第33話 負い目

「その取っ掛かりになったのが、君と市川の強い繋がりだよ」とハルは市川奏恵の頬に触れた。

柔らかく温かい。ただ眠っているだけのように思えるが、彼女は目覚めない。

ハルは市川から目を離した。


「それは『友情』とも言える」とハルが付け加えると、塩谷あやめの表情がこわばった。

 明確な拒絶を感じさせる反応。

 やはりか、とハルは思った。

 塩谷は肝心なことに気が付いていない。全ての黒幕であるはずの塩谷が、実はまだ知らないことが一つだけある。


「君と市川は幼馴染で、学校でもそれ以外でもいつも一緒にいる程、仲が良かった。そこには決して崩れることのない信頼——『友情』が確かにあった」


 塩谷は、もはや感情を隠そうという意思すら感じられなかった。余裕がない、とも言える。

 たった一つの言葉『友情』

 その言葉が塩谷を昂らせる。

 ここまで冷徹に、残忍に、事を進めてきた塩谷らしくない。


「違うよ」と塩谷が言った。「私たちに友情なんてない。なかった。はじめから。そんなものはなかったんだよ」


 信仰していた神が実は存在しなかった、と知らされた宗教者のような狂気に近い嘆き。


「私たちの友情なんて全部偽物だったんだよ。奏恵は、西田先生を私から奪った。身体の関係があったのに、それを私に隠した。裏で私を嘲笑ってた」


 塩谷は全てどうでもよくなったのか。あるいは、事件の関与を否定するよりも、市川との友情を否定することの方が大事だったのか、あっさりと西田との関係を認めた。


「市川は西田先生から脅されて——

「——そんなこと分かってる! それでも、私に黙っていたんだから、そんなの裏切りだよ。私がどれだけ西田先生を好きだったか、知ってたはずなのに! 分かってたはずなのに!」

「だからこそ、知っていたからこそ、言えなかったんじゃないのか」


 親友の恋人が、実は屑で自分に性的な暴行を繰り返している。そんなことを果たして、告白できるだろうか。

 ハルは無理かもな、と心のうちで結論づけた。

 だが、塩谷は納得のいかない様子だった。「どちらにしても」とゆっくりとかぶりを振った。


「どちらにしても、私が奏恵にした仕打ちを考えれば、『友情』なんて綺麗なもの、とっくのとうに崩壊しているよ」


 塩谷は力なく笑った。


「お前らの仲は、そう簡単に崩れるものじゃないだろ」

「崩れない『友情』なんてないよ」と塩谷は吐き捨てる。「ねぇ知ってる? 世の中の多くの女は、友達よりも恋人を優先するんだよ。なんでだと思う?」


 ハルは考えるまでもない、と反射的に答える。「男性が貴重だから」

「恋人は家族になれるからだよ」と塩谷は言った。「恋人は結婚してより強固な関係を築ける。だけど、友達はどこまでいってもただの友達。いつ関係を清算されてもおかしくない脆い関係なんだよ。私はあの夜に奏恵との関係を清算したの」


 目の前の矛盾した存在にハルはため息をついた。何言ってんだ、こいつ。心底面倒くさい。

 ハルは苛立ちのままに、塩谷のおでこを指で突いた。塩谷が痛みに一瞬顔を歪める。


「関係を清算しただぁ? なら、そのしみったれた顔は何なんだ?」もう一度おでこをつく。

「なら、なんでお前は病院ここにいる?」

さらにもう一度。「なら、お前のその涙は何なんだよ」


 塩谷はぽろぽろとスカートに雫を落としていた。水玉にスカートが湿る。その湿ったスカートを塩谷はギュッと握りしめていた。


「泣くほど後悔するなら、はじめからやるんじゃねーよ」とハルは塩谷にハンカチを投げつけた。


 塩谷もまさか市川が自殺しようとするとは思わなかったのだろう。塩谷としては、殺人の罪を背負わせてみそぎとするつもりだったのか。殺人は重い。ましてや今回は世界的に希少な『男性』の殺害。

 だが、仮に市川が殺人の罪で——冤罪ではあるが——捕まっても、被害者の側にそれなりの非があって、市川には性的暴行から逃れるためという情状酌量の余地があった。重罰は避けられた可能性が高い。

 つまり、塩谷は市川の死までは望んでいなかった。そういうことだろう。


「市川が起きたら謝れよ」とハルが言うと、塩谷は「ダメだよ」と俯いて首を振る。「許してもらえるわけがない。私は奏恵を騙して殺人の罪を被せたんだよ?」


 やっぱりこいつ分かってなかったか、とハルはここに来た本来の目的を思い出した。

 真実を言い渡すこと。それが、ハルがここに来た目的だった。その後、塩谷がどうするかは、ハルは関知しない。ハルから警察に通報することもなければ、学校に報告することもない。

 真実を知って塩谷が救われるのか、あるいはより苦しむのか。それは分からない。分からないけれど、何も知らないで、決断する機会もないままに終わることが正しい、とはハルには思えなかった。



「市川はお前を恨んでないよ」

「そんなわけない」と塩谷が否定する。だが、ハルには確信があった。市川は決して塩谷を憎んでいない。むしろその逆だ。

 ハルが告げた。




「だって、市川はお前に騙されていたこと知っていたからな」




 え、と塩谷が言葉に詰まる。頭の中で思考を回してるのか、塩谷の瞳孔が揺れた。


「おそらく真里亜と一緒に死体にナイフが刺さっているのを見た瞬間に全て察したんだろうよ」


 市川が塩谷の犯行に気付いていたとしても、別におかしなことではない。

 西田先生を殺そうとした日にたまたま別の人に殺されていた、なんてことは普通は起こりえない。意図的にそういう状況が作られた、と考えるのが自然だ。それが可能なのは電話をかけてきた塩谷意外にいない、と考えたのだろう。


「そんな、そんなはずない! だって奏恵はあの後も私に何も言って来なかった!」と塩谷が声を荒げる。

「ああ。市川はお前にも、誰にも、何も言わなかった。警察にもな。死体を見てショックを受けたという体で部屋に引きこもって、自分から情報が洩れないように遮断した。お前のことを警察に言えば簡単に疑いが晴れるのに、そうはしなかった」


 ハルは、なんでだと思う、と目で塩谷に問いかける。

 塩谷は唇を痙攣するように震わせながら、小さく首を振り続けた。その様は、どうにか否定しようと足掻いているように見えた。

 ハルは非情にも追い討ちをかける。









「市川はお前を守ろうとしていた」




「違う」




「そのために江藤先生の殺害と、東堂に無実の罪をきせることを黙認し、そして僕を殺す計画にまで加担した。それは全て——」




「違う。やめて」




「——全てお前のためだ」




 バァン、と塩谷がサイドテーブルを叩いた。切られたリンゴが衝撃で1つ皿から落ちる。


「そんな妄想、聞きたくない」と塩谷が静かにつぶやく。取り乱した自分をなだめるような感情を押し殺した声だった。

「現実の推理なんて明確な証拠や根拠がある方が珍しい。さっき僕はそう言ったけどね。今回はあるんだよ、証拠」とハルはポケットから折りたたまれたコピー用紙を取り出して塩谷に渡した。

 それは市川が書いた遺書の写しだった。

 塩谷がそれに目を通す。





『お母さん、親より先に逝くことをお許しください。

 私は人を殺めました。西田先生と江藤先生。2つの命を奪い、その罪を他人にかぶせて逃げました。許されることではありません。


 今、疑いが掛けられている人たちは無実です。私が全てを惹起しました。本当に申し訳ありませんでした。


 こんなことで許されるとは思いませんが、この命をもって償います。ごめんね、ママ。ごめん、あやめちゃん。


                     奏恵』






「市川は全ての罪を背負って、消えるつもりだったようだな」


 塩谷は茫然自失に、用紙に視線を落としたまま固まっていた。

 ハルは構わず続ける。


「お前への負い目がずっとあったんだろうな。レイプとは言え、お前の恋人と身体の関係を続けていたことへの負い目が」


 遺書の写しを持つ塩谷の手は震えていた。ボタっと小さく音がして用紙に塩谷の涙が染み込み、滲んだ。


「だから、殺人の罪を引き受けて、お前を守ろうとしたんだ。自分の命と引き換えに。これでもまだ、市川がお前を恨んでいると思うのか?」


 塩谷は、「あ」とも「う」とも聞こえる声を漏らした。

 それはやがて嗚咽となり、塩谷は子供のようにいつまでも泣き続けた。

 泣きじゃくる塩谷から目をそらすように、ハルは窓に目を向ける。3月ももう間近となったこの頃は、温かい日が続いている。窓から差し込む日差しは病室内をじんわりと照らしていた。

 時間がゆっくりと流れるような穏やかな病室に、まるで許しを請うような嗚咽がいつまでも鳴り響いた。








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