第3話 3
おれは高校に入った時に美弥子にラブレターを出した。
言葉で伝えればよかったんだけど、気弱なおれは、面と向かって美弥子に愛の告白など出来なかったのだ。
美弥子からの返事は口頭で帰って来た。
「高校の三年間は返事を保留にしたいの。返事はいつか必ずするから、今まで通りデュオのパートナーでいてれない?」
そう言う美弥子の言葉に、おれは何も答える事が出来ず、頷かざるを得なかった。
三年間の高校生活も、おれは美弥子の
それでも、二年からはセカンドバイオリンとして、オーケストラのレギュラーに定着する事が出来た。
だけどピアノは、美弥子のためだけのものだった。
それはおれと美弥子を繋ぐ唯一の
もっとも、本腰を入れてピアノソロなんかに力を入れても、
三上は一つ上の先輩で、ピアノの腕前は群を抜き、グランドコンテストのピアノソロ部門では三年連続で金賞を獲得していた。
それから、おれと美弥子は名門の音大に進学した。
高校時代に名を
おれは審議の対象になったようだが、最終的に同じ音大の推薦入学を取りつける事が出来た。
そして……。
美弥子がラブレターの返事をくれたのは、大学二年の春だった。
オーケストラ部の練習の後、いつもの様に学食に向かっている途中、足を止めた美弥子が、
「わたしたち付き合いましょう」
と何の前触れもなく突然そう言ったのだ。
「ほんとに?」
「ほんとうよ」
「やったぁー!」
おれは小躍りして喜んだが、美弥子の笑みはどことなく醒めた感じがあった。
おれを好きだという熱い思いが、美弥子からは全然感じられなかったのだ。
そんな違和感を感じながらも、おれは目の前にぶら下がった幸せにしがみついた。
おれと美弥子が付き合い始めて間もなく、
「よお」
大学のキャンパスを歩いていると、三上宗介に声を掛けられ、おれは驚いた。
同じオーケストラ部員だから、おかしな話ではないのだが、高校時代も含めて、向こうから声を掛けて来る事など、滅多にもなかったのだ。
しかも、
「吉原とは上手くやっているのか」
ときた。
(はっ? なんだよいきなり)
と思ったが、無難な返答で返した。
「はあ、それなりに上手く行ってます」
「そうか。それならいい。ちゃんと
言いながらおれの肩を軽く叩いてすれ違った。
「三上先輩……それ、どういうことですか?」
と聞き返したが、三上は振り返る素振りすら見せず去って行った。
(なんだったんだ?)
まったく意味が分からないままおれはその場に取り残された。
美弥子がおれとの交際を承諾した時期と、三上に彼女が出来た時期が重なっていた。
美弥子は高校時代からずっと三上に恋していた。この音大に進学したのも三上を追っての事だった。
しかし美弥子は選ばれなかった。
彼女が三上に対してどのようなアピールをして来たのか、それを知る
三上と小向の交際が、美弥子がおれと付き合うきっかけとなったのは間違いないだろう。
自暴自棄になったのか。
ずっと従者のように付き従っていたおれへの
今となっては分からない。
いずれにしても、そんな美弥子の心の思いを、当時のおれは知る
美弥子を彼女に出来た事で、おれは有頂天になっていた。
(大切な彼女のためにも、おれはいい伴奏者にならないといけない)
その思いで美弥子とのデートの時間以外は、ピアノ漬けになっていた。
練習に明け暮れる日々の中で、使い痛みによる左指のしびれと右手首の
「二週間は安静にしなさい」
医者からの忠告もあったが、美弥子のバイオリンを二週間も止める訳にはいかなかったし、何よりも誰かにおれのポジションを取られるのが怖かった。
(美弥子の伴奏だけなら問題ない)
デュオやソロパートではないから指先や手首への負担も少ない。
(美弥子のバイオリンを引き立てるための最高のピアノ伴奏をする)
それが目標となっていた。
おれは針治療やテーピングでその場をしのぎながら、大学卒業後は美弥子と同じオーケストラ・パシフィックJP交響楽団に入団する事が出来た。
楽団に入ってパシフィックJP交響楽団の余興として行われた、おれと美弥子のデュオ ――― 正確にはおれは美弥子の伴奏者だが ――― 結構好評だった事もあって、テレビ番組や色んなイベントに呼ばれてとても忙しい時期もあった。
楽団に入って三年後。おれと美弥子は結婚した。
夫婦になると、おれと美弥子のメディアへの出番は更に多くなっていた。
『有名ヴァイオリニストの妻を静かに支える良夫』として、世間ではおれの姿勢が好印象だったようだ。
(だけど……)
おれは三流ピアニストだという自覚をもっている。
だから大きく立ち振る舞えなかっただけなのだが……。
『仲睦まじい夫婦デュオ』
マスメディアに付けられたそのレッテルをおれは悪くは思わなかったが、美弥子は違っていた。
美弥子は日に日にストレスをため込んでいたようだ。
国内でこそ、夫婦デュオとして少しは知名度は高いが、海外では無名だった。
「わたし、海外ではソロで活動したいの」
沙紀が小学校に上がった頃、美弥子はそう言った。
「ああ、分かった。頑張れよ」
おれは引き止めることは出来なかった。
美弥子とのすれ違いが
いや、結婚した時にはすでに、おれたちの関係には
ただ、おれがそれに気づいていなかった……。
いや違うな。気付かない振りをしていた……。
それだけの事だ。
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