第20話

諦めたい気持ちがなかったわけではない。今も、できることなら時間を戻して妊娠する前の体に戻りたい。遠くから聞こえる泣き声でお腹の中の存在をより強く感じた。しかしそれは恐怖よりも興味のほうが強かった。この子はどんなふうに泣くのだろう。どういう顔をしていてどういう子なのだろう。どんな顔で、笑うんだろう。失うことよりも、会いたいと思う気持ちが勝った。

「産んでほしいって言ってくれて、嬉しかったよ」

なにより華は裕司の言葉に励まされた。裕司はきっと、華に何があってもこの子を守ってくれる。あの時に華は、より強くこの子を産もうと決心することができた。

「それ、本当に…」

「嘘じゃないよ、裕司。連絡しなくてごめんなさい。産んだ後のことも奥様のことも、聞くのが怖くて…もっと早く、言えば良かった」

裕司は顔を覆って嗚咽を漏らした。ポタポタとシーツに水滴が落ちる。裕司がこんな風に泣く姿を、華は初めて見た。華は裕司の肩をさする。

「タオル、持ってこようか」

華が立ち上がろうとすると、裕司は華にしがみつように抱きついた。華は自分の肩口に顔を埋める裕司の背中を叩く。

「僕たち、もっと話をしよう。この子の、お父さんとお母さんになるんだから」

裕司が頷く。お互いにわかり合えていない部分が多い気がする。華は森之宮家のことも裕司のことも、もっと知っていかなければならないし、知りたいと思った。華は裕司の背中をさすりながら、落ち着くのを待つ。グズグズと鼻を鳴らしながら、裕司は子供のように華にしがみついていた。

「あー………格好悪ぃ」

「そんなに泣いてるの、初めて見たよ」

「産まれた時以来じゃね?」 

「そうなんだ?」

裕司の軽口に、華は笑った。何ヶ月かぶりに、肩の力が抜けた気がする。

「恨まれて、憎まれてると思ってた。健司の番になりたいって言ってただろ?」

「僕が?そんなこと、いつ言ったんだろ」

「…は?」

健司もそんなことを言っていた。二人がそう言うということは、華が実際に口にしたんだろう。もしかしたら子供の頃のことかと記憶をたどり、あの家に来たばかりの頃を思い出した。

「あぁ、小さい時かな。健司さんは沢山遊んでくれたけど、裕司は…ゆうちゃんがあまり構ってくれなかったから、そう言った気がする」

二人とも、とても記憶力が良い。華はとっくに忘れてしまっていた。あの頃は先代がいて、健司と裕司と友人のように育ってきた。先代が亡くなってからは二人に敬称をつけるよう翠に指示されて、呼び方を改めた。裕司はいつもよそよそしい呼び方を嫌っていたが。学年が上がるにつれてそれぞれ遊ぶ友達が変わっていき、健司と裕司と関わることも少なくなった。幼い頃はアルファもベータもオメガもなく、健司と裕司との隔たりもなかった。

華が過去を懐かしんでいると、裕司は頭を抱えていた。 

「まじか…言った本人が、忘れる程度のものだったのかよ…」

裕司は顔を洗ってくる、と、華から離れていった。少しして戻ってきた裕司はさっきまでと違い、さっぱりとした顔をしていた。暗い影が取れた気がする。

「今日は、帰る。話ができて良かった」

「また来てくれる?」

「華が起きてる時に来るよ。連絡する。今日はもう寝て…その前に、触っていいか?」

裕司に促されて華はベッドに横たわる。華が頷くと、裕司は華のお腹に触れた。

「またな」

呟いた裕司の表情は柔らかい。華は裕司の手に自分の手を重ねた。

「僕も、この子と一緒に待ってる」

裕司が頷き病室を出ていった。華は温かな気持ちに包まれたまま、眠りについた。

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