第44話:朝日光の日曜日

 朝日光の日曜日は、朝七時に始まる。


「んぅ……」


 身体に染み付いた習慣で、アラームとほぼ同時に目が覚める。


 ほとんど音が鳴る前に止め、次にここが自分の部屋でないことを思い出す。


 自分が寝ているベッドの脇には、床に布団を敷いて寝ている最愛の人の姿。


 未だ目覚めないその寝顔を眺めながら、『いつになったら一緒に寝てくれるんだろう』と考える。


「お~い、朝だぞ~……! 起きろ~……!」


 しばらく寝顔を堪能し終えると、身体を揺すって彼を起こす。


「んっ……あ、あぁ……おはよう……」

「おはよ~!」


 窓から差し込む朝の光を受けて、既に全快の彼女が笑顔で応える。


 この辺りで一度、キスしておきたい気分になるが、寝起きなので一旦我慢する。


 そうして、彼が完全に目覚めるのを待ってから二人で洗面所へと向かう。


 お揃いの歯ブラシに歯磨き粉を付けて、最後はお揃いのコップでうがいをする。


 その後、彼女は一人洗面所に残ってシャワーの準備を始める。


 着替えと新しい下着を先に用意して、パジャマと夜用の下着を脱いでいく。


 浴室に入りシャワーの水温を確かめると、身体を洗っていく。


 最初に洗うのはいつも左腕から順番に、右腕、左肩、右肩、首周り。


 そうして、胴体に差し掛かったところで彼女はあることに気がつく。


「また少しおっきくなってる気がする……」


 自分の胸部に付いた二つの膨らみを確認しながら呟く。


「やっぱり、ちょっと重くなってる……」


 左右の乳房を両手で下から持ち上げながら、更に確信めいた口調で言う。


 周囲から見ても分からない程度の変化ではあるが、確かに大きくなっている。


 プロ志望のスポーツ選手として、自分の身体の変化には人一倍敏感だった。


 そして、運動強度の高いテニス選手としては胸が大きくなりすぎるのは良くない。


 単に重量が増えることに加えて、動きの邪魔にもなりかねない。


 下着で押さえているとはいえ、激しい運動の最中では限界がある。


 実際、邪魔だからと小さくする手術を受けた選手の存在も彼女は知っていた。


「でも、男の子は大きい方が好きだって言うよね……黎也くんもそうなのかな……」


 光は自分のものを見下ろしながら思考を巡らせる。


 直接尋ねたわけではないが、友人たちとの会話で一般論として聞いたことはある。


 例に漏れず、彼もそうであるのなら大きくなるのは喜ばしい。


「そう言われてみれば、あの漫画はどっちも大きかったなぁ……」


 一昨晩押収した本の表紙に乗っていた女性の姿を思い出す。


 自分も同年代女子の中では比較的大きな方ではあるが、あれには及んでいない。


「なら、もう少しくらいは大きくなっても大丈夫だよね……」


 一旦の結論を出し、彼女はシャワーを終える。


 浴場から出て身体を拭き、用意していた服と下着を身に着け、ドライヤーで髪を乾かす。


 洗顔し、化粧水や乳液でスキンケアをしてから軽くメイクを施す。


 母親から『プロスポーツは興行であり、見世物になる覚悟が必要な仕事だ』と教え込まれた毎朝の手順。


 しかし、今は大好きな彼に少しでも綺麗な自分を見てもらいたいという気持ちで行っていた。


 鏡に向かって、一度だけ笑顔の練習をしてから脱衣所を出る。


 部屋へと戻ると、その彼が朝食を用意してくれていた。


 ベーコンエッグにトーストと、その後の運動を考えた軽めの献立。


 トーストに塗るジャムも自分の好きなイチゴのものを用意してくれていた。


 好きが一気に湧き上がって、湯上がりの熱を帯びたまま彼に抱きつく。


 そうすると困ったように笑いながらも受け入れてくれるのが、彼女は好きだった。


 心身の両面で彼を堪能してると、彼に『冷めるから』と言われて渋々と食卓に着く。


 食事中の話題は専ら、今週から始まる夏休みの話だった。


「夏といえば、いよいよだね……」

「うん、いよいよだ……」


 神妙な雰囲気で頷き合う二人。


 夏といえば海に山に、祭りに花火。


 カップル垂涎のイベントが目白押しだが、彼女たちが最も楽しみにしているのは当然それではなかった。


「プラムソフトウェアの最新作が遂に出るんだよね!!」


 そう、二人が最も楽しみにしているのは世界も待ち望む超大作の発売日だった。


「発売日はもう休みにしてるんだっけ」

「うん、お母さんにその日だけはどうにかお願いってすっごい頼み込んだ」

「大会も近いけど、そっちは大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫。プラムゲーは健康にも良いし、むしろやり込めずに中途半端なところで渡米なんてなったら余計にコンディション悪くなっちゃうもん」


 冗談交じりに笑いながら言う光に、彼も苦笑する。


 互いに期待を膨らませながら朝食を終え、食後には軽いストレッチを行う。


 ベッドの上で二十分ほどの柔軟を行い、そろそろキスしたいなと彼の方を見る。


 しかし、彼は何やら真面目な顔でパソコンと向かい合っていたので諦めた。


 母親の光希が迎えに来るまではまだ時間があると、今度は立ち上がってゲーム機の電源を入れる。


 コントローラーを握って、やるゲームは決まっていた。


『SEKIHYO:SHODOWS DYE TWICE』


 毎朝やるのは健康や美容にも良いとされている有名タイトルである。


 最も難しいボス連戦モードでサクっと最後の剣聖まで倒し、程よい肌艶が出てきたところでスマホに通知が届いた。


 母親からのメッセージだと確認し、光が出発の準備を始める。


 それを見て、黎也も見送るために椅子から立ち上がった。


「それじゃ、行ってきま~す!」

「うん、いってらっしゃい。気をつけて」


 一時の別れの言葉を交わし、続いて光が『んっ』と目を閉じて背伸びをする。


 最初は照れがあった行為も今や日常の一部。


 黎也も慣れた様子で彼女の肩に手を置いて、そっと口づけする。


 数秒の接触の後に離れ、互いに見つめ合う。


 感情の昂ぶりが、どちらからともなく同じ行動を繰り返させる。


 そうして、五回ほど繰り返したところで母親からの催促のメッセージが届いた。


 慌てながらも最後にもう一度だけして、光は恋人の部屋を後にする。


 マンションを出ると、母親の車が道路につけてあった。


 すぐに助手席へと乗り込み。


「今週も楽しかった?」


 と尋ねてきた母親に


「うん!」


 と満面の笑みと共に返す。


 車が走り出し、車内では光が母親相手にひたすら惚気話を繰り広げる。


 光希が若干うんざりする程の二十分が瞬く間に過ぎ、二人はテニスクラブに到着した。


 光は自分のロッカールームでウェアへと着替えて、すぐに練習を開始する。


 ジョギングから柔軟運動、コートを使ったアジリティトレーニング。


 怪我で選手生命を絶たれた母の教えを守り、時間をかけて念入りに準備を行う。


 そうして、ウォーミングアップを終えると本格的な練習に移る。


 午前は調子を上げるために得意のストローク練習を重点的に行った。


 実戦に近い形式のラリーでは、まるで機械のように強打をコーナーへと正確に打ち込む。


 次の大会へと向けて、既に調子が最高潮に達しているのは誰の目からも明らかだった。


 光希が『これだから外泊も認めるしかないのよねぇ……』とぼやいてるのも気付かないくらいに集中して、瞬く間に三時間が経過。


 正午になり、備え付けの食堂で昼食を摂る。


 スポーツ管理栄養士が考案した献立を、『少し味気ないなー』と思いつつも完食。


 続いて、応接室へと移動してスポーツライターのインタビューを受ける。


 まずは間近に控えた全米ジュニアの話から、近くに控えたプロデビューの話。


 将来はグランドスラム制覇を期待されているという話にも、リップサービス多めで答える。


 記者への対応を終えて、午後の練習前の隙間時間にスマホを手に取る。


『サポートしてくれてる会社から貰った新しいウェア! どう? 似合ってる?』


 下ろしたばかりの白いウェア姿の自撮りを、PINEで黎也へと送信する。


『すごい似合ってる』


 そんなシンプルなメッセージから遅れること一分――


『めちゃくちゃかわいい』


 やや照れの感じる追伸を受け取って、エネルギーが最大まで充電される。


 そうして、午後の練習も更に集中して取り組み、全てのメニューをこなして帰宅する。


 帰りの車内では、まず黎也に練習が終わったことを報告。


 次に自分のSNSに、今日の一枚をアップする。


 途端に凄まじい勢いで『いいね』の通知が来たところで、自らの累計フォロワー数が90万を越えていることに気がついた。


 表紙の効果はすごいなーと、どこか他人事のように驚きながら、今度は溜まっている個人的なメッセージに返信していく。


 クラスPINEをはじめ、合計で五つの女子グループに加えて個人間のやり取りもあり、その全てに対応するだけでもかなりの時間がかかる。


 内容は概ね、数日後に始まる夏休みの予定について。


 どこに行きたい、夏期講習しんどい、彼氏欲しい。


 そんな会話が連なる中で、ある一つのメッセージが光の目に留まる。


『夏休みに皆で海に行く予定なんだけど、光も一緒に行かない?』


 送り主は友人の桜宮京。


 続いて、具体的な日取りや参加者の名前も記されていた。


 概ね知った名前で、中には男子もいる。


 これまでは異性がいる誘いにはあまり乗り気ではない光だったが、すぐに返信はせずに窓の外を見ながら思案する。


 海、水着、見せたい、かわいい、いっぱい、嬉しい。


 彼女基準で邪な欲望が脳内を埋め尽くす。


『黎也くんも誘っていいなら行こっかな』


 悩んだ末に、光にとっては一番重要と言うべき条件付きで返信。


 すぐに既読は付くが、なかなか返事は戻ってこない。


 もう定員いっぱいだったのかなと、それ以上は気にせずに次の対応へと移る。


 半分ほどに返信したところで、自宅へと到着する。


 夕食を食べて、風呂に入り、後は寝るまでの自由時間。


 ゴロンとベッドに寝転がっていると、ふと『声が聞きたいなー』と思う。


 起き上がり、パソコンで通話アプリを起動すると彼もオンラインになっていた。


『ただいま! 何かゲームしよ!』

『おかえり。何する?』


 チャットを送信すると、すぐに返信が戻ってくる。


『ひりついた戦いがしたい気分だからエスケープ・フロム・グンマで!!』

『了解。前回で結構物資は潤沢になったから今日はPMCでちょっと難しめのタスクを進めようか』


 その後は日付が変わる頃まで、ボイスチャットを繋いでゲームに興じた。


「じゃあ、また明日! ばいばーい! おやすみ~!」

「うん、おやすみ」


 本日二度目となる別れの言葉を交わして、ボイスチャットが切断された。


 すぐに会えるとは分かっていても、この瞬間はいつも悲しくなってしまう。


「ずっと一緒にいられたらいいのになぁ~……」


 ベッドの上に身を投げて、天井を見上げながら独り言ちる。


「はっ……! 同棲すれば解決するんじゃない!?」


 天啓を得て、ベッドから勢いよく起き上がる。


「でも、高校生で同棲は流石に許してもらえないかぁ……」


 しかし、現実的に立ちはだかる壁の高さに気づいて、またベッドに寝転がった。


 ゴロンと横向きになり、動物園デートで撮った写真を眺めていく。


 楽しかったな、また行きたいな、と思い出を反芻している間に眠気が生まれる。


 ウトウトと夢の世界へと落ちようとしたところで、『はっ!』とあることを思い出して立ち上がる。


「お母さん、一階だよね……」


 外の廊下に誰もいないことを確認し、部屋に鍵をかける。


 神妙な顔つきでバッグの中から二冊の本を取り出す。


 表紙には、それぞれメイド服とバニースーツで半裸の女性が描かれている。


 そう、一昨日に彼から押収した年齢制限付きの漫画本だ。


 あの時は彼が居た手前、中身までは検められなかった。


 しかし、光はあれからずっと気になって仕方がなかった。


 ゴクリと唾を呑み込み、本に手をかける。


 テニス一筋に生きてきた彼女にとって、その中は未知の領域。


 何らかの宗教的禁忌に触れようとしているような背徳感を覚えてしまう。


 本当にいいのだろうか……と悩みながらも、好奇心が僅かに勝る。


 そのまま相手コートにスマッシュを叩き込む気持ちで、思い切ってページを捲った。


 ――――――


 ――――


 ――


 十分後、顔を紅潮させた光がクローゼットを開く。


 彼女はその奥からロジャー・フェデラーのサイン入りポスターを取り出すと、代わりに二冊の本を封印した。


 熱っぽいような、悶々とした気分でベッドに横たわる。


「やっぱり黎也くんもああいうこと、したいのかな……」


 脳裏にこべりついた知識として学ぶのとは違う、生々しく描写された男女の交わり。


 イケないことだと分かっていても、つい自分と彼に置き換えて想像してしまう。


「そりゃあしたいよね……男の子だもん……」


 そう呟いて、少し前にこのベッドの上であった出来事を思い返す。


 始めて好きだと言われて、始めてキスをして、始めて身体に触れられた日。


 母親の帰宅で中断されたけれど、あのまま進んでいればどうなっていたんだろう。


 その『もし』を想像すると、全身に火が灯ったかのような熱さに襲われた。


「どうしよう……明日、まともに顔見れないかも……」


 顔を枕に埋めて、恥ずかしさに足をバタバタとさせる。


「う~……私、イケない子だ~……」


 考えないようにすればする程、想像はより生々しくなっていく。


 荒ぶる感情をどうにか抑えようと、彼女は自分のスマホに手を伸ばす。


 そして万が一の時を考えて、通販サイトでバニースーツの値段を調べておいた。


 カチっと時計の針が全て頂点を指し示す。


 こうして、朝日光の日曜日は終わった。

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