その息遣いを私は覚えている

久賀池知明(くがちともあき)

前編

ハッハッハッハッ…


 枕元で聞こえる荒い息遣いが私の眠りを妨げる。

 頭だけ動かして見ようとしても、そこには暗闇が広がるだけで何もいない。

 1度母と一緒に寝て貰った事があったが、母には何も見えていないし聞こえてもいないようだった。無論、私にも姿は見えてはいない。幻聴だと思い込もうとしても、余りにはっきりとしたその音が私の心を大きく揺さぶり、震わせる。

 聞こえなくなる様にと布団を頭から被ると、その上から私の頭を2本の腕が無造作に押え付ける。

 そして布越しに

ハッハッハッハッ…

 と、荒い息遣いがより近く聞こえてくるのだ。


 その息遣いを…私はよく覚えている。



 1ヶ月前、よく晴れた日だった。梅雨が明けて地面に溜まった水が空の青を反射し、夏本番に向けて蝉達が喉の調子を確かめている。公園では久しぶりに現れたお婆さんから与えられるパンくずに鳩が群がり、似たような動きで男子がボールを追いかけ回していた。

 こんな爽快な日にはBUMPが良さそうだと父が呟いた。私は父が車で掛けていた曲を思い出し、言わんとする事は分かる、と空を見上げながら頷き肯定した。

 私のすぐ横に何の話か分からないが、とにかく散歩に出られたのが嬉しい様子のリクがちょこんと座り込んでいる。

ハッハッハッハッ…

 金色のフサフサとした綿毛の様な毛が、風に吹かれて何とも心地良さそうだった。


 リクは保健所から引き取ったゴールデンレトリバーのオスで、引き取った際の年齢は推定で3歳だった。

町外れの廃屋で寝ている所を、探検で訪れた子供達に発見され、保健所へと連れてこられたという。首輪はしておらず、体は泥に塗れていた。

 私は当時小学2年で、ペットを飼うのに憧れていた。猫でも鳥でもうさぎでも、とにかくどの動物でもいいから飼いたかった。世話する大変さを1から10まで分かっているなんて言わないが、それでも大変さを超える共に生きていく喜びをテレビでも友達からも聞いていた。

 両親は初めはのらりくらりと躱していたが、あまりに私がしつこいので根負けし、保護施設から引き取る事を条件に許してくれた。

次の週末、両親と共に近くの保護施設へと訪れた。そこには10数匹の犬が檻の中で狭苦しそうに入れられており、苦し紛れの薄い布が敷いてあるだけだった。

 私達が無機質な扉を開けて中に入ると、彼等は思い思いの反応を見せた。こちらに向かって吠えたり、尻尾を振ってチャカチャカとガラスに爪を立てたり、チラリとこちらに目線を向けるがすぐに何も無かった様に寝る子もいた。危険な子なのだろうか、口輪をしている大きな犬もいた。

 私は衝撃を受けた。来る前から分かっていたはずなのに、散々テレビでも本でも見たはずにのに。彼等は確かにそこに生きているのに、どんな理由があるか分からないにしろいずれ殺処分されてしまうのだ。私はその内の1匹は助ける事が出来るが、その他10数匹は助けられないという事実に酷く狼狽して押し潰されそうになった。

私は、まだ何も分かっていなかった。そして、無知の知を知った私は思わず外に逃げ出し、泣き出した。

 母が後ろから追い掛けて来て私に言った。

「いいのよ、あなたの気持ちはよく分かる。それはとっても正しい気持ちなの。ただ可愛いから、皆が飼っていたからって飼うのは、それだけじゃ無責任なことなの。あなたはね、しっかりとそれに向き合えたらこうして泣いてるのよ。よしよし……偉いわね。今日無理に引き取らなくてもいいわ、出直したっていい。あなたが考えて決めなさい」

 もし今日このまま帰ってしまったら、きっと私はここに戻って来られないだろう。そんな確信があった。命の重みを十全に分かった訳では無い。年中の頃に曾祖母が亡くなったのを体験しただけで、これから殺されるであろう犬達を見ただけで、本当の意味で死を間近に見てはいない。

 けれども、たった1匹であっても救う事にはやっぱり大きな価値があるんじゃないんだろうか。


 涙を拭って、施設内に戻った。


 改めて犬達と向き合うとどの子も可愛く映ってしまう。いや、悲しい状況にいるだけで彼らは可愛いのだ。

 いずれそういう動物を救う仕事に就こうと決心したのは、まさにこの時だろう。

 私は左右を見回しながら廊下を進んだ。1匹1匹をゆっくり見ていくと、ケージの真ん中でじっとこちらを見つめる大きな子が。

他の子は私を見て威嚇したりガラスに爪を立てているが、この子はただ私を見つめているだけ。堂々としているのかおっとりな性格なのかはこの時点では分からない。とにかくその子は私がケージの前まで来ると、自分もガラスの前までとことこと歩いて来て、吠える事なく座り込んだ。

 真っ直ぐと私の目を見ている。私もその子を見つめた。

「この子にする」


 そしてリクは家族になった。


 勿論すぐに仲良しになれた訳ではなかった。ご飯を食べない日が何日も続いたし、食べても戻す事もあった。威嚇こそしなかったけれど、ずっとケージの中から出ようとしない。

 でも私は学校にいる以外はずっと傍にいようと心掛けた。ご飯の時も遊んでいる時も、可能なら寝る時でも傍にいた。

 変化があったのは私が風邪を引いてしまい、自室で寝ている時の事だった。

 熱で朦朧としている中、どこからか

チャッチャッチャッチャッチャッチャッ

 と硬い物が壁を引っ掻く音が聞こえてきた。それからしばらくして、独りでにドアが開き何かが部屋に入ってきた。それは私のすぐ側までやってくると、私が寝ている布団に少しだけ乗って丸くなった。

 私はそのすぐ後に眠ってしまい、起きたのはそれから数時間後だったけれど、まだ横にはフサフサした毛の何かがいた。リクだった。

 私は嬉しくて堪らなくなり、涙が零れていた。

 その日から私とリクは本当の意味で家族になった。いつでも近くにいてくれるし、言葉も良く覚えた。

「こっち来て」とか「あれ取ってきて」とか、本当に良く覚えた。勿論帰りが遅くなった日にはクッションをボロボロにするなんて事もあったけど、そのどれもが愛おしかった。


 風に吹かれるリクのあごを掻いてやると、ご機嫌そうに尻尾を振った。頭を撫でるのはあまり好きでは無いようで、不機嫌にウゥーと唸るので家族でもやらない。どんな犬や猫、他の動物が吠えたり近付いてきてもどっしりとして慌てることはない。茹でたささみが好き。怒った時は頭だけケージに突っ込んでふて寝する。

 そんな事ばっかり思い出す。


 近くの公園で私達はよく遊んだ。いつもは父がリードを握ってくれているけれど、今日は私が握りたいと父に聞いた。他の人に迷惑掛からないようにするからとお願いした。父は遠くに行かない様にねとだけ注意して許してくれた。

 私は喜び、リクに行くよと声を掛けて走りだした。

 じゃれついて私に飛びついてきたり、地面に転がったり、左右にフェイントを掛けてみたり。気温も相まって毛が暑さを倍増させるけれどそんなことはどうでも良かった。ただリクと遊べることが何より大事だった。

「あっ」

 それは突然の事だった。

 どこからか強い風が急に吹き、風上の方を向いたかと思うとリクは一声「ワン」

 と鳴き駆け出した。

「リク!!」

 私の声が聞こえてないのか、どこかに向かって真っすぐに走っていく。急いで追いかけていくが勿論追いつける訳が無い。どんどんとその差は開いていき、リクは公園の柵をすり抜けて道に飛び出した。


ドンッ


 風が鈍い音と金色の毛を捲き散らし、私の動きを止めた。

 それからゴム質の甲高く擦れる音と誰かの叫び声が響いて、余裕の無い喧騒が大きくなった。

 父から肩を揺らされても何が起きたのか理解出来ず、恐らく父は私に向かって

「ここにいなさい」

 と言っていたのだと後々になって思い至ったが、この時には全く耳に届いていなかった。ただ周りからの環境音と鈍い音だけが、脳内で何度も何度も反芻されていた。


 どんな足取りでその道まで歩いて行ったのだろう。

 道には人だかりが出来ていて、その中心には父が座り込んでいる。

 ふと道向かいに私を見ている男女が目に入った。二人で人だかりを見ながら何かを言い合い、そして私を見て女が何かを耳打ちし、早足でどこかへと消えて行った。

 私はそれを見送った。目線を父に移すと父もこちらを見ていた。

「え?」

 言葉を発している様だけれど上手く聞き取れない。

 だから私は近くに向かって歩き、父の言葉を聞こうとした。


ぴちゃり


 と足元で音がした。今日は快晴なのになと思って足元を見ると窪みに赤黒い液体が溜まっていて、それが跳ねてピンク色の運動靴に染みを作っていた。

 赤黒い水溜まりはすーっと伸びており、辿った先には父がいた。

 父と、リクがいた。

「あ……あぁ」

 リクが力無く横たわり、私の靴に染みを作ったのと同じ色の液体を垂れ流している。不規則にビクンと体を震わす度、大きな塊になった液体を吐き出した。


 じわりじわりと染みが大きくなる様に、事実が頭と心を支配して塗りつぶしていく。


「あぁぁああああああ!!!!!」


 事実は衝撃となり、脳内に響く甲高いゴム音が鈍く沈む衝突音と共に私を殴りつけ、生臭い血溜まりの中に崩れ落ちた。

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