努力が報われない世界で、正しさを貫いたら悪魔になった

フリーダム

一話:現実の複雑さ



 雨は容赦なく降り続いていた。

 細かい針のように肌を刺す冷たい雨だった。魔力ランタンが滲み、街灯の光が水溜りに割れて揺れる。


 深夜二時を回った下町の裏通り、ゴミ袋が山積みになった路地は、腐ったような湿気と安酒の匂いで満ちていた。


 ラスティ・ヴェスパーは、独立治安維持組織アーキバスの制服の外套を肩に羽織ったまま、傘も差さずに立って、通信魔法で本部に連絡していた。


「対象を確保。本部に連れていきます」


 オールバックにした黒髪は雨に濡れて額に張り付き、メガネのレンズに水滴が無数に絡まる。

 それでも彼は拭おうともせず、ただ目の前の男を見据めていた。男は壁に背を凭れさせ、両手を拘束具で縛られたまま、うなだれていた。

 年齢は四十代後半か。顔は汚れと髭で覆われ、目は充血している。コートの裾は破れ、靴は片方だけ穴が開いていた。

 罪状は商店での万引き。弁当一つと缶コーヒー二本。店員に突き飛ばされて転んだ拍子にナイフを落とし、凶器所持で気絶した。

 逮捕の瞬間は男は起きていたが、ほとんど抵抗しなかった。


 「腹が減ってただけだ」と、掠れた声で繰り返しただけだった。ラスティは、ふと、常日頃から思っていた疑問を問いかけたい衝動に駆られた。

 その欲求に従うか迷うが、しかし相手こら罵声を浴びせられるのを覚悟して、穏やかな声音で、しかしはっきりと問いかけた。


「貴方の人生には、理不尽や困難が山ほどあっただろう。それでも、もし諦めずに頑張り続けていれば、たとえ大それた成功でなくても、せめて飢えずに眠れる、身の丈に合った満足できる日々はあったはずです……何故、努力を放棄したんですか?」


 男はゆっくりと顔を上げた。濁った瞳に、街灯の光が弱々しく反射する。しばらく沈黙があった。

 雨音だけが、ざあざあと二人の間を埋めていく。やがて男は、吐き捨てるように言った。


「……恵まれたガキに、俺達見てぇなやつのことが分かるわけねぇよ」

「そう、ですか」


 その一言で、すべてが終わった。ラスティは唇を結んだまま、瞬きを一つだけした。

 反駁も、説得も、慰めも、一切浮かばなかった。なぜなら、それが真実だったからだ。

 自分は恵まれていた。

 決して大金持ちではなかった。

 父親は小さな工場の経理、母親はパートの看護助手。

 それでも三食は確実に食卓に並び、冬は暖房が効き、学校へ行かせてもらい、本を買い与えられ、「頑張れば報われる」という、ごく普通の経験を積み重ねることができた。


 その「普通」が、どれほど稀有なことか。


 今、目の前の男は、それを骨の髄まで知っていた。男は続けた。声は低く、怒りよりも疲労が勝っていた。


「お前は生まれたときから走れる足を持ってた。俺は這うことしかできねぇ体で生まれて、這ってるうちに膝が擦り切れて、這うのもやめた。それだけだ」


 ラスティは黙って聞いていた。雨がメガネのレンズを伝い、頬を滑り落ちる。涙ではない。ただの雨だ。


(確かに、みんなが最後まで頑張り続けることなどできない)


 最初から低い立場の者は頑張る方法も、余裕もない。

 頑張っていても途中で挫ける者もいる。

 結果を出しても理不尽に潰される者もいる。

 「もういいや」と投げ出す方が楽だと気づく者もいる。

 高潔な精神と行動など、疲れるだけで何の価値もないと悟る者もいる。


『できるやつはできる。できないやつはできない』


 それが現実。ただそれだけだ。もしこの世界が「努力と誠実さだけで生きていける者」だけで構成されていたら、たった一人の裏切り、たった一つの例外で、すべてが崩壊するだろう。

 単一で完璧なシステムは脆い。

 量産には優れるが、例外を許容しない。だから人類は、欠陥だらけのまま、怠惰な者、狡猾な者、投げ出す者、裏切る者、あらゆる「例外」を内包しながら、それでも種として存続してきた。

 それは人類の悪性が進化に適していた生存戦略が正解であった結果だ。ただの、リスクヘッジが効果を発揮した。


「そうか、ああ、他者にこの生き方は難しいのか。そうか。いつも、そうだった。そうか。悲しいな。努力さえ才能なんて言葉は嫌いだったが、確かにそうなのかもしれない」


 ラスティはゆっくりと息を吐いた。白い息が雨に溶けて消える。理想と現実は別の話だ。自分は自分の定めた夢に向かって、できる限り最大限の努力をし、最善を尽くして生きる。

 世界を救おうとは思わない。社会の仕組みを根本から変えようなんて、おこがましいとも思う。ただ、自分の内側に価値を定める。

 己の感情と信念に従い、自らに誇れる生き方を貫き続ける。


 その結果として、周囲が少しでも好転すれば、それで最良だ。もし悪化するなら、それもそれで受け入れよう。

 それで十分だろう。

 雨脚が一層強くなった。路地の奥から、腐った段ボールの匂いが流れてくる。ラスティは男の拘束具を点検し、静かに告げた。


「……行きましょう。馬車が表で待っています」


 男は何も答えなかった。ただ、濡れた地面を睨みながら、ゆっくりと歩き出した。二人の足音が、雨に混じる。

 背後で、街灯がゆらゆらと揺れていた。ラスティ・ヴェスパーは、自分が自分に誇れる生き方を、今日もただ、精一杯、選んだ。雨はまだ、降り続いていた。けれど彼の胸の奥には、小さな、しかし確かな火が灯っていた。 


 それは誰にも消せない、自分自身のための、ただ一つの灯火だった。

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