販機でコーヒーを飲みながらふゆとレルは昼の休憩を取っていた。

「あの小説の絵、わざわざそれにしたじゃないですか」

銀からは「二頭の蛇が食い合う」図柄を使いたいと事前に連絡があった。

「終わらないってことだろ」

「この事件がですか、それとも事件が起きるこの世界がですか」

「ちゃんと街路灯のことも載ってたな」ふゆはゴミ箱がいっぱいだったので、その上に空き缶を置いた。

「フィクションとノンフィクションのことかな」レルはまだウロボロスについて考えていた。

「私、垣根なんてないと思うんです」

ふゆは黙っていた。

「分からなくなったって言ってたじゃないですか、」レルはコーヒーを飲み干して、ゴミ箱の上に置いた。

「それが嫌だから自分の中で垣根作ってるような気がします」

ふゆは何も言わず、もうビルの中に入ろうとしている。

「お釣りは取りましたか」

ふゆは自販機のポケットに指を突っ込んだ。

肩をいからせて立った。

「0が入ってる」

次の夕刊に間に合わせるよう記事を書く。

何か事件が起きたらそれをモノにしようと思う。

「今度は俺の方が早かったな」

「あー、ふゆさんに負けるなんて」

ふゆは一人、資料室に寄った。

記事というのは下枝(しずえ)なんだろう。下から見ても木の枝が空に広がってるだけだ。何でこんな形をしてるのか誰にも分からない。

日光を少しでも取り入れようと手を伸ばす。新聞記者に与えられたのは下枝に触れる立場と権利だけ。

ファイルに書かれているのは日付だけ。街路灯が照らすのは何なのか。ウロボロスは善なのではないか。

ふゆはファイルの一つをめくってみた。二頭の蛇が食い合っている。信じるものがない事件と記者だった。

ファイルを戻した。

アガーサの持っている手火は何を照らすのか。

下に行くとレルがもう栄養ドリンクを飲んでいた。

しかたなく光る夜は雪のようだ。

「もう夜が明けますよ」

「ああ、地球だからな」

レルはビルの中に入って、薄手のコートを持って戻って来た。

「やっと家に帰れる」

レルはコートを着て、その上に首までの髪を垂らした。

電車に乗るレルを見ても誰も新聞記者だとは思わないだろう。

黄色い明かりの中で電車では新聞を読んでいる人がいるかも知れない。

レルは赤く化粧をしていた。

「じゃ、帰りますね」

数時間もしない内にまた会う事になる。

ふゆは新聞社に残った。

自分のデスクで仮眠を取った。

帰って行く音もして、入って来る音もした。

目を覚ますと一人だったので、日に当たりに行った。

レルが出社してくるところだった。

「おはようございます」

もう化粧はしていない。

「あの唇の薄い先生、何考えてんでしょうね」

「読んだか」

「はい、それが、」

「俺はまだ読んでないから話さないでくれよ」

レルが行くとふゆはただ空を見るしかなかった。

レルはデスクに着いて、ふゆの椅子は空いたままだ。

ふゆはトイレの個室で煙草を吸っていた。

久々の煙草は頭に沁みる。

煙は逃げるように上がっていく。

小便器の前に誰か立っている。

ふゆは自分の手に目を移した。

血管の上に蠅が止まってる。

「ラブストーリーじゃないもんな」

便座の上に乗ると窓から答えがない道行く人々を眺めてる。ネタを探しながら。



口小さきキリスト


silly


 愛するくらい簡単な事だと思っていた。

「フー」

赤内レルはホテルに着くなり寝た。

寝ころがったまま手帖を広げた。

「床尾容莉枝、・・女、か・・」

ビジネスホテルで何ヶ月も身許不明の行旅死亡人、火葬は市で済ませた。

レルは一人で取材に来た。

発見者はルームキーパーとベッドメーク。

「トイレで倒れてたのか」

仰向けになって手帖を見上げた。

レルは背広の他にアクリルセーター一枚しか持って来なかった。早く帰れるだろうと思っていた。

「まあ、見に行ってみますかね」

レルは鞄に入れておいた熱海の地図を広げた。


そのホテルは下に川が流れていて、風光明媚といった所だろう。温泉を売りにしているらしかった。

温泉街の内の一つで、マンションのように同じような旅館が建ち並んでいる。蒸気は温泉から来るのだろうか?

「取材拒否ですか?」

そのホテルのエントランスで誰か言い争っている。

同じ新聞記者だろうか?

男はまるで釣りに来たかのような服装で、胸元にはカメラを垂れ下げている。

それが追田おいだたけるだった。

「いいですよ、もう」出てきたたけるは遠景からホテルの写真を撮って、川沿いの柵にもたれかかって煙草に火をつけた。

「入れませんか」

レルが声をかけるとたけるは煙草を踏んだ。

「何、あんた」

「新聞」

「ああ、ブンヤか」たけるは横を向いて、足を揺らしている。

「記者の方ですよね」

「俺は雑誌社、ブンヤとは違うよ」

「やっぱり例の一件で?」

たけるは眉をそびやかした。

「ここのばあさんが何のって、記事にはならないでしょ。ブンヤは違うだろうけど。俺は夫殺しの取材に来たの」

「でも、何でここに」

「興味半分」たけるは笑い顔をした。

近くで妻が夫を刺し殺したらしい。

「不倫?」

「まあね」

たけるは手帖を見ながらペンで頭を小突いた。

「パン切り包丁で首をグサリ」たけるはまた笑い顔をした。

取材が取れないのならしょうがないな、とレルは思っていた。

手持ち無沙汰で手帖をパラパラやっていると、たけるが近付いてきた。

「メモ合わせってやるんだろ? ブンヤは」

「でも、私、引き換えるものがない」

「いいよ。あんたより早く来ただけだよ」たけるは手帖の走り書きを見せてくれた。

「さとえって誰ですか」

「ああ、それはこっちの事件」たけるはまた煙草を吸っていた。

「あの、グサリのね」

「つまり不倫相手」

たけるは肯いた。

「ホテルがいいとかたくなに拒否、ホテルに約五年間滞在、金はちゃんと支払っていた・・」

資産家と書いてあって、「?」がしてある。

「それ以外は全て嘘ってわけ」たけるは手帖を返してもらった。

「床尾も?」

「偽名だろうね」

いつまでも川を見ててもしょうがない。

レルはたけると別れて街を歩いてみた。古き良きってやつですかね。

たけるの手帳には他にも気になる事が書いてあった。

「普通と普通じゃないの国境」と書かれた下に幾本のボールペンの線が引いてあった。

どの事件にも関係ないと思うのだが。

他の旅館に行っても、その事は知りませんと首を振られた。

レルは自分のホテルに帰ってきた。

熱海銀座の近くだ。

今日の夕飯でも買いに行こうかとアクリルセーターに着替え、歩いてみると、商店街の中には温泉卵も温泉まんじゅうも売っていた。

ブンヤという言葉を久々に聞いた。

何か侮蔑したような響き。

スーパーを見つけてカップラーメンとパンを買って帰ると、平行線の飛行機雲が見えた。

「普通と、普通じゃないか」何か知らないが自分もたけるの真似をして手帖に書き付けて下線を引いた。いつも手帖を手離さないのは新聞記者の癖だ。

部屋に戻るとカップラーメンだけを食べた。

「文責は私でいいですよ? ただ、モノになりそうもありません」社から貸し出されたフィーチャーフォンで連絡だけをする。

喉が渇いた。

レルはベッドから起き上がって、鞄から煙草を取り出して、一本に火をつけた。

一人の時は吸う。

キャリーバッグを持って来ることもなかったか。中には下着と替えのシャツ、パソコンまで持って来た。

煙草を吸い終わると肩に力が入らない。こんな所に五年間も。もう少し広かっただろうが。

レルはベッドに座って、下を向いて、しばらく考えた末、コンヴィニエンスに行った。

ブラックニッカが売っている。小瓶を買って、海まで歩いた。

最後の冬の波。レルは海を触ってみた。

波が壊れる。手に付いたのは砂。

レルはそれを払って、ズボンの背で粘着質な海の水を拭いた。

ベッドに帰ると、ブラックニッカのキャップを開いて匂いを嗅いだ。そのまま口飲みをした。

煙草より久々だ。

上機嫌になることはない、ただ悲しくなるだけだ。

レルが私用で使っているのもフィーチャーフォンだ。忙しくしてるのでたまに連絡を取るぐらいのことにしか使わない。

ブラックニッカをもう一口飲んだ。もう半分しか残ってない。キャップを閉めて机に置いた。

冷蔵庫に入れておいたパンを取って、ちぎって食べた。半分残して机に置いた。

机には小さなテレビが据え付けられていたので何かニュースでもやってないかとつけた。テレビの中はいつも昼だ。

ホテルの部屋はどうしてこうも暗いんだろう。間接照明だけでまるで海の底にいるみたい。

明日は何とかして情報を聞き出さねば。そうか、容莉枝の家族を装ってもいい。あの部屋に入れてもらい、警察に聞き出してもいい。

容莉枝の写真と、遺留品。

テレビをつけっぱなしにして音を消した。

深く眠れるだろうかと目を閉じたがそんなに疲れてないせいか眠気は起きなかった。

レルは風呂に入ってシャワーを浴びた。髪を絞っている間、容莉枝の金はどこから来たのだろう、と考えていた。大金を持ち歩いていたのか、預金通帳は?

本名でも分かれば、レルは髪をバスタオルで叩いた。

備え付けのクローゼットには浴衣のような寝間着が入っている。ハンガーに背広をかけて、アクリルセーターをくちゃくちゃにして下に置いた。

ブラックニッカのもう半分を飲み干すと、うつ伏せにベッドに倒れ込んだ。

たけると引き換えるものがあった。

「家族バラバラ事件だ」

赤ちゃん投げ落としの二件の事件を追っている間にここに来たのだ。

もうたけるとも会うことはないだろうと思っていた。

これは事件ではなさそうな気がする。

パンの半分は朝食に取っておこうと思って、テレビを消した。

「アアアアア」と何羽ものカラスが外で鳴き合っている声がする。

明日は早く起きる、と念じながら寝に入った。

明日が来なくなるというのが死なのか。

同じ話をするように昨日と同じ明日が来る。


 朝駆けをやるのは久しぶりだ。レルは朝早く宿を出て警察署に出向いた。アクリルセーターに背広のズボンという出で立ちだ、下は革靴。

「さっきお電話した者なんですけど・・」

すぐに担当課の職員が来た。

「どこから?」

「ええ」

「・・わざわざ遠い所から・・」

通されたのは部屋だった。その前にはお骨が置いてある。

「お母さんですか?」

レルはまず手を合わせる。いつの間にか後ろに男が一人増えていた。恐らく刑事か何かだろう。

お骨の前の机に座らされた。

「赤内レルさん」

その男が言って、ほれ、と一枚の写真をレルに手渡した。

容莉枝の死に顔だった。眠っているように穏やかだ。

「これだけじゃちょっと・・、何年も会ってなかったので」

白髪混じりの髪は整えてある。

男は肯いて、もう一つのビニール袋から緑色の、預金通帳を出した。

それをレルに見せる。

「床尾相様」と書かれている預金通帳だ。

開いてみる。

「トコオアイ」

男は肯くと、それを取り上げ、「お母さん?」と聞いた。

レルは首を横に振った。「違います」

金は見えなかった。それにしても・・。

「確か容莉枝って」

「嘘、・・つかれても困るから」男は預金通帳をビニール袋に丁寧に入れた。

じゃあ住所も分かっているはずだ。銀行に問い合わせたら簡単だ。

「その前はどこに住んでたんですか」まだ諦めきれないという様子をしてレルは聞いた。

「・・の一―6」

熱海ではない。それどころかレルの勤める新聞社でも行ける所だ。

「ずっと前の契約だけどね」男は預金通帳を背の後ろに置いた。

「どうして」

男はしばらく黙って、「そこには誰も住んでないの」と口を濁した。それ以上は言わないようだ。

「何を待ってるんですか」

「夫」男はお骨を見ていた。

「信じられる? この人は一生で貯めたお金でホテルに泊まってたんだよ、750万。カツカツだったよ。この通帳が示すのは名前だけ」

今度はレルの前の写真に目を落とした。

「予期でもしてたのかねー」

わざとあやふやな情報にしているのだ。

これは、あつらえた事件だ。

「この人には、人生がなかった」

警察署から出たレルは急いで手帖を出し、署の前の花壇の縁で走り書きした。

「バラしますよ」たけるは写真をヒラヒラさせていた。

「ご家族に」

今はさとえしか家にいない。

「あなただけお咎めなしじゃおかしいでしょう。僕、そういうの許せないんですよ」

さとえは固くなったままドアノブを握っている。

「何すれば」

たけるは写真をポケットに入れてさとえの手を握った。

「僕と関係を持つというのはどうでしょう。お金より簡単でしょう、あなたには」

さとえはきつく目を閉じた。

「・・お断りします」ドアは閉じられた。

レルはホテルでパソコンをつないでマンションの画像を見ていた。

ここに住んでいたというのは考えられない。今のトレンドだ。

レルは築年数までは見なかった。

夫を待つ、か。他には理由はなさそうだった。身よりなしということか。

初めから見透かされていたのだ。

一人で生きてきた。

「人生がなかった、か」レルは手帖を広げた。

今すぐ帰るべきだろうか。しかし、住所を当たっても何の役にも立ちそうになかった。

手帖の前のページには普通と普通じゃないの国境と書かれている。

夫が見つからないということは預金通帳は旧姓のまま?

同僚のふゆが「人生は平等には訪れない」と言っていたことがある。

レルはまた煙草を吸った。

テレビではテレビショッピングがやっている。レルは靴下を履き替えて熱海銀座に行った。

潮の香りがする。

店先のラジオから「恋の季節」が聞こえてくる。

「浮かべて泣いたのわけもないのに・・」

「ブンヤさん」

バッタリ出くわしたのは追田たけるだった。

「お土産、買って来ようかと思って」

「何かいいの取れたかい」

「いやあ、まだ全然」

たけるも同じように店先を覗き込んで回っている。

レルは店に入って手拭いを選んでいた。

「これなんかお洒落だなあ」レルが手に持って伸ばしたのは瓦の柄の手拭いだった。

「熱海にもお城があったんだあ」

それを何枚か買って紙袋に入れてもらった。

富士山が見える。

レルは近くの寺社でたけると並んで座ってサクサクした洋菓子を食べていた。たけるは缶ビールも飲んでいる。

「何であんな事書いてたんですか」口元に付いた粒を落としてレルは聞いた。

「ん?」

「普通とか普通じゃないって」

「んー、難しいな。気になった事は書き付けておく。後で何かの役に立つかも知れないし」

たけるの飲んでいるビールは冷やされてなかったので泡だけになってるはずだ。

「答えは出たんですか」

「普通ってのは、気にすることがなさすぎる、ってことだね。感じないだけなんだよ。普通じゃないが分からない」たけるは首をひねった。

「何でそんな事、気になったんですか」

「ブンヤには分からないよ」

「へえ」

「女ってのはレイプ願望があるってのは、あれ、本当かね」

「いきなり何ですか」

「いやあ、気になっててね」

「私も気になってることがあるんですよ」レルは手に付いた粒を払って天然水を飲んだ。

「へえ、何かな」

「キリストってどこにいたのかなあって」

たけるは笑っていた。

「キリストは新約でしょ。エデンの追放は旧約聖書なんだからキリストもエデンの東にいるんじゃないの」

「おかしな事、気にするねえ」

「どうしても分からないんですよ、二つに分かれてる意味が」

「書かれた年代だろ」

「じゃあ、どうして一つにまとめるんですか」

「どっちを信じてもいいようにじゃないかい」

「私も詳しくないですけど」

「俺も」

たけるは鼻をつまんで手で鼻をかんだ。

「俺は百姓の息子だからね。いつまでも土臭いのが好きなんだ」

「そっちの夫殺しの方は土臭いですか」

「まあね」

たけるは缶ビールを飲み干して放った。

「あんたともこれが最後だろうな。元気でな」

たけるが去った後、レルは缶ビールも拾ってレジ袋に入れるとホテルのゴミ箱に捨てた。

レルはベッドに座って、初めてブラジャーを見た日を思い出していた。レースの。

これから毎日これをハめて歩くのか。

大人になって化粧もほどほどにするようになったがそうやって自分が何をしたいのか分からない。

写真で見た容莉枝はムーンフェイスをしていた。何か薬でも飲んでいたのだろうか?

彼女にとって人生そのものが旅行だったのか。

誰の苦しみも比べられない。

「床尾は偽名じゃなかったのか」レルは座ったままでベッドに体を投げ出した。

そのまま靴を脱いで、靴下も脱いだ。

テレビでは戦国時代をやっていた。

私と同じ名前に会ったことがない。

何もかも棚ざらしになったままで、今夜は眠れそうにない。

テレビの音を消して、私物のフィーチャーフォンを見てみた。

「母」の字がある。

社用のフィーチャーフォンは使い過ぎて塗装が剥げている。この手帖も同じだ。

手帖は就職祝いに母が買ってくれたものだった。

最初のページには自分の名前とこの私用のフィーチャーフォンの電話番号が書かれてある。

思い切って母に電話して耳に当てた。

もう寝てるのか、離れて置いてあるのか出なかった。

留守番電話に代わる前に切った。

ずっと気になってたんだ。

お母さん、お父さんが怖いんだよって泣いた事があったよね。

あれ、どういう意味だったの。

東から太陽が上る前にレースのカーテンを開けた。

昔の自分に母を見つけられるかも知れない。

分からないことがいいことなら誰もが知りたいと思うだろう。

人間は塗装が剥げてオード色だ。

それは、マリアの自己嫌悪なのかも知れない。

鞄の中を探した。多色ペンで手帖の「普通」の文字を消した。


Easter


「そうです。赤内レルです」

寝覚めはいつも嫌な事を思い出す。

レルは身分を明かしていた。

「部屋に入らせてもらえないでしょうか」

耳が聞こえないほどの雨の日だった。

あの、刑事と思しき男がついて来た。

「この人、大丈夫だから」

エレベーターに乗る。

「やっぱりあんたブンヤだったか」

部屋のドアには何も書かれていなかった。

「サービスルーム、プライベート、ま、倉庫だよ」刑事は鍵を開けた。

部屋はきれいに後片付けがされてあった。

ここで五年。

「出かけなかったんですか」

「ほとんど」

防音がされてて雨の音は聞こえてこない。

ただ、下の川の音が聞こえてくる。

レルは手帖を手に見て回った。

「トイレで倒れてたんですよね」

「トイレに入ろうとしてたとこだ」

じゃあここか。レルはゆっくりしゃがんでみた。

「事件性はない」

茶色い雨が降っている。

「最初からその方針で?」

男は肯いた。

「何か証拠でもあるんですか」

刑事は何か紙を持って来ていた。

「これが隠し玉」

見せたのは医師の診断書だった。

「診てもらってたんだ、それでこっちに来たらしい」

「見せてもらってもいいですか」レルはそれを受け取った。

そこには走り書きで「うつ」「アルツハイマー型」と識別できる文字があった。他は医療用語で見えない。

一瞬、手帖を忘れた。

「アルツハイマー・・」

「うつが先なのか、アルツが先なのか、それは書いてない」刑事は窓枠に手をかけた。

「症状としては過食症だ」

刑事は窓を開けた。

「何も分からなくなって、ホテルにいたかったんだろうよ」

雨の音でよく聞こえなかった。

「まだ聞きたいことがあります」

レルはピシャリと窓を閉めた。

「お子さんはいなかったんですか」

「いたよ」過去形だ。

「誰にも見過ごされるようなベタ記事でね」

「教えてもらえませんか」

刑事は笑って、口を濁した。

社に戻って資料室に行けば何か分かるかも知れない。ただ年代が分からなければ誰の手も空いてないのだ。

レルは手帖にアルツハイマーと書いて、二人はスタッフオンリーの部屋を出た。

傘を差して川を上る。

季節外れの台風だろうか。

川は風のように流れている。

「お手数おかけしました」

刑事には聞こえなかったのか、横の旅館の並びを見ている。

旅館はそれぞれ高台にあって、そそり立つ崖のようだ。

こんな時でも困らないようにしているのだろう。川に飲み込まれないように。

消えたい、のかも知れない。容莉枝は何を思ってここまで来たのだろう。だんだん記憶が薄れていく中で、この雨の中で。

刑事の乗ってきた黒塗りの車に同乗した。レルは傘の雨を落とす。

車の中は無言で、行き慣れたような道を、坂を、車はゆっくりゆっくり下ってく。

レルの目は震えていた。ただ窓の外を見ていただけだが、どうしても運転する男の方を見れなかった。

普通と普通じゃないの国境を越えようとしている、そんな気がした。

「このこと書くの?」

刑事は片手ハンドルだ。

「またベタ記事かい?」

「多分」

刑事もレルの方を見てないようだ。

高架の下を通る。短いトンネルのように車の中が一瞬、暗くなった。

「イースターだ、何だって、何で旧正月は祝わないのかね」

寝不足の目を押すと目の裏に花が咲く。ヘバってる場合か。

「どこまで送ればいい?」

「ああ、そこら辺のコンビニで下ろしてください。パン買っていきますから」

「酒じゃないの」

「え?」

「いや、あんた始め来た時、酒の匂いがしたよ」

「ああ、ブラックニッカ・・」

「そうでもしなきゃ来れなかったのかって、迫真だったね」刑事は笑った。

コンビニの横に付けると、振り返る間もなく車は元の流れに戻っていった。

甘いパンと辛いパンを買って、新聞を買う。

顎が太ってきた。

容莉枝がもしこうなる事を知っていたなら、SF、スペースフィクションだ。

ジストピアだ。

イースターはイエスから来てるのだろうか。

イエスがいなかったら東もないわけだ。

小さなホテルに着いてから新聞を広げる。

相の名前はどこにもなかった。

レジ袋の中に財布を入れるのはいつもの癖だ。

アンパン。禁止薬物だ。

あの時、暗くなった車内で自分で見た顔はいつもと違う横顔だった。

水のように、黒いトンネルの向こうで天母のため息が漏れる。


 夜、原稿を書きながらニュースを見ていると地方ニュースに切り替わった。

「容疑者はその後死亡。ストーカー相談にもたびたび訪れていたとみられ、対応の・・」

レルは口を開けていた。

容疑者というのは追田たけるのことだった。

レルは手帖だけ持って取材に行った。

ストーカー殺人だ。

たけるが女を刺し殺した。

現場には案の定、取材の群れができていた。暗い住宅街だ。まだ赤色灯が回っている。

あの刑事がいた。レルは少し頭を下げた。

「どうなってます?」近くの新聞社の者に聞いた。

「よくある事件。家庭がある容疑者が同僚をストーカーした挙げ句。彼女を殺して自分も死のうと」

「容疑者はどこで?」

「雑誌社の者だったらしい。風呂で死んでたんだと」

「自宅の?」

男は肯いた。

「毒ガス発生中。目張りされてたんだと」

レルはため息を吹いた。

「ベタ記事だな」聞いた人はもうカメラの三脚を片付けようとしている。

「上司にも相談してたらしいよ。被害者」

「それでも?」

肯いて肩にカメラを掛けた。

「二人は付き合ってるの? だとよ」

早く帰らなきゃ。午前中には容莉枝の記事を上げたい。

暗い中で一人、そぐわない人がいた。

近くの主婦が見に来たようだが、心配そうな顔をして手は胸で組んでいる。

たけるの関係者かも知れない。

「あの・・、」女がおずおずと話しかけてきた。

「あの人の取材ノートとか残ってます?」

女は心配そうだった。

同じ女のレルに話しかけてきたのも肯ける。

「何かありましたか?」

「私、あの人に、その」

女の名はさとえといった。

「ゲス野郎」さとえの話を聞き終わらない内にレルは呟いた。

「あなたのことが表沙汰になることはないと思います。あっちも困るでしょうから。この事件は終わりです」

「ああ、良かった」

さとえは少しスキップをして帰って行った。

レルはホテルの部屋の荷物を全部まとめて、その足で帰りの電車に乗った。

上はアクリルセーター、小さなお尻にはラングラーを穿いている。

誂えた事件だった。これを記事にしてもどうにもならないんじゃないか。

眉間に指を当てて考えていた。手帖の中身はほとんど頭に入っている。

電車の中がうるさかったので、手拭いを巻いて寝た。

皆、通勤の夜明けだ。

駅でたけるの雑誌社の雑誌を買った。後で読んでみようと思う。

あまり喜んでもらえなかったが、手拭いを配った。

「・・一―6、知ってます」

西弥生子に会わせたのは真神ふゆだった。

そのマンションでは倉庫になっていた。建て替えられたような、そんな容莉枝の住んでいた部屋。

「弔ってやらないとな」ふゆはしゃがんだ。

レルは白い磨りガラスの窓に寄った。露を指で落とした。

ふゆはこの部屋の鍵を西に返すのを忘れたようだ。

マンションから出て、道を歩く。

まつりの糸がゆっくり解けるように事態が揃った。

「すぐ戻る」ふゆが社用のフィーチャーフォンを手にどこかへ行った。

たけるの雑誌でも小説をやっていた。一話読んだだけでは分からなかった。

夜通し働いていたので日光が目に痛い。

住宅街の中にパン屋がある。

レルは入ろうかどうか迷った。

赤ん坊を殺して、容莉枝は自分の記憶が薄れていくのを待っていたのかも知れない。パンドーラーに残っていたのは死だ。

記憶が薄れていくことは砂を足で蹴散らして海がなくなるのだろう。

この線路色の空は煙草の燃えカスみたいだ。

車が横へ左へ流れていく。レルは財布を見た。記事が間に合わなかった罰金でパンを買おうか。

レルはパン屋に入ってフランスパンを買った。レジ袋に財布を入れた。

ふゆにパンを持たせ、マンションを見上げた。住宅街の屋根の上から目立つマンションの容莉枝と赤ちゃんが住んでいた部屋の窓が見えた。

車の列が横断歩道で待っている。黄色い帽子の小学生たちがしっかり手を上げて渡って行く。

こんな世界にしたのは誰なのか。

自分の目が自分の目じゃなくなったような寒の戻り、通る車も先が見えない交差点を見てた。

ありがとう、に続く言葉がなかった。

自分がバラバラになるような不安を感じてレルは自分の体を抱いた。



ロサンゼルスライツ


babble


 真神ふゆと赤内レルは大学生死亡事件に駆り出されていた。

ちょうどその頃、フーストマンは日本行きの機上にいた。

「帰国直後に死んだっていうんだろ」新聞記者が集まっていた。

「意識不明で運ばれたみたいです」

ふゆは手帖に書き付けている。

「家から?」

「この家からです」

ふゆは巨大なマンション群を見上げた。

「これ家か? どう見ても一つの街・・」

「郊外型ですね。この頃、増えてます。ここのロングイーストにお住まいだったとか」

「一人で?」

「母親とです」

「話、聞けるのか?」

「今は無理みたいです。警察、入ってますから。その母親・・、ルーマニア国籍らしいです」

ふゆは何回か振り返りながら、レルと社に戻った。

男子大学生の名は多栄枝健四郎たえだけんしろう、その母親の名前は雲母きらら、か。ふゆはボールペンの先を舐めた。

レルはデスクの上の片付けをしている。

椅子を滑らせて、ふゆの真横まで来た。

「まだ、思ってます?」

「何が?」

れるはちょっと笑った。

「ふゆさんの、予感ですよ」

「ああ、思ってるよ」

「また、話してくれませんか?」

「初恋の人が現れるってアレだな。不思議だよ、そんな事、急に思い始めたんだ。何かの啓示かな。あれは小学生の頃だった・・」

レルは笑って、椅子を元に戻した。

記事を書いてるかと思ったら、何かテキストに書いている。

「何だ、それ」

「ボールペン字です、習い始めたんですよ」

ふゆはフンと鼻を鳴らした。

「六十の手習いです」

「お前もう60か」

「ええ」

レルは直角にボールペンを持って、姿勢を正している。そのために片付けたのか。

ファックスの音がした。

「俺が取ってくる」ふゆは送られてきた紙を見て何か肯いた。

「健四郎、ただの禁止薬物だ。部屋に置いてあった袋が開いてたんだと」

「どこで手に入れたんでしょうか」レルはまだ手習いをやっている。

ふゆはデスクに着いた。

「外国だろうな。これじゃ警察は国際問題だから簡単に口を開かないよ。サツ回りだな」

「新人の頃、よくやりましたね」

雲母は畳敷きの狭い居間にいた。

声をかけてくる者は誰もない。

このマンションに越してきた時には日本語もまともに話せなかった。

「何で日本に来たの?」

「ルーマニアってどこ?」

答えられないまま近所の奥さんには無視されるようになった。

健四郎に外国旅行を認めたのもそこからだった。日本ではない国を見てほしかった。

ここで健四郎を育てたのだ。

「ケン・・」雲母は開いたままの健四郎の部屋のドアを見て頭を埋めて泣いた。

「何を見ても秘密にしろ」フーストマンは旅行中に知り合った健四郎にそう言った。

健四郎は肯いた。

絶対に成功すると銀行強盗に誘うが断られた。

「君の物語を書きたい」

日本に来たのは健四郎が死んだのを知ったからではない、知っていたのだ。

フーストマンは異能を持っていると自分で思っている。前もって知ることができる。ビジョンが見えるのだ。

翌日の新聞にはストレッチャーに寝かせられて運ばれていく健四郎の写真、あと事件の概要だけ載せられて、禁止薬物のことはまだ伏せられていた。

「どういうドラッグだったんですか、やっぱり外国製ですか?」

「何も教えられないよ」警察には手であしらわれた。

ふゆはため息を吐いて立ち止まった。

通る警察、通る警察に手当たり次第声をかける。

レルはマンションの聞き込みに行ってるはずだ。

レルは近所の部屋に事情を聞きに行ったが、もう他の社に先を越されたみたいで出てくる人、出てくる人はもう取材合戦に飽きていて、「何も知らない」と呆れ顔で言うだけだった。

レルは健四郎と雲母の部屋のドアの前に立った。

インターフォンを押そうかと指を伸ばしたが、それは新聞記者のやる事ではない。

面白い事が一つ分かった。話が逸れた時、話してくれた人がいた。

ここ最近、母親自殺が後を絶たないというのだ。

原因はまだ分からない。ふゆが一つの街と言ったこのマンションではいつでもどこかで水の音がする。

ふゆがマンション前の駅で降りると、外にレルがいた。

「面白い事が・・」二人同時に口にした。

「ふゆさんからどうぞ」

ふゆは手帖を見た。

「あの大学生、母親に手紙を残してたらしい。内容はまだ分かっていないが。あともう一つ、禁止薬物は透明な袋に入ってたがその袋が小麦粉ぐらいでかいんだと」

「私の方も」レルが連れて来たのは線路をまたいだ遮断機も信号もない小さな踏切だった。

「いわゆる勝手踏切だな。生活道だから自分らで開けたんだ、取り壊すわけにもいかないからな」

「そうです。最近もここでお一人・・」

ふゆはレルの話を聞いた。

「母親が自殺を取る原因、ね・・」

それとは関係なく、ふゆは踏切の前の花に体を傾けた。

「俺は、何かこの事件が全ての始まりだと思えるんだよな」

「何の始まりですか」

「赤ちゃん投げ落とし」

「誰も投げ落とされてませんよ」

「言葉の塔がさ、崩れた時に、人類は言葉が通じなくなった。そこから何か始まってるような気がするんだ」

「ルーマニア国籍の母親は孤立していたらしいです。近所の母親からも詳しい話は聞けませんでした」

勝手踏切の上を警報もなしに電車が通った。

ふゆはその場にしゃがんだ。

「後は薬物の出どころだな」

「健四郎はそんな事をするような子だったんでしょうか。お母さんに手紙を残すくらいなら、」

「それが分からん。誰にも興味ってのがあるからな。やれやれ、」ふゆは立ち上がった。

ジャブジャブと素麵を洗っていた。

「もうすぐ蝉が鳴くね」母が子に言った。

まだ幼い子供は母親の方を見ただけだった。

「ズルル」とすするその音にも水の音があった。

「俺が押してやるよ」ふゆは何の躊躇もなく雲母の部屋のインターフォンを押した。

鍵が開く音がした。

「失礼ですが、お話を伺いたいのですが」

「警察の方、ではないですよね」

「新聞の方です」

「お引き取り下さい」

ドアが閉まりかけた。

「健四郎さんのために、話して下さいませんか」

雲母はドアを開けた。

暗い。明かりがついてないばかりか窓も閉め切られ日の光がこの時間では届かないのか。

シャーシャーと、上の階だろうか水が流れる音がする。

雲母は東アジア系だったが、日本人とも違う。

「椅子の方がいいですか」

見回すと椅子は食卓にしかない。

「畳でいいです」レルは何となく慮った。

雲母は終始、下を向いていた。

「そんな事するような子ではないと」

雲母は肯いた。

「これが私に宛てた手紙です。警察の方が返してくれました」

一枚の紙きれをふゆとレルの膝の前に置いた。

まず、レルが手にした。

「お母さん、ありがとうねありがとうね」としっかりした文字で書かれている。

ふゆにも渡した。ふゆはジッとそれを見つめていた。

レルは少し逡巡した後、雲母に向かって、「男の子は話し方が母親に似る、といいます」と言った。

「似ていますね」

「あの子は煉獄に行った。親より先に死んだ子は・・」

レルが目を移すと、机の前に典礼聖歌集が置いてあった。

ふゆは肯いて、手紙を雲母の前に返した。

「ありがとうございます。お母さんもあの袋には気付かなかったのですね?」

雲母は肯いた。

「ありがとうございます」二度言って、その部屋を後にした。

後ろでチェーンがかかる音がした。

「字、うまくなったか」

「やっぱり走り書きですね」

電車で帰ろうとすると勝手踏切の向こうでパトカーと救急車が止まっている。救急車が何も運ばずに帰っていった。実況見分が始まっている。

あの素麵を茹でていた母親だった。

また一つ花が増える。夏の花が。

ロングイーストでは今日も水の音がする。今日も引っ越しの業者が止まっている。

雲母は真っ赤なチェーンバッグを持って外に出た。

言葉の塔がさ、崩れた時にさ、人は思い出すんだよ。

言葉が音に変わる。

ふゆは駅からでも見える巨大なマンション群を見上げた。


 居酒屋でレルは豚骨をすすり、その隣でふゆは魚の骨を取っていた。

「昨日は本当、頭に来ました」

「何で?」

「あのホームで踏切見て、女子高生たちがヤバイって口々に言ってたじゃないですか。そういうの大人の言う事じゃないと思うんですよね」

「みんな正しい道を求めてる」ふゆはやっとホッケを口に入れた。

「そんな馬鹿じゃないさ」

「んー、でも」

「ベジるか」置かれたチョレギサラダをふゆは二人の前に置いた。

レルは吹き出した。

「明日はマジいい日」

「明日もサツ回りですか」

「そうなるかな。この頃は制服を着崩さないのがハヤってるらしい」

「ずいぶん女子高生事情に詳しいですね」

「新聞に書いてあった。海外では新聞記者にも個性があるらしい」

「その人の色っていうんですか」

「そうだな、あっちではジャーナリストだもんな」

「何かかっこいいですね」

ふゆは肯いた。

「俺たちは骨抜きのジャーナリストだよ」

次の日の朝、ふゆとレルはロングイーストまでの電車に乗っていた。

「夕べのジャーナリストの話の続きなんですけど、グリーンボールとキャベツの違いは?」

電車が揺れる。

「知らねえよ」

「グリーンボールはキャベツの一種です」

「グリーンボール自体、知らねえよ」

「じゃ、ウインナーとソーセージの違いは?」

「ウインナーもソーセージの一種だろ」

「バレましたか」

レルは満足げに窓の外を見た。

二人は健四郎の旅行の詳しい日程を聞きに来たのだ。サツ回りは誰でも嫌がる。

「て、かざしてもいいですか」雲母は真っ赤なチェーンバッグを手に駅の階段の上で、電車にも乗らずに行き交う人々に声をかけていた。皆、気味悪そうに避けていく。

「て、・・」

ふゆとレルだった。雲母は手をひっこめて俯いた。

ふゆは何も見なかったように通り過ぎた。レルも振り返り、ついて来る。

「何されてるんですか、あれ」

「手かざし。宗教だよ」

「話、・・」レルはまた振り返る。

「見てやるな。もう」

ふゆは割り切れない思いを胸にロングイーストまで行った。

「何しに来たんでしょう」

「サツ回りした方がよかったかな」

怪しい外国人が確かに下から雲母と健四郎の部屋の方を見上げている。

「エクスキューズミー」ふゆが声をかけた。

「何かご用ですか」

ふゆとその外国人は英語でやりとりしていた。

ふゆが首をひねって戻って来た。手には開いた手帖を持っているが、何も書き付けていない。

「フーストマン。彼が渡したんだと」

「何を」

「薬物。健四郎は死にましたか、だと」

「近くの首突っ込みたがりじゃないですか」

ふゆは黙った。ボールペンで頭を掻いている。

「こうなる事を知っていた、とも言ってたな」

「えー、何それ」

「もう一度聞いてみるか」

「ふゆさん、英語喋れるんですね」

「新聞記者。それぐらいやれるよ」

「私だけだと思ってた」

フーストマンはまだ何もせずに立っている。

今度はふゆは手帖に書き留めていた。

レルも横に付いて話を聞いた。

「じゃ、あなたが健四郎くんを殺したんだと?」

「こうなる事は前から決まっていました。日本語、ちょっとだけできます」

「いや、英語で」

「邦画研究会で日本語学びました。東京物語、ね。私が日本に来ることも知っていました」

「ビジョン?」レルが聞いた。

「私には見えるんです。未来が。だから彼の話も赤顔をつかまえてにまとめるつもりです。そのために取材に来ました」

ふゆは離れて、ボールペンで頭を掻いた。

「赤顔、日本人のことね」

「どう思います、ふゆさん」後ろからふゆに小声で聞いた。

手帖には何も書かれていない。

ふゆは首を振った。

「サンキュー」レルは言って、ふゆと共にロングイーストの中に入った。

薄暗い死角でレルは様子を窺った。

「まだいますよ」

「放っとけ。超能力ってのはまず外れるんだ」

二人は雲母の部屋の階まで上がると、上から庭を見下ろした。

フーストマンはもういなかった。

「私たちと話しに来たんでしょうか」

「まだ信じてるのか」

マンションの廊下で奥さん達が立ち話をしていた。雲母のことだろうか。

「ちょっとすみませんが・・」ふゆが事情を聞きに行く。

奥さん達はひるんだように黙ってしまった。

レルは雲母の部屋の前にいた。

ふゆは話を聞き出すのがうまい。同じ女同士だと有利になることもあるが、口を噤んでしまうこともよくあることをレルは知っていた。

「昨日、死んだ母親のことだった」

「何ですって」

「幼い子供を残してとか何とか。取れないんだ・・、母親が言ってたらしい」

「取れない?」

もう一回、ふゆは下を見下ろして、手帖に何か書いた。

「ふゆさんも信じてるじゃないですか」

「いや、気になるなと思ってな」

「何か秘密の暴露でもありましたか」

「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。あいつが言ってた」

「聖書の一節ですね」

雲母はまだいるだろうか。

勝手踏切にはピンクのゆりが立ててあった。

「これもキリスト」

聖書によくマリアの象徴として描かれる花だ。

「初恋の人ってこんなきれいでした?」

「今はどうなってるかな」

「ふゆさんもおじさんになりましたからねえ」

勝手踏切を件の女子高生たちが通っていく。頭を色とりどりに染めて、その内の一人がふゆを見て、髪をかき上げた。

「頭では主張してるな」

「カンフレー」女子高生たちがマンション群に向かって去っていく。

「カンフレって?」

「完璧な友達とか、かな? 本物の女子高生には敵いませんね」

「あ!」ふゆは大声を出した。

「フーストマンが禁止薬物のことを知っていたのはなぜだ」

「確か、新聞には載ってませんよね」

二人は急いでロングイーストに走って行った。

「しまった」ふゆはがっくりしている。

「ネットか何かの噂じゃないですか、色んな事言う人いっぱいいるから・・」

「だといいんだが、このマンションまで知ってるとは」

「そんなのネットで調べれば一発で分かりますよ」

駅の夕暮れ。

帰りの電車で二人は女子高生たちに囲まれて立っていた。

「女性蔑視って感じるか」

「そんなのかねてから感じてますよ」

「どんな」

「女性だからって差別されたり、結婚するから重要なポストに入れてくれなかったり」

「そんなのまだいいよ、目に見える。女性蔑視の最たる例は視姦だよ」

「電車の中で・・」

「男は女を見たら考える。裸にしてあれやこれや、男の頭の中はディープフェイクなんだよ」

「ああ、あの顔だけ取り替えて映像処理するやつですよね」

「ポルノ地獄だよ」

二人も降りる駅で女子高生たちも喋りながら降りていく。

「遊びに来たのか。制服のままで」

「あんなにスカート短くして」

「女子高生にも使い分けがあるんだな」ふゆは油のついた顔を覆った。

この街にも一回洗っただけでは取れない汚れがある。

月の波。

無灯の乗用車をパトカーが追いかけていた。

天才は理解されない。フーストマンはホテルで足を伸ばしていた。

「そうだ、車を線路に置いて、逃げるんだ。電車がぶつかるよ。安草(やすくさ)」

ふゆと並んで歩いた魚屋の前を一人で通った時、「あ、ちょっと奥さん」と声をかけられた。

一人にんまりする赤内だった。


dabble


 やる事ないからネットニュースを見てた。

ふゆは何の鳥を見ても、ヒヨドリか? と言う。

「一人で男性血を流し死亡、か」

途中まで読んで、ふゆが出社してきた。

「路上で男性が一人、倒れてたみたいです」

「そんな事件いくらもあるよ」ふゆは新聞紙を置いた。

「俺、結婚するよ」

「えっ、初恋の人とですか」

「そうです」

「おめでとうございます」

レルはまだネットニュースを見ていた。

「ま、まだ出会ってもないんだけどな。それより、今日はサツ回りの一日になりそうだぞ」

「何か分かりましたか」

「雲母が事情聴取された」

ふゆは雲母の方に詰めていて、レルは昨晩、起きた列車衝突事故の方を追っていた。

雲母の方は長引いているのか、なかなか取調室から出てこない。

「フー」

レルが疲れた様子で戻ってきた。

「ディープフェイクらしいです。容疑者は。摘発しようと思って、追いかけてたら見失って、電車と衝突した車だけを発見。それより美術品移送の愚痴をさんざ聞かされました」

「裏でポルノね」

「今夜、100年ぶりくらいに美術館から美術館へ作品が移送されるみたいなんです。こっちにとっては迷惑な話だって」

「で、容疑者の名前は」

「安草」

「今の時代に移送車、強盗する奴はいないだろ。映画じゃあるまいし」

「車を燃やすってアガーサみたいと思いませんか?」

「アガーサ?」

「ほら、あの小説の」

「ああ、あれか。そういえばそうだったな」

「不思議な縁ですねえ」

雲母の方はまだなのか、ふゆは椅子に寄りかかって腕を伸ばした。

「それより、被害者だけ名前が出るのはどうしてなんでしょうね?」ポツリとレルが独言を言った。

フーストマンは移送品を狙っていた。

今夜遅くに通る道を何度となく行き来した。こうなる事は前から知っていた。

警察は安草の件で大わらわになって手薄のはずだ。重大インシデントだもんな。日本人は電車に厳しい。

一番のお宝は最前列にある。油絵だ。フーストマンは下調べもせずにそれを知っている。

雲母が出てきた。

「どうでしたか」

「家に帰らせて」そう言ったきり、雲母は警察車両に送られていった。

「サツ回りってのは結果が出ないから新人に任せられるのかなー」ふゆは不満そうだ。

ジャージャーとロングイーストで水を流して、雲母は皿洗いをしていた。

油汚れが落ちない。

日が差してきた。

いつもこの部屋からは日が横へ暮れてゆく。

この家がいけなかったのだろうか。

買った時はピンク色の壁と積まれた石の駐車場、憧れていたテラス窓。あんなに気に入ってたのに。

雲母は手拭いタオルをグッと手で握ってくちゃくちゃにした。

「美術館に置いてあるのって個人でも買えるんでしょうか」ふゆとレルは昼盛りのロングイーストに来ていた。

もうシャワシャワと蝉が鳴き始めている。

「考えてみたら?」

「出せません」

雲母に今一度、事情を聞きに来たのだがどうやら外れらしかった。

「心理学でも学んでおけばよかったかな」

「どうしてですか」

「子を亡くした母親に事情を聞くなんて」

「そんなのどんな心理学にもありませんよ」

「俺の分かる心理学は、買い物だけが誕生日じゃない、ことだけだな」

事態は刻々と変わる。錯綜してよじれて輪になっているウロボロスだ。

フーストマンが例え異能でも、フーストマンは停めた車の中で職質を受けていた。

「この車はどなたの物ですか?」

「いえ、借りまして」

見回りは前後左右見て、何か書き付けている。

「ちょっと出てきてもらえませんか」

フーストマンは素直に従った。

「外国の方ですよね、こちらには何しに?」

「取材に・・」

「取材? 何の取材ですか?」

「いえ、小説でも書こうかななんて」

「小説?」見回りはいぶかしそうに眉をひそめた。

「どのような小説ですか?」

「あー・・」

見回りが無線機を取った。何か報告している。もう一度、車の後方に回ってじっくり見ている。

「ご面倒ですが、署まで来ていただきます。事情、聞くだけなんで。日本語、お上手ですね」

「ちょっとだけ」フーストマンは指で何かつまむ真似をした。

今も私は視姦されてるのだろうか。

人はこれが今日の運命かと受け止めるほかない。

彼らには寄る辺があるのか。それが漁師という意味なのではないだろうか。

聖書のことを考えるなんて柄でもない。

氷結したような空から残光が降りとどいている。

水の音がどこからかする。

黒い車列が行く。美術品を持って。

朝は遠い。


「ふゆさん、火事です!」

「火事?」

「この近くです」

「え!」

「この近く・・」レルはロングイーストの地図で口を隠した。

ふゆは怒って椅子を戻した。

「放火、だそうです」

二人は焼けあとに立っていた。

「全焼。調べでは、遠江(とおえ)毬(まり)、女子中学生が自宅に放火。家族三人は無事です」

「身柄は?」

「一応、警察」

「行ってみるか」

まだ夜明け、薄紫の雲が漂っている。

「禁止薬物が出たんですか!」

毬からはごく微量の薬物反応が出た。

フーストマンは明け方まで事情を聞かれ、やっと外に出た。

その足でロングイーストまで向かった。

ビジョンが間に合わなかっただけだ。今回は。

フーストマンはスケッチブックにロングイーストを描写した。

飛行機の中で書こうと「赤顔をつかまえて」もスケッチブックに書いた。

「健四郎と同じ薬物ですか」

「そこまでは教えてくれなかった」

二人はロングイーストに来ていた。

「フーストマンも署にいたらしい」

「あの?」

「禁止薬物の話は出なかったかと聞いたが、出なかったと」

レルが自販機で冷やし飴を買ってきた。

「事件を整理しよう。旅行生が死亡、禁止薬物。フーストマンが自供、秘密の暴露。何て言ってたっけ?」

「前もって知る」

「続け様にまるで待ち伏せしたように美術品移送の通りで眠りこけていたところを職質。健四郎と知り合いになっていたとしたら渡すこともできるな」

「安草の件で警護も手薄になっていたとしたら。今回の遠江鞠の事件は自分が職質から早めに逃れるため」

「どれも推測だな」

「考えてみたら、フーストマンの異能は失敗続きですよ。唯一、成功といえるのは健四郎の死亡。あの外人、何をしたかったんでしょうか。袖にされただけなような気がします」

「自分の異能を確かめるため?」

「ンー」と二人が考えている間、ロングイーストでは母親が水の音を聞いていた。

「シーシーできた?」

「うん」

音は変化するだけ。

男の子が出て行ったトイレで母親は小のレバーを押した。

「取れないんだ・・」

雲母は一人の部屋で座っていた。ここから引っ越すつもりだ。

インターフォンが鳴った。

チェーンをかけたままで応対に出た。ふゆとレルだった。

「もう家財道具ないですよ」

ふゆは頭を下げた。

「て、かざしてもいいですか」

雲母はふゆの頭に手かざしした。住所も聞かれずにドアを閉めた。

フーストマンは空港でオレンジを追いかけていく少年、キッドたちの絵を描いていた。

ビジョンが見える。もうすぐ誰かが事情を聞きにくるはずだ。

「やっぱりあの外人か」ふゆは呟いた。

「職質を終えたら帰るって」

「じゃ、国際便だな」

二人はタクシーで空港に向かった。後は経費で落とされるはずだ。

「取材に来たとも言ってたな。あいつもジャーナリストか何かか」

夏の空に北十字が輝いてる。光を落とす。

「最初っから悪い予感がしてたんだよ」

こうなる事は前から分かってた。展望台から見送るしかできなかった。

「失敗続きは俺たちの方じゃないか。あの時、聞いておけば・・」

天才は理解されない。何たる謎か。

「初恋の人は生きてますよ」

げんなりしたふゆを、レルは笑いながらついて来た。

「かくして私の喪失の夢は」

「後で秘密にする」



Nectar and Milkcup


cold winter


 真神ふゆはサウナに入っていた。

「アー、ここが俺のホームだよ」

ふゆは意味深な発言を残して、湯上りのビールを飲んだ。

出水直見いずみなおみは自供を始めていた。

真神と組みになって取材にあたっているのは赤内レルだ。

「赤内は?」

「さあ。取材じゃないですか」

おかしいな。今日はホームへ行く日だろ?

フィーチャーフォンで呼び出した。

違う所にいるらしい。

「先に行ってるからな」

老人施設で待ち合わせたレルはお洒落をしていた。

「朝シャンしてたなんて嘘だな」

「朝シャンもしました。会う人がいて・・」

「別件でか?」

レルは肯いた。

「また? って感じですよね」レルは老人施設のベランダを見上げた。

「ああ」

この老人施設では陰惨な虐待が日常的に行われ、老人を投げ落として殺害したのが出水だった。

街では「ホーム」と呼ばれている。

潮海舞子しおみまいこっていうんです。その子」

ホームは事件を受けて閉鎖されたが、報道陣のために開放されていた。

「私が以前、担当した記事で、色々な小さな非行事実で、二年、かな」

「更生出所者か」

施設の中はそのままにしてある。ご老人は別の施設に移された。

「心配だったんで、会いに行ったんですよ。本当はとても素直な子で」

「今はどこに?」

「身許引受人のところです。玉田たまだ、玉田、・・何とかっていうおじさん」

「家じゃないのか」

「それが母親が何を言ってもうるせーなって、それは変わりませんでした」

「それが今では女子高生か」

「見て下さい。これ」

車椅子が壊れている。

「横から蹴られたんだな。相当、強い力だ」

出水の他にもこのホーム全体でそのような行為は横行していたらしい。

ブラインドを引くと浅緑の光が入った。

「で、その子は玉田の所から高校に通ってると」

「はい。そのようです。会えませんでした」

「遊び歩いてるんじゃないのか」

白田周しろたしゅうというその当時から付き合っているボーイフレンドがいて、その事は玉田も承知してました」

「見ろよ」

ホームには天井画が貼られていた。

雲の絵だ。

英人えいじんだ。思い出した。玉田の名前」

ふゆとレルはベランダに回った。

「ここから、監視カメラの死角、老人には乗り越えられない柵、四階か」

「オダブツですね」

「何でこんな分かりやすい犯罪したんだろうなー」

「何かが外れてたんですよ、やっぱり。そうでないと人殺せませんよ」

「閉鎖性だな」ふゆはその柵に背で寄りかかった。

「小さな国だ」

レルはホームから見える天満宮の白い鳥居の写真を撮っていた。

「更生とこのホーム、共通点は何だ?」

「奉仕精神ですか」

「きょういくが大切だよ。今日行くところ」

「はあ」

クリスマスロスの漂う街で売れ残りのケーキを買った。

「何で出水だけ?」フルーツフォークでいちごを口に入れながらレルが言った。

「シロクログレー。クロだったのが出水だけだったんだろう。後はみんなグレー」

「茶色ってありますかね?」

「あったらいいな」ふゆは笑った。

社でケーキを食べているのは二人だけだ。

「非行事実のある子供って、大体、学習性無力感なんですよ」

「どこで覚えた?」

「テレビで。初めは普通の子なんです、でも、あれやってもこれやっても無駄で、逃げられなくて、それで遂にはやめちゃうんです」

「努力そのものを?」ふゆは小さな砂糖漬けのチェリーを口に入れた。

「はい、そのものをです」

「あのホームもそうだったのかな。明日は出水と接見の日だ」

「ふゆさんだけですよね。学校に行ってるのかな?」

「玉田の所には何があった?」

「二脚のダイニングテーブル、キッチンと、狭かったです。後は玉田の部屋の襖が開いてて、そこから灰色のベッドだけ置いてあるのが見えました」

「舞子の部屋の方が広いわけか。じゃ、お疲れさん」ふゆはケーキを食べ終わらずに席を立った。

「どこに座ったらいいですか」舞子は一人で産科医に来ていた。

もうお腹が大きい。

「お父さんの名前は何て読めばいいのかな? ひでと?」

舞子は下を向いて黙った。

「おめでとう」産科医の声も聞こえなかった。

母子手帳を貰って帰った。

女の子です。舞子にはどこにも帰る所なんてない。

舞子はショートメールを送った。

手がガチガチに震える。恐怖だ。

エコー写真を母子手帳に挟んだ。

もう顔が出来上がっている。

今日のことは思い出さないようにしよう。

眠っている。

神様なんているわけないじゃん。周が言った。

何をやっても無駄だ。「神様」が選んだ現実なのだから。

悪阻も何もなかった。だけど吐き気がする。この世界にだ。

それ以上に舞子は言葉を知らなかった。

ため息が戻らない。


 新聞を読み終わった。

その多くは事件なんかに巻き込まれないで死んでいく。

その違いは何なんだろうとふゆは考えた。

自社の紙面は通勤の電車内で読む。

そうしないと気が休まらない。

今日も電車は混み合っている。

ふゆとレルはまたホームに来ていた。

外観からベランダの下を見る。

「実況見分の結果、不幸な身柄だったらしい。身よりがない」

「身よりがなくてもこういう施設に入れるもんなんですか?」

「骨の受け取り手ってことだ」

「昨日、舞子ちゃんと連絡がついたんですよ。高校生活を謳歌していてほしいなー」

「俺は接見だ」

「今日のメインはそれですね」

「投げ落としってのは、この星にいろ、ってことだな。落とされた方にゃ地獄が見えただろうよ」

舞子は寂しさの横で床にしゃがみ込んでいた。

そこに玉田が来る。

「やめてよ」

玉田の言いなりに手を取られ舞子は立ち上がった。

ふゆは出水との接見に来ていた。

刑務官に付き添われ出てきた出水は下を向いていた。ふゆは手帖を開いた。

「黙るのは卑怯だよ」

出水は刑務官の方を見て肯いた。

髪は目元まで伸び、たった今起きてきましたような眠そうな目をしている。

「疲れたんです。それだけです」

「いつから続いてた?」

「・・」出水は黙って下で首をひねっている。

「君だけじゃないんだろ? あのホームの様子を詳しく聞かせてくれないか」

「怪文書が来たんです」

「怪文書?」

レルはファッションビルの前で舞子と待ち合わせした。

時計を見るとちょうど舞子が来た。

そのお腹の大きさは隠せるものではなかった。

「驚いたー」

「うん」舞子は笑っていた。

「周くんとの子?」

「うん」

「そうかー、何て言ったらいいか分からないけど、まず、おめでとー」

鏡になっているショーウィンドーの前を通った。

「私たち、親子に見えたりして」

「幸せそうな家族ですよ、三世代」

「お茶しよ、お茶」

「――君が誰でもない理由はない」ふゆは胸の前で両手を組んだ。

怪文書が事件の発覚のきっかけだったらしい。

出水はまだ俯いたままだ。呟くように話す。

「君じゃない他の誰かでもやっただろう」

「そうですかね」

「投げ落とした時、どういう気分だった?」

出水は首をひねって考えてはいたが、答えられずにいた。

「それが今の君だよ」

「結婚はしないの?」

舞子は首を振った。

「どうして?」

「未婚の母親ってかっこいくないですか」

「周くんなら喜んでくれると思うけど。何て言ってる?」

「さあー」

レルは踏み込みすぎたか、とちょっと口を噤んでアイスティーに口を付けた。

この年代は難しい。同年齢の人にしか心を開かない何かがある。

「どうせ他人棒だし」

「え?」

呟くように言った舞子の言葉はよく聞こえない。

「どうして震えてるの」

舞子の肩が泣いているように震えてるように見えた。

「私、悪い事してないよ」

「未成年の妊娠なんて珍しくないよ」ふゆはレルに言っていた。

「もっと喜んでると思ったけど、舞子ちゃんも何か・・」

「事故、ってことだろ」

「出水の方はどうでした」

「結局、あいつは何も知らない。当事者意識がないんだ」

「回避、ですか」

「あ?」

「学習性無力感の続きなんですけど、回避っていう防衛本能の段階があって、かいつまむと記憶がなくなるらしいんですよ。自分に記憶の蓋をして思い出せなくなっちゃう」

「回避ねー」

帰ってきた舞子を玉田は後ろから抱きしめた。

「このままベッドに行こう」

水と時でベコベコになったウッドカーペットは直す気配もない。

私の他にも誰か・・。

頬にキスされる舞子のお腹の中で赤ん坊が蹴った。

「深夜ニュースの悲しい話、か」ふゆはホームの天井画が剥がされるところを見に来た。

煙草を吸って、産廃業者が風を入れてエアコンや天井画を剥がすのを見ていた。

深夜にデスクワークをしていると、レルのフィーチャーフォンにショートメールの着信があった。

何だろう、と思って見てみると舞子からだった。

「血を湯ったよ、英人」とだけ書かれている。

レルに宛てられたものではないことだけは確かだ。

レルは返信せずにデスクワークも放っぽりだしてそのショートメールを眺めていた。

湯った? どういうことか。なぜ玉田に?

「お疲れさんですー。あ、お前一人か」

「これ、どういう意味でしょうか」

ふゆはそのショートメールを見て、すぐに返した。

「舞子ってそう書くんだな」全然、関係ないことを言う。

「次のコラムは若者の言葉の乱れかな」

「あっ、帰るんですか。昨日のケーキ取ってありますよ」

「残りの残りか」ふゆは小型の冷蔵庫からラップのかけられたケーキを取り出した。

「今はまだ分からなくていい」ふゆはレルの頭をクシャクシャにした。

遠い遠いところからSOSが聞こえてくる。

この糞まみれの世界で何が起ころうと雲と空の間のこと。

全部食べてもチェリーの種が残っていた。


red night


 冬は異動の季節だ。

「湯ったってどういう意味ですか、ふゆさん」

「お前の名前、載ってるぞ」

「あ、は、はい」

もう令状をもらっていたレルは、デスクに戻ってきた。

「お世話になりました」

「いやあ・・」ふゆは何か言いづらそうにしていた。

「頑張れよ」

「はいっ」

その夜、ふゆとレルは散歩に行った。

「私、初任地がここだったんですよ」

「運が悪かったな」

「東京の夜もこれが最後ですね」

「どこに行っても新聞記者は新聞記者のままだ」

「どうしたらいいですか?」

ふゆは何か考えていた。

まるで煙草を吸っているかのようだった。

「そのままでいろ」

「この星につかまってですか?」

ふゆは肯いた。

「今日はごちそうしますよ。トマト好きですか?」

レルが連れて来てくれたのはイタリアンだった。

「田舎風家庭料理のお店なんです」レルが先に入った。

「そういえば初めてかも。ふゆさんとこんな風に食事するの」

「初めはワインか」

「料理はお任せにしましょう」

ふゆはメニューを閉じた。

「じゃあ、乾杯、ってわけでもないですね」

「何だ、この丸いの」

「ゼッポリーネです。食べてみてください」

アスパラガスのホットサラダが添えられてある。

「ありがとう」

「え? 何がですか」

「いただく時に言うだろ」

「いただきますじゃないんですか?」

「俺の家では昔からそうなんだよ」ふゆはゼッポリーネを口に放り込んだ。

レルは笑っていた。

「アスパラガスってのはイタリアではつくしみたいなものなんだろ?」

「つくし?」

「春になったらそこら中に生えてるんじゃないのか」

「そうなんですか?」レルはゼッポリーネを切り分けて食べていた。

「私も春になったらあっちでは新型スマホでしょうね。こんな古めかしいの使ってるのうちだけじゃないですか」

レルはもう手になじんだフィーチャーフォンを持った。

「ふゆさんの電話番号バッチシ入れておきますからね」

ラザーニャが来た。

「すごいボリューム」

「食べなきゃ損だな」

「ホテルのシャンプーわざと使い切るタイプ」レルはテーブルナプキンで口元を拭いた。

熱々のまま食べているふゆをレルは見ていた。

「お母さんみたい」

「あ? 何がだ」

「いえいえ」レルはラザーニャを軽くかき混ぜて食べた。

「本当にいいのか?」

レルは食べながら肯いた。

ふゆはテーブルナプキンで口を拭いて窓を見た。

「湯った、てのはなあ、つないだって意味だろ。漢字、知らなかったんだな。結った」

レルは不審な目をして自分の髪を後ろで結う動作をした。

ふゆは肯いた。

その時、レルは何もかも理解した。

イタリアンから出るとレルの口数は少なかった。

「来年も桜は咲くのかな」

外では夜なのに草刈り機の音がしていた。

「私、ちょっと酔ったみたいです」

「親父から昔、必ず人の道は外れるなって厳しく教えられた。でもその一方、簡単に人の道を外れる人がいる。どうしてかな」

「立件できないでしょうか」

「子供はどうなる」

レルは押し黙った。

「長い目で見れば良好な状態を保った方が」

「そういうの保守って言うんですよ。男尊女卑」

レルの目には少し涙が付いていた。

「やっぱり最悪の食事になっちゃった」


 舞子の出産の日は近かった。

レルからしつこく電話がかかってくる。

もうどうでもよくなってきた。

レルが訪ねて来た。

「ここはやめて」

外に連れ出した。

「間違いないのね?」

空には何もない。

舞子は肯くことも首を振ることもなかった。

「私、力になるよ?」

俯いて、レルの胸を押しのけた。

「もういいんだ」

舞子は何も話さなかった。覚えてないのだ。始めはどうだったとか詳しく思い出せない。記憶に重い蓋がしてあるようだった。

ただ、ベコベコのウッドカーペットが浮かぶ。

「覚えてないのね?」レルは舞子と手をつなごうとした。

「そういうの、回避って言って・・」

「うるせーな!」

レルは思わず手を離した。

「・・っていうことがあったんですよ」

「出口が森だっただけだ。表も裏も森」

「そうかも知れませんね」

「そして誰もいなくなった、か」

誰も証言できないことを言っているのだ。

「玉田は糸を張ってたんだな。蜘蛛のように。他に被害者もいるはずだ。余罪」

「それならファイルしてあるはずです」

「誰もが口を噤むだろうよ。子供ができたのはこれが最初かも知れない」

「白田くんの子供だと思ってた」

「もうとっくに終わってるだろう」

ホームだった場所の天満宮に来ていた。

「昔は賽銭、投げるのがもったいなくてな」ふゆは硬貨を投げ入れて、鈴を揺らした。

「私、入れる気になりませんよ」

「それでもいいさ」ふゆは後ろのホームを振り返った。

白い外壁塗装に大きな窓、何階まであるのだろうか?

愛の他に入れる物がなかったはずだ。

「愛の中に神はいないよ。愛は空っぽだから入れるものがない」

「舞子ちゃんの頭も今は空っぽなんでしょうね」気付いたらレルもホームを見ていた。

「自分の子供を捨てるのもいるもんなあー」

小さな星の小さな願い。

「小さなこえが聞こえるか」

秋がまだ空高かった頃、老人がここから投げ出された。

出水は始めから自供している。他の虐待をしていた職員たちは黙っている。

舞子と同じではないか。ただ、記憶があるかないかの違いだけだ。

「逮捕されたら話します」という関係者が多い。犯人が逮捕されないことには声も上げられない。玉田を訴えるのは恐らく不可能だろう。

重くのしかかってくる。この現実が蓋なのか。

ふゆは黙って、ホームにかかった鍍金のような空色を見た。

天井で光が踊る。ふざけて。

舞子は産科医の分娩室に寝ていた。まだ誰もいない。順番を待っていた所はベコベコのウッドカーペットで空気の膨らみを足で押すと、また違う方が膨らんだ。

胎動が始まった。この痛みが子供なのか。

私の股の間で何か人が動いている。何か思い出そうとしていた。

「ちょっと髪が引っかかって」

「もう少しですよ、お母さん」

「安産だねー」

すぐに湯に浸けられ、紐が切られ、産声を上げた。

舞子の顔の横に赤ん坊が乗せられた。

久美子くみこ、久美子です」

舞子は久美子の和毛に指の腹で触れた。まだ赤い。

小さな羽が生えているようだった。

夕日がこぼれる。

やり場のない未来が出口を求めている。

人がいるから神は降りてこないのか。

「怖がらなくていいよ」

赤ちゃんは笑っているように見えた。

私の夜からほんのり朧な星が出た。

久美子はすーっと眠りに入った。手の中で。


white wind


「・・されたってことですか」

「男と女の問題だ」

舞子は玉田の家に寄り付かなくなった。

玉田は眼鏡を折りたたみポケットチーフに入れた。

レルは最後に会うのは舞子と決めていた。

レルの発つ日、朝のニュースの始まる時間、ふゆはサウナに入っていた。

水を飲みに脱衣所に行くと、念のためロッカーに入れておいた社用のフィーチャーフォンにレルからの着信が残っていた。

「どうした?」汗を拭く。

「さよならじゃなくて助言を」

「失敗はするもんだ。意地でもしようって気になるからな」

「ありがとうございます」

脱衣所でキングサイズの焼酎を持ち込んでるおっさんが目にかかった。湯上りのビールじゃ飽き足らなくなった。

「酒飲みてー!」


少し雪が舞った時。

雪が街を形にして、雪が街のように振る舞っている。

「そう。生まれたんだ」

舞子の目の横に楕円形の月が見えた。

「誰とでも寝る女だなんて言わないで」

「記憶が」

紅の――瞬間。

「お母さんの世界に行きたい。ははおや」

「分かった」

見送りには誰もこなかった。

夜のガラスは見詰めるように、レルも見詰め返した。

誰にも見せたことがない目を瞑るこの頃。

何にも分からなくたって思い出せるから。

搭乗橋を渡る時、振り向いて。東京の声だったのかも知れない。

赤ん坊。他人棒とは一体何のことか分からないまま。

異動先は川が近い所だった。

「・・に配属になった赤内くんだ」

「赤内レルです。はじめましてっ」

「さあ、みんな仕事仕事。そんな大した事件は起こらないと思うけどね」

レルは川岸に下りた。

大げさじゃない。日本人の命が指に乗っかっているのだ。

新聞記者は新聞記者のままだ。

垂直に雲が落ちている。

――血を湯ったよ、英人。

だからここに私がいるのかな。

「うっす」レルは思わず頬を叩いた。



神様じゃない


ticket to ride


「だから、やってねえって」

赤内レルは困り果てていた。

レルが赴任したのは美しい街だった。

川縁の小さな公園で、事件現場はジョギング場になっていた。もう死体はない。水の湧き出すところもあって、回り回ってここも川の始まるところになるらしい。

外気に触れると昨夜の痴漢騒ぎが馬鹿馬鹿しい。冤罪ではあったけれど・・。

社屋の三角の窓なんてもう見たくもない。

「それに二回も」

「さー、たまたま」

レルの新しい相棒はのんびりやだった。

「たーけやー、さおだけー」の声がどこまでも呑気なこの街の佇まいを表している。

昨夜一時頃、「友人が刺された」と通報があった。その後に遅れてもう一本。警察が駆けつけると通報者の姿もなかった。警察は口を閉ざして、分かるのは被害者の名前、兼坂礼太郎けんざかれいたろう。ただ、刺殺体だった。

誰に事情を聞けばいいのか。レルは手帖を開いたまま口にボールペンを当てていた。

社に戻ると真神ふゆがいた。

「ふゆさーん」

「おお」

「どうしたんですか? いきなり」

「俺は鞍田眉美くらたまゆみの件で来たんだが、一応、地元で聞いといた方がいいと思ってな」

「私に会いに来たんじゃないんですかあ? さすが耳が早いですね」

「実はここ、俺の初任地だったんだ。パイプもあるし、詳しいから」

「言ってくださいよ」

「鞍田の件は箝口令になってるって本当か?」

レルは肯いた。

「一応、性格が性格ですからね」

レルは刺殺体のあらましをふゆに話した。それに痴漢も。

「見るからに痴漢顔した奴なんですよ」レルはウエッという顔をした。

「変わらないな」

「ふゆさん、鞍田の件で組みましょうよ。今、どこにいるんですか」

「ホテル。局長が現代の象徴だなんて騒いでな、ネタとるまで帰ってくるなって言われてな」

「私には好都合です。鞍田の件と、引き続きこの二回の通報のやつもやりますよ」

「もう殺したよって言ってるんだろ?」

「あくまでも犯人がですから」

鞍田眉美は女子中学生で、ある日、行方を絶った。スマートフォンを解析してみると、SNSで何者かとやりとりしていた形跡。最後のメッセージは「行ってみる」だった。

鍵も置いたままだったので警察はSNSを使った誘拐事件とみて調べていた。眉美はまだ見つかっていない。

今は「遺体」を探している。そうでないと立件もできないからだ。

「あー久しぶり、この感じ」レルはウズウズしていた。

「ふゆさん、早く行きましょうよ、私、場所知ってます」

強引に組まされた形になったふゆはレルと外に出た。

「やっぱりでした」レルは社から支給されているフィーチャーフォンを見せた。

「新聞社ってどこも時代遅れなんですね」

季節は春のお彼岸が始まった頃だった。

「もう一回電話してきたのは犯人じゃないかって思ってるんです、あの刺殺体」

「通報者もなし、か」

ふゆはいちいち手帖に書き付けていた。几帳面だから職業病にもなるのだろう。

「初めは男の声だったらしいんです。二回目のコールは短くて分からなかったと」

「ふむふむ」

ちょうど鳥が通った。

「カエルの産卵ってのは夜、行われるらしい。初めに抱接といってオスがメスにのしかかるようにして背中から抱きしめる。成立したらオスが精子をふりかける」

「何の話ですか」

「暇で疲れてな。川を見ながらそんな事ばかり考えてたよ」

「よくやってこられましたね」

「合わなかったから追い出されたんだろうさ」ふゆは笑った。

「あれが、母親ですね・・」

ふゆは手帖を手繰った。

「鞍田可央里かおりか」

「母親だけはきっと近くにいるはずだって、ああ」

可央里はアイスウォッシュのジャケットを着て腰を曲げて地を這っている。

「サツは?」

「県外も含めて捜索しています。排水路脇とかそういうとこ」

可央里は表情に逃がすことも忘れて錯乱しているようだ。

「ホシが捕まった時どうだった?」

「あの時から始まったんですね」

砂さわぎの自転車が残されている。鞍田の家は田畑の中でヌッと立っている。このところの強風で否応にも悪い予感がしてならない。

ふゆが近づいていった。

「もしもし」

可央里は中腰のまま顔を上げた。手には草刈り鎌を持っている。

「警察の方ですか?」

「いえ、新聞の方です」

「ああ、はい」可央里は腰を伸ばして立った。

「兄弟はいましたか?」

「え? いえ」

「では、あの自転車は眉美さんの物?」

可央里は振り向いてちょっと微笑んだ。

「元気な子ですから」

黒土なのか可央里の爪の間は真っ黒になっている。

「あれは?」ふゆは鞍田の家の張り出した簀の子を見た。何か盛られている。

「ああ、ぼたんです。協力してくださる皆様に」

ぼたもちには手が付けられてないようだ。協力していた人もいなくなったのだろう。

ふゆは頭を下げ、遠くでレルも頭を下げた。

「みんなが同じゴールを目指してるわけじゃない」ふゆはため息を吐いた。

「行方不明時は臙脂色のTシャツを着ていたそうです、眉美ちゃん」

「学校での評判は?」

「何も問題のない子」

ふゆは何度か肯いた。

「現代の象徴か」

遠くではピラミッドのような富士山がネイビーブルーに染まっていた。

誰かの夢の中に入り込んだような気持ち悪さがあった。

「先行き不安、だね」

可央里は一人で山盛りになったぼたんを見ていた。一つしか食べられなかった。

爪の間に入り込んだ土をほじくる。

「ふゆさんが来てくれて心強いですよ」

「カエルの産卵ってのはな、800から2000の卵を産むんだ。蛇のような卵塊見た事あるだろ?」

「あの寒天みたいなチューブですね、気持ち悪い」

「多くのカエルが同じ場所に産むんだ。そうした確率で生まれてくるんだ」

「何がですか?」

「犯罪者。顕在化するのはごく少数だ。SNSはその一線を越えてしまったんだよ」

用もないのに可央里はキッチンに立った。アイスウォッシュは椅子の背にかけてある。春着てく物がそれしかないから。

「お母さんにも友達がいつの間にかいなくなったって経験ある?」眉美が、可央里が皿洗いしている時に聞いた。

目を伏せると、そこにいるようで可央里は目をあげることができなかった。

「言い忘れました。ホシが捕まった時は可央里、私もころして、と言ったそうです」

心の中に冬が降る。季節の瞬間は版画のように写し取ることはできない。

美しい夜明けはこない。

息の詰まるような暗闇が現実だ。

魚が群れに戻ってくるように本流から外れてる。

「私もころして、か」

「こんにゃく米がカエルの卵に見えてきた」

「ダイエットしてるのか?」

「はい。取り柄は料理だけですね」

「痛々しいね」

「は? 私のことですか?」

「いや、事件のことだ」

外ではもう夜が明けている。

「どっちつかずだな。公開捜査にしたらまた何か言われるだろう。SNSで」

ふゆは指先でブラインドを開けた。

いつ箝口令は解かれるのだろうか。


no nation


 眉美の「遺体」は春を過ぎても見つからなかった。

「とうとう口を割りました」

「誰が?」

「二回通報のやつですよ。一回目の電話をしたのが三角(みすみ)秀(ひで)穂(ほ)、男です」

「友人が、ってやつか」

「マサがやった。それだけです、今入ってる情報は」

「マサ? 名前か。仏さんの状況は」

「首と胸を刺されてます」

「じゃあ、そっちに行ってみるか」

「ふゆさん、こっちに越して来た方が早くないですか」レルは襟を立てながらそう言った。

そこからは小さな島に渡る吊り橋が見えた。今は誰も通っていない。

「変わらないな」

「ロープウエーもできたんですよ」レルはしゃがんで公園の地面を見ている。

「地元ニュースでやってました」

汗ばんだ額でレルは立ち上がった。

「何があるんですか、あれ」

「お稲荷さんが一こあるだけだよ」

「はあ」レルは興味がなさそうだ。

「この事件の犯人も、眉美も見つからない」

「夜の通報だけです。暑いですねえー」レルは太陽を見た。

「東京とは気候が違うだろ」

レルは黙って汗を拭いた。鎖骨の辺りにも汗が浮かんでいる。

こんな暑いのに横のジョギング場では足の長さが同じ人が走ってる。

「ここ駐禁ですよ、車で来たら目立ちますね」

「SNSで呼び出したのかな?」ふゆはこの事件にはあまり興味がなさそうだ。

ふゆは欠伸した。

「自分のシーツでしか寝られない人ですか?」

「ん、いや。二度目の通報は犯人で間違いないのか?」

「そんな事、私に聞いたって・・」

なぜか険悪な雰囲気になった。

下の川では鴨が悠々と泳いでいる。

「チーターが喋るとやっぱり早口なのかなあ」

「分からない事が多すぎて不機嫌なんですよ。私、もう嫌だ」

「事件の一部始終を見るのが新聞記者だ。分かることが仕事ではないよ」

「でも・・」

「マニングって知ってるか。アメリカかどっかの会社が作った想像上の記者だ。そんなもんなんだよ、俺たち」

「名前だけあればいい」

「薄っぺらな正義感とか問題意識とかそんなのは邪魔だ。新しい事件が起きたらそこに飛んでいく、事実さえあればいい」

「何か寂しいですね」

「SNSも同じだろ? あれは名前さえない」

「眉美ちゃんは自分のこと、何て言ってたんでしょうか」

「何て言って近づいたんだろうな」

空はにわかに曇ってきた。

「兼坂、だっけ。交友関係は?」

「未婚です。何の仕事をしてたのかよく分からないんですよ」

「まあ、殺される理由があったんだろう」ふゆは吊り橋を見た。

カエルの腹のように垂れ下がった橋は静かに揺れていた。

レルのフィーチャーフォンに電話がかかって来た。

「はい、すぐ行きます」

電話を終えて、ふゆを振り払った。

「眉美ちゃんの件、公開捜査です」


 その翌日から、報道は実名写真報道に染め上げられた。

初めて知った読者は少なくないだろう。全国紙にも載り、「眉美ちゃんを探して!」のポスターはいたる所に貼られた。

「母親がGOサインを出したんです」

ポスターには眉美の写真の他に、当時着ていた物、臙脂色のTシャツ、黒のスニーカー、白っぽいハーフパンツが着せられたイメージ画。それに、事件のあらましとお心当たりのある方はの警察の専用の電話番号。犯人の供述は伏せられていた。

眉美の写真は地黒で、斜視でいつも俯いてるように見える。

開設されたホームページには「もう死んでる」「母親が殺した」、自分の推理だの不適切なメッセージが寄せられた。

「新聞記者はそんなの読むな」

事件が盛り上がると、「協力者」が多く現れた。中には県外の人が探しに来た。可央里は好奇心の的だった。

「顔をさらしてこれだよ」

取材に来る新聞社も多かった。

「ただのムーブメントで終わらないといいですね」

「現代の象徴って言った意味がようやく分かったよ」

付近の住民は嫌がってカーテンを閉めた。

可央里は誰にも声をかけられずにかけずに黙々と探していた。その写真を週刊誌はこぞって「疑惑の母」とした。

ぼたんはもうなく、家の大分後まで草は刈り取られていた。

ある誌が犯人の「もう殺したよ」の供述を引っ張って来た。事件はますます世間の耳目の集まる所となり、お悔やみのメッセージが寄せられた。

「助けてあげられなくてごめんね」

SNSで起きた犯罪は大きく取り上げられなかった。いつか起こるだろうと誰もが思っていたからだろう。

まんまと騙された、眉美の誹謗中傷もSNS内ではあることないことを含めて盛り上がっていた。

何がそうさせたのか。ふゆとレルはのどかだったこの街を振り返った。眉美は影も形もなかった。

夜には可央里は家の中に入る。以前は夜でもカーテンを閉めずにいたが、撮られたことがあるのでカーテンを閉めるようになった。皿洗いをするとあの事を思い出す。

「お母さんにも・・」

あるよ。昔、いじめられてたから。菌って言われて。中学生の頃だった。何か、笑ってた。

「お母さん、人形好きだねー」

だって、人形はお話しもしないし、私のこと知らないでしょ。

可央里は眉美のフィーチャーフォンを大切に持っている。スマホに乗り換えた時、持って帰った物だ。

今も充電器に刺さっている。いつでも眉美と交わしたメールや電話帳が見れる。

あの時、スマホに乗り換えてなかったら、こんな事件は起きなかったのだろうか。友達が持ってるからとそれを許した時は私も眉美も笑顔だった。

こんな事が起きる前は・・。

ふゆはホテルのバス内でシャンプーのノズルを押していた。砂を巻き込んだ髪は一回では洗い切れない。

バスルームから出たふゆは、まずテレビをつけた。

煙草を吸いながらそれを眺めているとDVの果てに無戸籍の子供を産んだ母親のドキュメントをやっていた。

手帖を手繰り、今日のおさらいをやっていると耳にそのドキュメントの声が入る。

「お母さん、大変だったんです」

マサ。逃げ出した。DVの果てに、DVの上に殺すやつもいるだろう。いくらそれが女であっても。マサ、コ?

「だから、私も・・」

ふゆはフィーチャーフォンを手に取った。出たのはレルだった。

「春眠っていってなあ、カエルは卵を産んだ後も山に入って寝ることがあるんだ。その間に卵は他の天敵に食い尽くされちゃう。生き残れるのはその何割かだ」

「もう眠いんです。寝させてください」

「いや、今、カエルのドキュメントがやってたんでな」

「そんなのやってるんですか? はい」電話は切られた。

今日は眠れそうにない。

分からない事が多すぎて、か。よく眠れるな。

ふゆの荷物が開けられることはない。

すぐ帰るつもりだったらダンボールに詰めたりはしない。

光を当てないと死んでしまうんだよ、眉美も事件も。

人の暗闇は照らせない。太陽が何個あっても。

月は静かに何かを待っている。死人のように。


throw eyes


「さっき、人が橋から落ちた」110番通報したのはふゆだった。

駆け付けた警察官二人にふゆはその時の状況を詳しく聞かれていた。

「一人だ」

「詳しく聞かせてください」

「またお前まで警察か」

ふゆとレルは吊り橋を渡っていた。本当にお稲荷さんが一つあるだけで、二人はその帰りだった。

「現場をな、」

「見に来たんですか? あんな時間に」

「午前一時頃、見ておくのは大切だよ。犯人が何を見たのか、やられた方はどうか。SNSの世界には入っていけないけどな」

「で、どうでした」

「青かったよ、ただ、何もかもが青く見えた」

「そこで吊り橋から誰か落ちた」

ふゆは肯いた。

「男か女かも分からなかった」

「人騒がせな」

「ここは恋人たちがよく・・」

「利用するんですか」振り向いたレルをふゆは突き押した。落ちそうになったレルの手を握った。

「今のその顔」ふゆは笑った。

「やめてくださいよ。誤解されるじゃないですか」レルは髪を整えて、息を落ち着かせた。

「落とす気ですか」レルはドキドキした胸を触った。

その後ふゆは一人で吊り橋に来て下を覗いていた。

「また人さらいかい」一人の老人がいた。

「もう出てこないよ」老人も同じように下を向いた。

「ここはそういう所なんだ」

マサだったのか眉美だったのか。

返事もしない。

母の血で紅に染まっている。

レルはふゆがいなくなった吊り橋に来ていた。

ふゆは帰るらしい。

レルは靴に消臭スプレーをかけてきた。

吊り橋の上で遠くにできたロープウエーを見ていた。

ふゆは私のことを初めて愛してた。

奥歯を噛んだ。

水平線には何も映ってない。ただそこに砂上の楼閣が始まろうとしている。

明日を見せてよ。

川の始まる公園でふゆは煙草に火をつけた。

「汚したくなかった、か」

街路灯と手火に照らされて母が揺れている。

川の始まりに下を向いて煙草を吸っていた。大欠伸をした。胸の中に灰が詰まった。


秋の川、トンボ。

「一つもらっていいですか」

ちょうど後ろを向いた時だった。ふゆはおはぎを一つ取った。

「ああ・・」

「ここにも鴨は来ますか」

「秋のお彼岸には間に合わせようと思って」

可央里は立ち上がった。

腕を組んでふゆは見守っていた。日が下がる時だった。

「眉美ちゃんを探して!」のポスターは今も貼られている。

「ひとり歩きしてますね」

「誰だってそう」可央里は汗を拭った。

「おばあちゃんの横で寝な」

ポートレートとおばあちゃんのお骨を横に並べて、母親は丘カロートを閉じた。

音もなにもなくなった世界で男の子に間違われた眉美はピースサインをして笑っていた。



Havenness


coal


「私、帰ってきちゃった」

「お姉ちゃん?」

荻和葉月おぎわはづきは突如、実家に帰ってきた。

家にはまだ結婚してない妹の、水見みずみひよりと父がいた。

さとるさんは?」

夫の覚からは「無視するなよ」のメールだけが入っている。

「お母さんになりに来たの」

葉月の母、彰子あきこは脊椎カリエスを病んでいた。

その死の一報を聞いたのはベトナムツアーでメコン川を渡っている途中のことだった。葉月はツアーコンダクターだ。

最期まであの人が分からなかった。

母が死んだ時に帰れなくて帰ってきた、わけではない。葉月に悼む気持ちはなかった。彰子は葉月にばかり無理を強いる母親だった。

ツアーは代わりの添乗員に代わってもらって帰った。

知らず知らず母の気に入りそうな事を言う自分がいた。

私の母で幸せでしたか?


「ラーク、三つね」

「すみません、売り切れなんです」

「え?」コンビニは新聞記者でゴッタ返している。

「あ、ふゆさん」

ばったり会ったのは赤内レルだった。

「さよならはもう一度の遠回しってホントですね」

真神ふゆは何のことか分からなかった。

「取材はお前一人か」

「はい。うちからは私だけです」

レルはもう残り少なくなったパンを買っていた。ごはんものは売り切れだ。

「そうか。お前、ラーク持ってるか?」

「持ってませんよ。私、煙草吸いませんから」

「ちっ」

みんな荒ぶっている。

しかたない。事件が事件だ。

ここで四人の遺体が相次いで発見された。

そこで浮上してきたのが遠上おちのぼるという容疑者だ。上はあやふやなほのめかす供述を繰り返していた。まるで覚めない夢にいるように。

上は新聞配達員だった。

「被害者の女性たちに関連性はなしですねー」

「場当たり的だし、時間の問題だろ」

「遠は変な事ばっかり言ってますね。気になりませんか?」

「責任能力を狙ってるんじゃないか」

「ん、でも、過去の大量殺人者を崇拝してるみたいな事を言ったり、本丸の動機についてはさっぱり」

上は過去の犯罪者を例に挙げ、自分はその第二だ、と言った。その犯罪者から届いた返事は「精神鑑定も受けずに第二を名乗らせない」だ。

犯罪者同士にも何か関係があるのか?

「いい事をしたと思ってる」その一方で、なぜこんな事をしたのかと問われると、「答えられません」

上に発声障害があるのは早くから報じられた。それが彼を何かに歪ませたのか。

この事件は劇場型犯罪と呼ばれている。テレビや新聞の読者も巻き込む。まるで警察を挑発するように近辺に遺体を置いたり、それは逮捕されてからも続いた。

現場検証では上は手錠をかけられながら笑っていた。

車に乗せられる時、詰めかけた新聞記者たちに今の気持ちを尋ねられると、「教えてくれたのはあなたたちじゃないですか」と言い放った。そのことは新聞では取り上げられなかったが、テレビではそのまま放映された。

上の自宅の家宅捜索も当然、行われた。上は二階建ての家に一人で暮らしていた。

下はリビングに占拠され、上が上の部屋になっていたという。

公開された少ない写真には、おまるが部屋の中に置かれ、幼女趣味の品物が何点か押収されたという。

上の部屋に際立って飾ってあったのは耳を押さえている天使の絵だった。

取り調べを受けている上は頭を前後に振っていた。

動機を聞かれ、耳を押さえた。

「しろ・・」声が聞こえる。

聞きとりにくい声で何か話した。

「あ?」

もう一度、上が口を開くことはなかった。

なさい。彰子の口ぐせだった。

「ちゃんねー、覚さんと何かあった?」

「ただめし食えて楽な身分だな」

新聞を読んでいる父は不機嫌だ。テレビでは四人殺害のどこかの事件をやっている。

葉月も覚ももうアラウンドフォーティだ。

今は別居状態と言えるのだろうか。

葉月は覚に何も不満という不満はなかった。

彰子はこんな冬の日、葉月だけ外で遊ばせてくれなかった。

実家暮らしも悪くない。なぜ母になろうとしたのか葉月にも分からなかった。

ただ、何かうねりのようなものに自分がいる、そんな感覚だけがした。

「いつか、イタリアン行きましたね」

田舎の街にはイタリアの国旗の店。

カラスが散って飛ぶ。

信号機がゆっくり点滅する。

「今、遠は精神鑑定か」

排水路には泥が溜まっている。ここで第一被害者が見つけられた。

濡れた黒い髪を口に挟んで死んでいる女。何かを恨んでいるような。

「物語の世界だったんじゃないか、あいつにとっては」

「人間が死なないとでも思ってるんでしょうか」

「俺の先を見越す力には定評があってな、責任能力あり、死刑か無期懲役、遠は判決を受け入れて控訴をしないと見た」

「死刑になりたくて人殺す人もいましたもんね」

「何か食ってくか」ふゆはイタリアンの看板メニューを見た。

「こういう地元の人たちのお店って入りにくいですよね」

「貝とキノコのポポ、・・これ何て読むんだ」

「ポモドーロ、ですね」

「やめとくか」

ふゆは伸びをした。

「平凡な事件だな」

「え?」

「俺の第一印象」

「理由を聞かせてほしいですね」

「不純物が一切入ってない白にはなれなかったってことだ。遠にはきっと動機もある、悪い事をしたと意識もある、そういうのは汚れた犯罪者だ。生臭い凡くらだよ」

「動機は復讐か何かでしょうか。私たち社会に向けて」

「その内、明らかになるさ」ふゆは欠伸して、ついでに出た涙を拭いた。

「お母さんいなくて大丈夫なの?」

「私だって主婦よ」

「じゃあお小遣いもくれる?」ひよりは手をすりすりした。

「あんたバイトしてんでしょお」

「久しぶりだなー、ちゃんねーの晩ご飯食べるの」ひよりは伸びをした。

目はメコン川のまま。あの日、見た泥色の夕焼けのまま。

葉月は気づくとタンタンと包丁で叩いていた。その音は母に似ていた。

「悪魔が乗り移った」上は医師にそう話した。

「いつごろからですか?」

上の指がピクッと動いて何かを指差した。

医師がそっちの方を向いても、今度は指をかじって子供のようだった。

「何か聞こえますか?」

「声?」上は目を上げた。小刻みに揺れる瞳は何かを思い出しているようだった。

「題名のない殺人だな、これは」

何か深い大きな思い違いをしているような。レルは交差点に立った。

「別居だ、別居」覚は酒を何本空けたか。

純白のようになれなかった子供たちは瞳を閉じて。海の青さをもう一度伝えるために・・。

窓の外には空が広がっている。空を今、海に流そう。

レルの止まったさくら色の瞼。


so long


「不起訴?」ふゆは驚いた。

「理由は明らかにしてません。諸事情を考慮した、ようです」

「そんなものあるかよ、よしっ、取材だ取材」

「ふゆさん、釈明会見するそうですよ」

ふゆは笑った。

「どこまでも劇場か」

遠上は記者たちに囲まれていた。

「人を殺したんですか?」

「他に犯人がいると思いますか」

マイクが向けられる。

ふゆとレルはそれには加わらないで遠くから見ていた。

放射冷却で夜の内、気温が下がりいつになく寒い。

場所は半屋外で二階に続く階段を傘にしている。

ちょうど影になった上は記者たちの背で見えないが何か上機嫌で話している。正面はテレビカメラのために開いている。

「おかしいと思わないか、ああやって犯罪者を得意にするんだ」

「精神鑑定を踏まえてでしょうかねえ」

「しろ・・」

「え、今、何か、」記者が言いかけた時だった。正面から割り込んできた男が上に体当たりした。

ふゆもレルも身を乗り出した。

上はそのまま腹を押さえて蹲った。血が出ている。

「ナイフか」

刺した男は両手を上げていた。その手からナイフが落ちる。

男はその場で取り押さえられた。上は倒れたまま動かない。

「生放送だろう」

誰かが呼んだ救急車の音がした。

取り押さえられた男は「俺はいい事をした」と喚いていた。義憤に駆られてだろうか。

遠はそのまま帰ってこなかった。

刺された遠はそれ以降、名前も伏せられるようになった。

「覚めない夢にいたんでしょうか、あの時も」

「そうだなあ、あいつにとっては夢は現実だったのかもな」

返り血を浴びた記者は靴を取り替えた。


 ベトナムでは走り梅雨のような気候だ。ノンラーと呼ばれる笠帽子を被って女性たちが行き交う。

空には日暈が差して、時はゆったりと流れ、人々には悩み事がないようだ。

川が近く、田畑は潤され、農村地域でも都市部でも水の匂いがする。

ベトナム絵画と言われる安い画商がどこにでもある。それは青だ。

メコン川では小魚がかかり、辛くて酸っぱい料理で痩せた腹を満たす。

木洩れ日の光、生い茂る草の中には蛇が潜んでいる。

いくつかの画商を回って、ある一店に入ると、同じような絵がある。

耳を押さえた天使の絵だ。


「パンにはパンを」

「え?」

「いや、そういう世の中だったらいいな、と」

「珍しいですね、ふゆさんが」

四人の遺体はどれも血が拭き取られた可能性があった。そのことだけが共通点だったから犯罪者は一人だ。

遠はそのことを口にしなかった。

「痛ましい、事件でしたね」

「ドラえもんの頭だけあっても何の役にも立たない」ふゆはガードマンを見ていた。

今、ああして働いているが誰にでも秘密はあるだろう。

「一見普通じゃ分からないんだ。ああいう人たちにも・・」

「したー」レルはフィーチャーフォンで話していた。

「今更、遅いですよね」レルは座った脚の間で手を組んだ。

「遠の部屋から血を拭いた跡があるタオルが見つかったようです」


naught


 彰子がまだ飯島いいじまだった頃、ベトナムを一人旅していた。彰子の母は満州引き揚げ者だった。

「声」が聞こえたからだ。あと、あるビジョンも。

私は蔓が垂れているある一軒の暗い家に入る。そこの前では誰か、若くない女性が掃き掃除をしている。

私は「トルコさんは」と聞かなければならない。

初めからそう決まっている。

畦道のような一本道を歩いていくとノンラーを被った人たちが、ある人は挨拶をして通り過ぎていく。

私は話してはならない。

行き当たった。「水蓮」のような家だ。

女が掃き掃除をしている。

「トルコさんは」

手だけで奥を差した。

入口は開いている。

彰子は手前にあった椅子に座った。

トルコはベトナム絵画の女だった。

「母の絵を」

写真は渡さなかった。

トルコは肯いて、何も言わず彰子の方を向いて描き始めた。

出来上がったのは天使が耳を押さえている絵だった。

「ワンモア」

彰子は一本指を立てて、紙幣をその女の胸ポケットに押し込んだ。

今度は彰子の方を見ないで、少し時間をかけて描いていた。

「ワンモア」渡されたのは同じ、耳を苦しげに押さえた天使の絵だった。彰子は自分の耳を押さえた。

持っている紙幣を全て女に渡して、帰ろうと席を立った。

持って行かないのかと言っているようだ。

「乾くまで待って」

水見と結婚した後、私は葉月という名の娘を授かった。

いずれ、私は死ぬ。

彰子は葉月を自分のスペアとして飼い始めた。

いきなり聞こえてくる声。

背中が痒い。私は穴だらけになって死ぬのだろうか。咳が止まらない。


「そういう感覚があるのは事実です」ふゆとレルは上の精神鑑定をした医師に事情を聞きに来た。

「ゼンチ? 前の知と書いてですか?」

医師はゆっくりと肯いた。

「不思議な感覚は誰もが持っているものでしょう。それが人一倍、不幸か鋭い人たちです」

ふゆとレルは顔を見合わせた。

「そんなはずない」

「見えるものも含めてですか」

「色々、あるでしょう。私は専門家じゃないので分かりませんが」

「そんな専門家っているんですか?」ふゆは笑った。

「この世にはいません」

「どう思いました、あの話」

「どうもこうも・・、」ふゆは首を掻いてため息を吐いた。

「どうやって確かめろというんだ」

「私は信じる方です」

「まあ、いい」

「毎日に満足して生きることですね、それしかないでしょう、人生って」

「前向き発言だな」


「そろそろ帰ったら?」

葉月はまだ実家にいた。

「覚さん、待ってるよ」

「何でだろ? 新聞読むと手が痒くなる」

「さあ、インクのせいじゃない?」

テレビでは四人連続殺傷の続報をやっている。中身はこれまでのおさらいだ。

テレビの前と中の間に神は存在しない。

「チャンネル変えていい?」ひよりがリモコンを手にした。

「おかあさんといっしょ」がやっていた。

寿限無寿限無ごこうのすりきれ・・。

人は誰もが子の幸せを願って名前を付けるもの。

裂けても穴だらけになっても私を呪うのですか?

「見て、救急車だよ」

葉月はわざわざ立つ事はしなかった。

いつまでも傍観者だ。

ウーウー。遠ざかっていく。興味などない。ふゆの家にもレルの家にも聞こえていた。

明けないよるが明ける。白い太陽が降ってくる。黒いバスのように救急車は走り抜ける。

「オフィ、リア」

雪に煙る。

死んだことにも気付かなかった。

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