第五四話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその拾』
「ちっ」
「? いきなり何よ?」
適当に雑談していたら、成経が突然舌打ちをかましてきて、さすがのわたしも思わず眉をひそめる。
特に変な事を言った覚えはないぞ?
むしろ褒めていたぐらいじゃないか。
「向こう岸の連中の気配が変わった」
「気配、ねぇ?」
いぶかしげに眉をひそめつつ、わたしも成経が睨みつけている方角を見る。
もちろんその先には確かに一向宗が布陣はしているのだが、視界に映るのは木の壁だけである。
そりゃそうだ、本陣にするため間借りした寺の御堂だからね、ここ。
「いよいよ妖術じみてきたわねぇ。見ないでもわかるとか」
「あん? こんなん見る必要もねえだろ」
「そうなんです?」
わたしは向かいに座っていた勝家殿に問いかける。
彼も厳しい顔で頷く。
「ええ、敵陣から士気の異様な高まりを感じます」
「なるほど」
この二人がそう言うのなら、どうやら間違いなさそうだ。
正直、超能力じみているようにしか思えないが、実際に『意』を感じる能力ってのが人間にはあるらしいのよね。
前世で見た動画で、ある武術の達人がボクシング元世界チャンピオンたちのパンチを、目を閉じながら来る瞬間を察知してミットを引いて当てさせない、なんて離れ業を披露していたのを思い出す。
別の動画では別の達人が、背中から合図なしに振り下ろされるウレタン棒を察知して見事にかわしていた。
平和な二一世紀の日本人にも出来るのだ、この二人にもそれぐらいできるのだろう。
「まずいですね。この感じは一〇〇〇かそこらのものではない。しかもまだどんどん増えている」
「……どうやら最悪の予感が当たりそうですね」
「はっ。おそらくこの感じは、全軍による総攻撃でしょう」
「っ!」
はっきり言葉にされるとやはり来るものがあり、わたしはごくりと唾を飲み込む。
ほんとわたしにはいつもと変わらないように見えるのになぁ。
これが嵐の前の静けさってやつか。
おそらく今は、いついつに出陣すると全軍に触れを回しているといったところか。
それを聞いた兵士たちから覚悟を決め戦意を高めていっているのだろう。
「本来はもう少し虚実を大小も変え繰り返し、相手を混乱させ敵に機を悟らせにくくするものですが……」
「そんな時間的余裕がなかったんでしょうね」
先程、早馬が届いた。
信秀兄さまが五〇〇〇の兵を率いてこちらに向かっており、明日には到着するとのことだ。
おそらくこの報告は、一向宗の連中にも届いているはずだ。
それでもう時間がないと焦って、総攻撃を仕掛けることにしたのだろう。
「こちらも至急、応戦の準備をします」
「ええ、お願いします。ただ、小猿の報告では兵力差は一〇倍近い。決して無理せずに、退くべき時を見誤らぬよう」
御国の為に玉砕覚悟で立ち向かえ! なんて口が裂けてもわたしは言えない。
やはりわたしは、親しい人たちに死なれるのが一番いやだ。
前々世で、わたしに付いてきてくれた岩村家の人たちが皆、討死したり、自刃したり、焼け死んだりしたのは……そしてなにより夫を目の前で殺されたのは酷いトラウマである。
今は戦国の世で、それが難しい事も甘々すぎることも重々承知しているけれど、可能な限り避けたいところであった。
「ええ、ご安心を。ここで死ぬつもりは毛頭ありませぬゆえ。つや姫様が照らし出す未来を、もうしばらく見ていたいですからね」
「わたしの?」
「ええ、この一年半で、尾張がみるみるうちに発展していく。活気づいていく。人々の顔に笑顔がこぼれてくる。この先を見ずに地獄へ逝くなど勿体ない」
そういってニッと口の端を吊り上げる勝家殿の顔には、覚悟はあれど悲壮感はない。気負っている感じもない。
うん、これなら心配はなさそうだった。
「では……後はお任せします」
「ええ、姫様は早く避難を」
「……はい。御武運を」
これも事前に取り決めておいたことだった。
総力戦になれば、わたしは早急に避難する、と。
事ここに至っては、戦の素人のわたしに出来ることはほとんどない。
いや、むしろなまじ立場があるだけに、邪魔になりかねない。
わたしがいたら、どうしても勝家殿も重要な判断でいちいちわたしにお伺いを立てざるを得なくなるしね。
戦場ではその一瞬の判断の遅れが、命取りになる可能性だってあるのだ。
わたしの安否が気がかりで、戦に集中できないなんてのも避けたいところだ。
足手まといになるのだけは、御免である。
後はもう信頼した将にすべてを託すのが、総大将たるわたしの務めであった。
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