父の子

 私は、その先へ手を伸ばすことができなかった。

呼ばう夜這うなどと、」

 声が震えたのは、笑ったせいだと聞こえただろうか。

「私は物語りに来たのです」

「どんな物語かしら」


 彼女が身を乗り出すきぬの音が聞こえる。


 幼い頃、彼女は継母から逃れて、祖母おおばあまと北山に隠れ住んでいたのだそうだ。祖母の亡くなったのち、私の父が連れ出して、もてなしかしづき(大切に養育して)、妻にしたと聞く。


 向かい合って座り、私の物語りを待っているのは、振り分け髪の(額の真ん中で黒髪を分けたおかっぱ頭の)幼い彼女なのではないか、そんな心地ここちさえする。


 私は、ささめく声で(ひそひそ声で)、物語りする。

「光る君のかよところ(愛人)は多いけれど、」

「その物語は聞き飽きた~」

 いとけない(幼い)女童めのわらわのように彼女が、はちぶく(不平を言う)。

 私は笑んで、続ける。


御子みこは、三人みたりしかいません」

石女うまずめそしる物語なの」

いや。父には子種がないのではないでしょうか」

 彼女にとがめられて、慌てて私は、口疾くちとく(早口で)、「父」と言ってしまった。「光る君の物語」を、私は物語りしていたのに。

 子のいないことを話せば、女君おんなぎみ(女性)が責めを受けることを(責任を感じることを)、私は心遣こころづかいできなかった。



「ゆゆしきことを(恐ろしいことを)。」

 彼女が言った。――声様こわざまは、もう女童ではなく、女君だった。



 私に物語るざえ(才能)などあるわけがなかったと、思いくずおるが(気持ちが折れるが)、続ける。

明石あかし御方おんかたと父を、源良清みなもとのよしきよが引き合わせたと、我褒われぼめ(自慢)していますが、元々は、明石あかし御方おんかたに、良清が言い寄っていたのだと聞きます」

「明石の御方と、その男が通じていて、きみの子(光源氏の子)だと、たばかった(だました)と言うの」

いや

 私はいなぶ(否定する)。今夜このよるまでは、明石の御方に良清がたわけた(強姦をした)のではないかと思っていた。


「このような暗闇の中では、自身みずからきみ(光源氏)とたばかって通じることも、容易たやすい」

「っふ」

 彼女の短い笑み声と、きぬの音がした。袖で口覆くちおおいして、笑み声をこらえたのだろう。


「女をあなづる(ばかにする)ものではないわ。こんな暗闇だって、のよ」

「父がかよめた(関係を持った)ばかりの時に、明石の御方に、自身みずからが言い寄っていたのに、許されず、父は許されたことを、えんじて、度々たびたびではなく、一度ひとたびならば、それと分かりますでしょうか」

「――『一度ひとたび』ね……」

 その言葉を繰り返す彼女の声を聞いて、またも私は心遣いができなかったことを、思い知らされる。



 ただ一度ひとたび、精を受けて、明石の御方おんかたは、子をせたのに、幾度いくたびも精を受けて、子を生せない我が身は…と、彼女に思わせてしまった。



「ですから、子をせないのは、御身おんみ(あなた)のせいではなく、」

「それでは、御子みこ様も、君の子(光源氏の子)ではないと、おっしゃるのね」

 言いかけた私をさえぎり、彼女が聞く。



 私は、先ほどの父のさま(光源氏の態度)を、思い出してしまう。

 私が持って来た亡くなった衛門督えもんのかみ柏木かしわぎ)の形見の横笛が、「陽成院ようぜいいん御物ぎょぶつ(陽成天皇の所有した物)であることを、父は事事ことことしく(くどくどと)語った。

 私が衛門督を夢に見たことを物語りすると、女房にょうぼうたち(侍女たち)が「夜に夢の話を語るのはよくない」と言っているなどと、父はそらおぼめきした(話をはぐらかした)。



 私は物語りする。

入道にゅうどうみや様(おんなさんみや)が、父にくだされる前(降嫁こうかする前)には、衛門督えもんのかみ柏木かしわぎ)が望んでいました(求婚していました)」


「それは…衛門督様から、お聞きになったのですか」

 彼女の声が、おそれに震える。


いや。確かなことは、何も……」

 私は今さら、自分の浅ましさに気付いた。おそれを、一人で抱えていられなくて、彼女の所に来たのだ。



 畏れに、衛門督えもんのすけ柏木かしわぎ)は殺された。



 明石あかし御方おんかた源良清みなもとのよしきよたわけた(密通した)時とは、ちがう。あの時の父(光源氏)は、須磨すまに引きこもり、都に戻れるかどうかも知れない身だった。

 しかし今は、父(光源氏)は准太上天皇じゅんだじょうてんのう(上皇と同位の身分)だ。

 准太上天皇(光源氏)から、太上天皇(朱雀上皇)の娘であるみやおんな三の宮)を盗み出し(寝取って)、どれほどのとが(罰)を受けるか、衛門督えもんのすけ(柏木)はおそれた。


 けれど、父は衛門督を咎めなかった。



 先ほども、私が衛門督の形見の横笛を持って来ても、衛門督を夢に見たことを物語りしても、父は事無ことなしぶ顔様かおざま(何もないふりをする表情)だった。



 父は、衛門督を咎められないのだ。

 咎めれば、自身みずからが女を盗まれたことを、世に知らせることになる。


 父は自身みずからのために咎めなかっただけなのに、衛門督は、いつ咎められるかという畏れを抱え続けなければならなかった。


 入道にゅうどうみや(女三の宮)のように世を離れる(出家する)こともできず、衛門督は、現実まことに世を離れてしまった(死んでしまった)。



 すえも知らず、踏み惑うほど(こうなってしまうことも考えられずに、進んでしまうほど)、衛門督は、宮に恋していたのか。



 暗闇の中、彼女の長息ながいき(溜息)が聞こえた。


従兄弟君いとこぎみ(柏木)がはかなくなられて(亡くなられて)、あなたは御心みこころが乱れていらっしゃるのです」

 彼女の声様こわざまは――母のように聞こえた。


 私は、「母」を知らない。

 私を産んで、母ははかなくなった(亡くなった)のだそうだ。いたものはらえなかったと聞く。

 だから、正しく言えば、「子に言い聞かせている妻(雲居くもいかり)の声様こわざま」のように聞こえた。

 言うことを聞かない子に腹立はらだつ心を押し込めて、「母」として、やさしく言う。


従兄弟君いとこぎみはかなくなられたのには、何か理由よしがあったのではないか、そんなことを思ってしまわれるのです」

「私のことは、聞いて下さらないのですか」

 私は、彼女に聞き返した。



 彼女がもだす静かさに、鈴虫の声が響く。



御身おんみが生まれる前のことをどうして、あなたが分かるのでしょうか」

 彼女が言う。暗闇に目馴めなれて、奥に座る彼女のかたちばかりは、私は見分けられるようになっていた。



「私は、父に何ひとつ、似ていません」

「似ない父子おやこなど、珍しくもありません」

 彼女は言い閉じる(断言する)。


「私が母ばかりに似たのは、」

 口縁くちびるが震え、私は息を吸い、吐く。

致仕大臣ちじのおとどの子だからではないでしょうか」

 致仕大臣ちじのおとど頭中将とうのちゅうじょう)――母の兄。



「――ゆゆしきことを(恐ろしいことを)。」

 彼女のかそけき声(消えそうな声)を、鈴虫の声の中、私は聞きく。


 いにしえ衣通姫そとおりひめを引くまでもなく(引用するまでもなく)、同母妹いろもと通じることは、禁忌だ。


 私の母(あおいの上)は、后候補きさきがねとして、家の奥で育てられた。

 男を見たことは、父兄弟しかない。

 ちかしい男を思いむこと(初恋をすること)はある――私と共に育った従妹いとこ雲居雁くもいのかり)のように。


 私の父と母は、へだてがあった(夫婦仲がよくなかった)と聞く。

 夫(光源氏)が此処彼方こちあちに通い(多くの愛人を持ち)、本妻むかいめでありながら、おとずれがれの妹(葵の上)を、兄(頭中将とうのちゅうじょう)はいとおしく(かわいそうに)想った。

 いや大宮おおみや(実家)に古くから参る人々(古参の侍女たち)は、致仕大臣ちじのおとど頭中将とうのちゅうじょう)は、私の父(光源氏)と、官位つかさくらい(出世)も、女も、きそう仲だったのだと、昔語むかしがたりをする。

 私の父が得た女として、妹を見ていたということもあるかもしれない。


 それほど致仕大臣が、みだりがわしい人だとは思われないけれど。



 私と妻(雲居くもいかり)は、想い合う仲(相思相愛)であることを知られ、妻の父である致仕大臣ちじのおとどに咎められて、長く許されなかった。

 官位つかさくらいおとる私が、后候補きさきがねとして育てた娘と、許しもなく言い交わしたことを恨んだだけではなく、異母妹ことはらかもしれないというおそれがあったのではないか。


 しかし、妻(雲居くもいかり)が私と「すでに通じている」と空言そらごと(うそ)を言って、致仕大臣ちじのおとどは、同母妹いろもほどは罪がないと、自身みずからに言い聞かせたのだろうか。



「何ひとつ、あかしは無い」

 暗闇の中、彼女の声が聞こえる。


 そう。彼女の言う通りだ。

 そう思いながらも、私は言っていた。

「確かめてごらんになりますか」


「どうやって。」

 彼女が問う。

はかなくなられた方々かたがた(亡くなった方々)に、真実まことは聞けない。おく方々かたがた(生きている方々)も、真実まことを知っていたとしても、物語りはしない」


 私が、あなたのかたちが見えるように、あなたにも、私のかたちが見えている。あなたへと手を伸ばす私が。

 私は彼女に言った。

御身おんみが、ただならずなれば、お確かめになられるでしょう」


 あなたが妊娠すればただならずなれば、確かめられるでしょう――




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