あべこべ × トリック 〜この男女比の狂った世界で〜
途上の土
第1話 第一発見者
L字型のドアノブを握りしめて、勢いよく引くと、ギギギともガガガとも聞こえる音が鳴った。
心を掻き乱す不快音。職員室の名物だ。
とある女子生徒らがふざけ合っていて強く扉にぶつかり故障した。と、私は聞いている。もう何年も前のことらしい。
とにかく、この騒音が今では教師にとってのインターホン代わりになっているのだ。
この日もそれは同じだった。
「はーい」と職員室に入ってすぐの間仕切りの向こう、『休憩室』から声が投げられる。『室』とは言うがただの区切られたスペースで、教師が着替えや仮眠に使う場所だ。実質、職員室の一部と言えた。一度入ったことがあるが、ロッカーとテーブル、それから置き畳が2畳配置されている。業務が立て込むと、そこで仮眠をとるのだそうだ。
早朝の職員室に、他の人影はない。
声の主、真理亜先生が姿を見せる前に、私は後ろ手に扉を閉めた。
逆の動きでもガガガ、ギギギ。騒がないと閉まらない。
まだ真理亜先生は休憩室から出てこない。
気持ちとは裏腹に私は「おはようございまぁーす」と元気な声を意識的に出した。少し声が上擦る。
『一事が万事、第一印象が大事なんだから』とは母の言だった。この高校を受験する時にも言われたし、入学式でも言われた。あなたはいつもヌメッとしてるんだから、元気よくいきなさい。実の娘に、それも年頃の娘に、ヌメッという擬態語を使う母に不快を覚えたものだ。
既に3学期に入っているこの時期に、第一印象も何もないが、自分を印象付けるには初手が大事なのは、これまでの経験から——とは言ってもたったの16年間というちっぽけな物だが——理解はできた。
もう一度、挨拶の叫びを発しようというところで、真理亜先生が現れた。
「あれ、市川ちゃん? 早いね? どうしたの?」
今し方出勤したばかりの真理亜先生は、コートを脱いだカーディガン姿で、両手にはカップとスティックのインスタントコーヒーを持っている。
胸元まで伸びた栗色のワンレングスは、大人の色香を秘めており、それと調和するようになめらかな曲線を描く頬と丸く少し垂れた目はどこか幼さを残した柔らかな魅力を備えていた。
数少ない男子から少なくない恋慕を集める真理亜先生を嫉妬して嫌う女子生徒もいるにはいるが、その快活で気の置けない性格のためか、彼女を嫌う生徒は多くはない。どちらかと言えば、男女双方に好かれるタイプの教師だった。
真理亜先生は、おっと、とお湯を忘れたことに気付いたのか、スティックコーヒーをポケットにしまって、コーヒーをひとまず保留にした。私の対応を優先してくれたのだろう。
「これ、出そうと思って」
準備していた一枚の書類を真理亜先生に渡した。先生が書類を読む間、先生の長いまつ毛をなんとなしに眺める。
「部活動申請書、か。うち、演劇部ないもんね。いいんじゃない?」と先生が書類を私に返した。
申請書の申請時部員数が規定の3名を超えていないことは指摘されなかった。にもかかわらず、書類は戻される。
「何か書き方間違ってましたか?」
「ん? あーいやいや。私担当じゃないから。これは担当の江藤先生——は明日まで休みか。なら顧問の先生に渡してくれる?」
真理亜先生が片手で手刀を切って、言った。面倒くさいのか、まったく取り合ってくれない。教師らしくない想定外の対応に、少し焦りが生じる。
了承するわけにもいかない私は「先生から渡してもらえませんか?」と食い下がった。
「えぇー。じゃあ、分かった。これは、顧問の先生の机に置いておこう」
真理亜先生は言うが早いか、私の返答を聞かずに、ピッと再び書類を私の手から引き抜くと、「西田先生ね」と顧問欄を確認してから私に背を向けデスクスペースに歩き出した。
出入口真正面のラインを挟んで休憩室の反対側にデスクスペースが広がっている。綺麗に整理された机もあれば、荒れ果てた廃墟のような惨状の机もチラホラ見える。デスクスペースはジャングルのようであり、慣れていないと何処をどう歩けば目的の場所に辿り着けるか、立ち止まって少し考えなければならない。
真理亜先生はズカズカ進んだ。その後ろを離されないように私もついて行く。
西田先生の机は一番窓側の中央ら辺。
真理亜先生はまず窓から遠い列を中央まで歩いた。
カツカツと真理亜先生のヒールがリズム良く鳴り響く。
中央で直角にデスクの間を縫うように曲がって、窓際のデスクの島を目指した。
近くまで行くと「あれ」と真理亜先生が呑気な声を漏らす。机に西田先生がいるのが見えたからだ。
そして、さらに少し近づいてから「西田先生!」と慌てて駆け寄った。
机上が赤かった。
西田先生は、椅子に座って、上体を不自然に捻じ曲げて机に身を預けていた。椅子の下にはまだ乾き切っていない血溜まりを作り、それを中心として、床や隣のデスクに血や肉片が飛び散っている。
真理亜先生が躊躇いもなく西田先生の肩を掴んだ。
すると、人形がバランスを崩して倒れるように、西田先生の上体が横向きに開いた。
真理亜先生が、短く息を吸う音がして、同時に西田先生から一歩身を引いた。
そして呟く。
「死んでる」
横向きに開いた西田先生のお腹には深々と木柄のナイフが刺さっていた。床の血溜まりの原因はそれに違いなかった。
「嘘……でしょ」
私はその場で膝の力が抜けて、ぐわんと視界が動悸づく。落ちた、と思ったら、次の瞬間にはぺたりと床に座り込んでいた。
なんで、と疑問だけが頭の中に反芻する。
こんな状況で思考が回るはずもなかった。
なんで。
なんでこんな——
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