第11話
午後十一時半になり、モツ鍋屋は閉店した。
希未は会計を済ませると、志乃を連れて店を出た。一月の深夜は冷え込むが、辛い鍋を食べたので寒さが幾分和らいでいた。
良い気分なのは酩酊状態だけでなく、志乃と楽しい時間を過ごせたからであった。だが――
「ほら、成海さん……しっかりしてください」
「う、うーん……。のんちゃん……」
志乃がそれほど酒に強くないのが、意外だった。
いや、酔いやすい梅酒ばかり飲んでいたからだろうか。今ではもう、にこやかなのか眠いのか、希未にはよくわからない表情を浮かべていた。どちらにせよ志乃の足がふらついているので、肩を支えた。それほど重くはなかった。
希未も酒の強さに自信が無いが、まだ頭は働いていた。だから、このまま解散とはいかないと理解した。
「さあ、家まで帰りますよ。あたし送っていくんで、道教えてください」
終電は午前一時過ぎなので、往復してもまだ間に合うだろう。それに、最悪乗り過ごしたとしても――二駅の距離なので、タクシーを使うつもりだ。
「私のおウチ? あっちよー」
「本当でしょうね……」
希未は、志乃がだらんとした腕で指差す方向に歩き始めた。
この時間でも、飲食店の立ち並ぶ駅前は明るい。暗い寒空の下、少し酔いの入った頭では店の光がぼんやりと見え、綺麗だった。
どこか曖昧な感覚だが、志乃の肩を支える重さは確かなものだった。
「のんちゃーん、かわいいわねー」
志乃からペタペタと顔を触られ、希未は苦笑した。普段は年上や母性を感じさせる志乃も、今は手の焼ける子供のようだった。
食事を一度奢ったぐらいでは到底感謝しきれないほどの恩がある。彼女の御陰で、天羽晶の案件を取ることが出来たのだから。
「またどこか、美味しいお店に行きましょうね」
希未も酔っているからだろう。志乃の肩を支えて歩くも、上機嫌だった。
冷たい夜風に吹かれるにつれ、段々と酔いは覚めてきた。それは志乃も同じのようで、足取りが少ししっかりしてきた頃――店から十五分ほど歩いた頃、あるマンションにたどり着いた。
賃貸不動産のノボリが立っている。暗がりの中、建物は少し年季が入っているように見えた。
「悪かったわね、のんちゃん……。助かったわ」
「乗り掛かった船ですから、部屋まで送りますよ。ちゃんと暖かい所で寝てください」
部屋まで行くのは失礼だと思うが、それ以上に志乃が心配だった。まだ志乃の足が覚束ない。きちんと送り届け、希未は安心して帰りたい。
志乃としても嫌な表情をせず、エントランスのオートロックを開けた。
エレベーターに乗り、七階建ての四階部分で降りた。その一室の扉を、志乃が開けた。
「お、お邪魔します……」
人感センサーのオートライトが点くと同時、志乃が玄関に座り込んだ。
今にも寝息を立てそうな表情に、希未はここまで連れ添って良かったと思った。
「もうちょっとですよ」
「……ちゃんとドア閉めたわよね?」
「はい、大丈夫です」
扉に内から施錠したことを確かめ、希未は志乃にスリッパを履かせた。
玄関からすぐにキッチンは無く、扉が三つあった。壁沿いのふたつは、おそらく風呂とトイレだと希未は思った。志乃の肩を抱え、玄関と向き合う位置にある扉を開けた。
暖かい空気に、エアコンが作動しているのだと察した。そして、暗がりの中――足元で何かが動き、希未は小さく驚いた。
志乃が慌てて内側から扉を閉め、扉の横にあるスイッチに触れる。部屋の灯りが点いた。
隣の暗い部屋にベッドが見えたことから、1LDKの間取りであると希未は理解する。合わせて十七畳ほどの広さだ。建物の外観とは裏腹に、綺麗にリフォームされていた。
「ただいま、ルルちゃん」
志乃と共に視線を落とすと、足元では一匹の猫がふたりを見上げていた。希未は猫の種類を詳しく知らないが、茶色の長毛だ。鳴くことはなく、尻尾を左右に振りながら、きょとんとした表情を浮かべていた。
この猫が飛び出すことを警戒して、志乃が扉を気にしていたようだ。
「へぇ。猫ちゃん飼ってるんですね」
希未の目からは、もふもふしたシルエットが可愛らしく、そして大人しい佇まいが優雅に見えた。割と大きい猫だ。
猫を飼っているというだけで、志乃から『結婚から程遠い独身女性』という印象を受けた。しかし偏見にすぎないので、口には出さないどころか、頭から振り払った。
「ええ。私の大切な家族よ」
志乃が屈み、ルルと呼んだ猫の顎下を撫でた。希未も頭を撫でると、ゴロゴロと鳴き声のような音が聞こえた。
ルルは少なくとも、子猫ではない。おそらく、ここに引っ越す以前から――年単位で志乃との時間を過ごしたのだと、希未は思った。
そう。志乃が引っ越してきて、まだ間もないと思い出した。
その割には段ボール箱が見当たらず、部屋は片付いていた。ソファーにテーブル、テレビ等――最低限の家具と共に猫用ベッドとキャットタワーが、部屋に馴染んでいる。
だが、それだけだった。良く言えば、落ち着いている。悪く言えば、物寂しい。可愛い小物の類が無く、無骨なデザインの部屋だった。
希未としてはなんだか違和感を覚える、奇妙な空間だった。志乃のおっとりとした雰囲気に似つかない部屋だけでなく、何かが引っかかる。
その正体は、すぐにわかった。
「花を飾らないのは、ルルちゃんのためですか?」
フラワーコーディネーターであるにも関わらず、花が一切無い。この部屋に限っては異様な光景だと思った。
とはいえ、植物によっては猫にとって有毒になると、希未は聞いたことがある。猫を飼うならば、何であれ置かないに越したことがないのかもしれない。
部屋に芳香剤の類が無いのも、おそらく猫を気遣ってのことだろう。
「それもあるけど……私ね、お花がそんなに好きじゃないのよ」
志乃が、ソファーに倒れ込むように座った。
まだ酔いが覚めていないのだろう。だが、その様子から希未は、投げやりな否定に聞こえた。
「へ、へぇ……。そうなんですね」
反応に困るほど、意外なのだ。
そもそも、花の嫌いな人間がフラワーコーディネーターとして何年も働くだろうか? あり得ない話だ。
希未は理解に苦しんだ。志乃の経歴や事情を知らないのだから、なおさらだ。
ただ、ひとつ――花を『最近嫌いになった』というならば、まだ納得できるかもしれないと思った。
しかし、
希未は唖然としていると、ソファーに座った志乃がうとうとしているのが見えた。今にでも寝そうだった。
部屋まで送り届けてすぐに帰るつもりだったが、そうはいかないようだ。時刻は午後十二時前のため、まだ余裕がある。
「ちょっと、成海さん……寝るならベッド行きましょう」
ひとまず、志乃のコートとマフラーを脱がせた。志乃には申し訳ないが、化粧を落とすことは諦めた。
そして、ベッドまで運ぼうとして――大切なことを思い出した。希未はキッチンに向かい、グラスに水道水を汲んだ。
「水分摂ってください。二日酔い、ちょっとはマシになりますから」
「うーん……。のんちゃん、飲ませて」
「何言ってるんですか。ほら、自分で飲んでください」
酔っているのか、それとも甘えているだけなのか、最早わからなかった。希未は志乃にグラスを強引に持たせ、口まで運ばせた。
志乃が飲み干すとグラスをテーブルに置き、肩を抱えて暗い寝室まで連れて行った。ベッドに寝かせ、布団を被せる。
ようやく片付いたと、希未は安心した。
おっとりした雰囲気の志乃だが、しっかりしている印象が希未にはあった。酔っているとはいえ、だらしない一面を見たのは意外だった。
だが、決して幻滅はしなかった。むしろ、知ることが出来て嬉しかった。
「おやすみなさい、成海さん」
希未は、ベッドでうとうとしている志乃に微笑みかけた。そして、踵を返して立ち去ろうとしたところ――
「のんちゃん、ちょっと待って」
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