第4話

 家も学校も、どちらも学の居場所ではなくなってしまったが、学は新しい居場所を見つけたような気がした。橋の上、ではなく、ステラの側。それが、学にとっては昔の家のように心地よい。


「ス、ステラ! あの僕も、君付け、や、止めてほしい」


 ステラは一瞬だけ目を丸くして、すぐに細めた。微かに上がっている口角に、母性なのかそれとも恋慕の情なのか、何かが漂う雰囲気を醸し出している。


「ふふ。分かった。ねえ、ナナシ。あの夜空に浮かぶ星、全部どんな星か知ってるの?」


 彼女の指先を目で追って、地上の美から、上空の美へと視線を移した。


「全部は分からないけれど、あれなら分かるよ。あの強く光る三つの星。ステラも知ってるいるんじゃないかな。夏の大三角、聞いたことない?」


「ああー、あるかも。でも、どんなものなのかは知らないかな」


「あれがデネブ、そっちのがアルタイル。そして、あそこにあるのが、ベガ。それぞれ、別の星座の中にある星なんだけれど、あの三つの星を繋げて見える三角形のことを、夏の大三角って呼ぶんだ。夏の、って言われてるのは、夏に見られるアステリズムだからで――」


 ステラには馴染みがないであろう単語を使いながら、息継ぎを忘れるぐらいに語り続ける学。星について語る学の瞳は、恒星のように光り輝いていた。

 

 普通なら、一人で悦に浸っている相手にうんざりしてしまう場面である。なんなら、そのまま放置して帰ってしまっても仕方がないと言えるだろう。

 

 だが、ステラは楽しそうな学の横にじっと座ったまま、穏やかな顔で、語る学を見つめていた。学の言葉の間に、適当な相槌を打つこともなく、静かに流れていく時間を堪能していた。

 

 しばらくの時が流れ学の語りが終わると、学は自分の愚行に気が付いて、すぐに謝罪をした。そんな学とは反対に、ステラは有意義な時間をありがとう、と感謝の言葉を述べた。

 

 気持ちが随分と落ち着いた学は、現在の時刻を確認しようとした。だが、スマホは部屋に置いたままで、他に時刻が分かる物はもっていない。ステラに何か持っていないかと聞いてみたが、ステラも手ぶらでここに来ていたようだった。

 

 ともあれ、そろそろ帰ろう。正確な時間は分からなくても、一時間以上は経過しているはずだ。両親もいい加減飽きて、喧嘩を止めているか、どっちかが今の自分と同じように家を飛び出しているだろう。どちらにせよ、静かになっている、という点で結果は同じだ。


「ステラは、明日もここにいる?」


「ナナシは? ナナシはここに来るの?」


「ステラがいるなら、絶対来るよ」


「じゃあ、ナナシが来るなら、絶対ここにいるよ」


 口約束。信頼性で言えば、非常に心許ないものである。話を合わせただけで、本当はここにステラはいないかもしれない。保証など、どこにもないのだ。


 それでも、学は十分だった。いないかもしれない、という不安はあるが、でもきっと、ステラは嘘をつかない。学は信じたいゆえなのか、勝手にそう思い込んでいた。


 二人は軽い別れの言葉を交わして背を向け合い、互いに反対の方角へと歩いて行った。 


 学は帰り道を歩きながら、少し震えていた。来るときは思わなかったが、こんなにもこの道は暗くて不気味だったのか。一定の間隔で置かれている電灯は、所々明滅していて、人の歩く道を不安定に照らしている。


 明滅する明かりの下に立って、学は一度振り返った。ステラが歩いて行った薄暗いの橋の上を眺めながら、彼女の姿と顔、香りを脳内で反芻した。


 家の玄関は学が飛び出していったままのようで鍵はかかっておらず、学は音を立てないように家の中に入った。予想通り家は落ち着きを取り戻していて、忍び足で二階の自分の部屋へと戻って行った。


 ベッドの上に転がって、天井を見上げた。

 

 何時もの景色の中に、ステラと一緒にいた一時が思い出される。昨日まではなかった、甘美な思い出。強く思い描くほど、学の呼吸は荒くなり、身体が熱くなっていく。


 学は慌てながら身体を起こして、床に転がった天体望遠鏡を元の位置に戻して覗きこんだ。平常心を失っている時は、望遠鏡を覗き込んで天体を眺めるのが一番良い。見ていると次第に心が落ち着いて来て、何時の間にかいつもの自分に戻っている。

 

 そのはずだったのだが、どうも今回はそうはならなかったようだった。無心になるどころか、星を見つける度にステラのことを思い出してしまって、ベッドの上にいた時よりも身体に異変が起こっているような気がする。

 

 身体を熱くした少年は、望遠鏡から離れ、ベッドの前で立ち止まった。

 

 学も、中学二年生である。経験は一度もなかったが、知識だけならば一応持ってはいた。ただそれを、実践してみようという気には、これまで一度もならなかったのだ。あの憧れの図書室の彼女を遠目に眺め続けていた日々の中でも、一度もならなかったのである。

 

 学は、下半身を露わにしてベッドに座った。詳しいやり方をはっきりとは覚えていないので、手探りでやり始める。脳内でステラの姿を思い出し、妄想へと繋げていく。深く沈めば沈むほど、学の右手の動きは速くなっていった。

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