THEREAFTER

THEREAFTER

          森川 めだか



 十二月の晴れ間、加瀬かせなつこは自分の体を鏡に映していた。


「お世話になります」甲州のなつこ宅に近江に住む従姉妹のまりこ家族が疎開して来たのはその年の夏だった。

蝶よ花よと可愛がられたなつこは目から鼻へ抜ける女の子に成長していて、まりこともよく気が合った。

なつこもまりこも一つ結びにしていて、痩せていた。

自転車で登校していたが、家のこともよく手伝った。

「黄金バット、見に行かへん?」

テレビでは力道山がやっていたが、連れ立って紙芝居に出かけた。

「やめてアハッ」

まりこの冗談になつこは自転車を転げ落ちそうになった。

「裕ちゃんがさ・・」

その日は演目が違った。「雀孝行」と言う。

痩せた膝頭を合わせて、おじさんの話を聞く。

「昔々、石堂寺の仁王の元へ一羽の雁が小鳥たちの親の病気を告げる」

「スズメの子供はすぐに駆け付け、親は助かる」

「しかし、烏の子供は化粧をして、その間に親は死ぬ」

「仁王は親孝行のスズメを誉め、米を食べさせるようにした」

「烏の子供には遠い国へ行くようにした」

飴を買って、「何や、何の話か分からんかったわ」とまりこが舌を出した。


稲刈りの季節、腰を曲げてなつこもまりこも鎌を持った。

「アイタタタ・・」とまりこが腰を伸ばした。

白い黄昏だった。

「農耕は弥生に始まったんやってね」

「今朝、習ったわね」

「その頃も一族総出で手伝わされたんかな?」

「そうなんじゃない?」

「籾すりして、精米して、脱穀も転生と同じようなもんなんかな」

「転生?」

「うち、檀家やろ? おかんが言うてたんよ。いい人にはいい人がおるし、悪い人には悪い人がおるゆうて。そんなん、分かる人には分かる、知っている人は知っていると同じやなーて」

「あかん、うつってもうたわ」

「白米を腹いっぱい食べてみたいわー」

「お正月には餅食べられるよ」

「喉に詰まらせて死んでまうわ」

ハハハハハ、に風が吹く。


「見せて」

なつこは暗い土間でまりこにだけ胸の間を見せた。

なつこは顔を背けた。

「ブツブツができとるなー」

「蕁麻疹よ」

「咳も続いてるし、これ医者に診せた方がいいんちゃう?」


最初に診せたのは「成人病」だった。

「だって、ほら、こんなに痩せてるし、成人病ってことはないでしょう」心配してついてきた母も、なつこもホッとしたのは束の間だった。


「結核?」

なつこは肯いた。

「結核って、あの正岡子規のやつ?」

「それだけじゃないの、私、横隔膜二つあるんだって、おかしいでしょ」なつこは陽気に笑ってみせた。

「なっちゃん」

「まりちゃん・・」

「治るんやろ? 鐘が鳴るなりは昔や」今度はまりこが気取ってみせた。

「盆暮れには腹が鳴るなりで、ケロッとしてるわ」

「そうなればいいね」なつこは急に歳を取ったみたいに俯いた。


「餅、持って来たで」

十五夜、まりこはなつこの床の傍らに草餅を置いた。

「早よ食わな、固くなるで」

「月は出てる?」

「立派な月で、はーよいよい、餅搗いとるわ。早よ食わな」

「まりちゃん、食べて」

「あかん」

「お母さんが心配するから、まりちゃん食べて!」

なつことまりこは抱き合って号泣した。

まりこはなつこの背をさすり続けていた。

もう背骨が出ていた。

咳をしてももう胃液も出ない。

「ほな」まりこは草餅を食べた。

平らげた。

「なっちゃん、もっと欲しくなったって言って来るわ」まりこは障子を閉めた。

「おばさーん」と声がして、母の泣く声が聞こえてきた。

「もうないのよ」騙された母がなつこの膝頭を撫でた。

なつこは鼻から抜ける声で「ありがとう」を言った。


なつこは苦しんで死んだ。

呻いて、もがいて、喉を押さえて死んだ。

「また会おうな」まりこがなつこの手を抱き合わせた。

わずか十日半の出来事だった。

死んでからも爪が伸び続けた。


夏?

逆まく毛。

なつこは異世界を彷徨っていた。

足の平が熱くなる。

地面から夏が湧き上がってくる。

すみれが咲いている。

すみれをチョンと触った。

なつこは紙芝居を見ているかのようだった。

なつこは兎だった。

狸が顔の見えない老夫婦を困らせている。

狸はまりこだった。

まりこは捕えられ、宙吊りにされた。

助けを請うて、まりこは老婆を殺して鍋に埋めた。

「まりちゃん、どうしてそんなひどいことするの?」

「婆鍋食べた、婆鍋食べた」まりこは舌を出して手を叩いて笑っている。

老人は涙を流していた。

体の中から熱が逃げていく。

目が熱い。



 なつこは死んでなお加瀬なつこという名前を与えられて転生した。

ドロンジョに憧れてた頃も遠くなつこの母は結婚しても同居はしないと言う。

なつこは渋々、近江に単身乗り込んだ。

恒久つねひさは無口だが誠実な人だった。

ガードマンをしていた恒久が時たま通りかかるなつこを見初めたのだ。

伊丹いたみ家の人は義母のまりこだけだった。

上品で優雅で、挨拶の時には常にほほ笑んでいた。

恒久が頭が上がらないのはきっとマザコンだからだろうと思っていた。

まりこは斧だった。

住居は三雲にあった。

「草津神話を知っていますか」

嫁いだその日からほぼ恫喝のような口調で言われた。

「鳰海をイザナギとイザナミがかき混ぜた日本を生んだんです」

白ばんばを思い出す。

偏愛。

いつか忘れられ私も愛される。

「それを、こんな、小汚い・・」

住まわせてもらっている、という態度を崩さなかった。

恒久は愛撫も前戯も知らなかった。

ただ陰茎を固くしてなつこの陰部をまさぐるのだ。

「何だこれ?」

恒久はなつこの胸の間のしこりを触った。

「生まれた時からあんのよ」

なつこの胸の間にはひっかき傷みたいな跡もある。

「オバン」

恒久は「ああ・・」とも「うう・・」とも言わず横を向いた。

薄給で何とかやりくりしていたが、まりこの虚飾癖には手が回らなかった。

両方ともまりこを恐れていた。

ある日、帯留めを買うと言うので「出せません」と言うといきなり襲われた。

風呂場に連れて行かれ冷水を浴びせられた。

季節は冬である。

「蜘蛛の巣が張ってるんじゃないかい」手には髭剃りを持っている。

必死に抵抗したがなつこは陰毛を剃毛された。

なつこは泣いているのか震えているのか分からなかった。

灰色の宇宙が女にはならない。

たかが私。

目白。

まりこは帯を直し自分もズブ濡れなのに頭から湯気が出ていた。


育てる自信がない。

なつこは鳰海を見ていた。

今朝、産婦人科に行ったら恐れていたことが起きた。

なつこはその足で三文判を買って恒久の筆跡を真似て堕胎の手続きをした。

まだ形にもならない泡が出た。

総合病院を出る時、呼び止められた。

生活習慣病かと思った。


「影が写っているって言うの」

なつこは胸を切る仕草をした。

「筋腫か」恒久はため息を吐いた。

「それだけ?」

恒久は布団の上に寝っ転がった。

「それだけ? 大丈夫とかそういうのないの?」

恒久は欠伸をした。

なつこは咄嗟に座布団で恒久の顔を塞いだ。

「じたばたしても無駄よ!」

恒久の手がなつこの喉に伸びる。

足も腰を打った。

「あんたの子供を堕ろしたのよ! あんたの、私の!」なつこは手を離した。

「それ、ホントか?」起き上がった恒久は冷静だった。

「お義母さんには言わないで」なつこは泣く事も忘れていた。

「殺される」

「そりゃ、無理だ」恒久は立ち上がった。

なつこは飛び出した。

息が上がる。

その頃にはもう肺に水がたまっていた。


クリスマスは少しだけ夜が深い。

なつこは声をなくした。

気胸のため気管切開した喉からシューシューと音が漏れる。

ヘアバンドを下ろして自分の目に当てる。

お義母さんが手を回したのだろう、病室には誰も来なかった。

天国で待っている。

なつこは泣いたのではない。笑った。


すみれが咲いている。

土踏まずが鳴く。

なつこは一人、鳰海で鵜を見ている。

篝火が焚かれている。

機械的に煙草を動かす。

機械的に動いていく。

高揚する。

石風呂?

目が慣れない。

なつこはまりこのしょった柴に火をつける。

「カチカチ山だからカチカチ鳥が鳴いているのさ」

なつこはまりこの火傷した背にカラシを塗りたくる。

その頬には笑みが浮かんでいた。

春の雨も遠く。

「おはようございます」

「なつ・・なつ・・こ」



 隣には恒久が眠っていた。

お腹の中のまりこと話せる。

なつこはヘアカラーを明るいオートミールに変えてフレンチネイルも塗った。

恒久は手堅い警察官だ。

何のわだかまりもない。


まりこはなつこの関東炊きが好きと言う。

いつしか近江弁が混ざってしまった。

「母さんは横隔膜が二つあるから笑い声も大きいんだよ」と恒久が言う。

指にはエメラルドの指輪が光っている。

鳰海のカワセミと同じ色。

まりこは目下、象の不思議さに夢中だ。

まりこを授かった時のことはよく覚えている。

二人が一つの光になる。

体の中に宇宙が広がってく。

暗黙の宇宙が。

火花が散る。

着床。

地球ほし輪舞ロンド

「又聞きだけどさ」恒久はなつこの腰を抱いている。

「オーガズムと言うんだよ」

埋火。

死の中の生。

埋火が一気に燃え盛る。

なつこは歎息を吐いた。

なつこには腰のザラつきがある。

「乾布摩擦の跡?」

「アトピー性皮膚炎だって。ちっとも痒くないのに」

「ストレス病だよ」

「ストレスなんかないわ」

恒久とはクリスマスの日に結婚した。

肝斑に一番に気付いたのも恒久だった。


「お船」まりこが鳰海のミシガンを指差した。

三雲は鳰海から近いから助かる。

その日はまりこが脱脂粉乳でお腹を壊した後だった。

「今日もホシテングに会った」とまりこは言っている。

「ホシテングってだあれ?」なつこも恒久もまともに取り合わなかった。

「悪童やって。男の子だからしょうがないちがう?」

子育てや、夫の仕事の不安に行き詰まった時、なつこは鳰海を散歩する。

半夏生が可愛い花序を咲かせている。

中立。

ゴマシジミを目で追っていると、サマセット夫人がいた。

サマセットさんは国際結婚で不随者だ。

いつもストックを土に刺して散歩している。

今日も化繊の軽い痛くない服を着ている。

半身不随の体を押していつも「まりちゃん、お元気?」と聞いてくれる。

その日は鼻から抜ける声をしていた。

もうじき近いなとなつこは思った。

そばに座って少しお話をする。

「走った時、脇腹が痛くなるのは?」

「サイドステッチ」

「不合理な人生ですね」

サマセットさんは自分の夫のことは何も言わない。

「ご自愛ください」いつになく手を握ってなつこはその場から去った。


まりこが神隠しに遭った。

いなくなった。

「まり! まりちゃん!」

なつこは喉が潰れた。

恒久も警察で探している。

「なつこさん!」

あすなろを分けて入ると、まりこが畦で死んでいた。

「船に乗ろうとしたんじゃないか?」

「ほら、用水路が・・」

誰もがなつこの前で口を噤んだ。

半身をもがれたなつこは放心していた。


恒久は鳰海に入ったまま見つからなかった。

バーミリオンヒューのポインセチアが暖房の風で揺れていた。

クリスマス・イブだった。

なつこはまりこに渡すはずだったプレゼントをそっと開けてまた閉じた。

冬なのに蝉が鳴いている。

蓋然。

例外中の例外。

天袋に穴を開けて、手ぬぐいをホルダーから抜き取った。

「ついていきます」遺書を残してなつこは手ぬぐいで首を吊った。

月、雪、どちらも降るもの。

エロース。

愛と美の女神。

死ぬことはないだろう。


泥の船が白い陶器になる。

パドルで初日の出に向かって漕いでいく。

涙で滲んだ。

何も入ってないから声が出る。

鼠の声。

血を噛む。

歯が乾いて唇が割れる。

私から私が生まれる。


なつこはオーガズムを感じた。

なつこは微動した。

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