第四四話 天文十二年三月下旬『岡崎の戦いその弐』織田信秀SIDE

「つやが仏敵じゃとぉっ!?」


 翌朝、清州城からの使番の報告に、信秀は思わず声を荒らげる。

 もちろん、劔神社を興した時点で、ある程度は想定していたことではある。

 だがいくらなんでも早すぎた。

 信秀の想定さえはるかに上回る速度で氏子が集まったことに、一向宗が危機感を覚えたといったところだろうが、それにしてもだ。


「はっ、桑名湊、四日市湊、白子湊、津湊、大湊には続々と一向宗門徒が集結しているとのことです。また戸田も挙兵の準備あり、と」

「ぬぅ、伊勢湾全域に動員をかけたのか!」


 さらに言えば、船の手はずも整っているということである。

 いくらなんでも手回しが良すぎる。

 信秀の三河侵攻に合わせて、何者かが前もって入念に準備していたのだ。

 そうでなければ説明がつかない。


「いったいどこのどいつじゃ、こんな絵図を描いたやつは!?」

「つや姫様曰く、おそらく今川家の太原雪斎であろう、と」

「あやつかっ!」


 忌々しげに信秀は拳を床に叩き付ける。

 未だ一度も槍を合わせたこともないが、スサノオの下でつやが見た史実においては、その男に幾度となく信秀は煮え湯を飲まされたと聞いている。

 どうやらつやが歴史を変えたという今世においても、自分の前に立ちはだかってくるらしい。


「至急、信光を呼んで参れ!」

「はっ!」


 小姓を呼びつけ走らせる。

 しばらくして弟が駆けこんでくる。


「どうされました、兄者!?」

「くそ坊主にしてやられたわ!」


 盛大に吐き捨ててから、信秀は事のあらましを信光に話して聞かせる。

 聞くにつれ、信光の顔もみるみる強張っていく。


「ま、まさか……そのような……っ!?」

「どうやらおぬしの悪寒の正体はこの事だったようじゃな」


 仕方なかったとはいえ、昨日、信光の言葉に従い退却しておくべきだったと、今さらながらに悔やまれる。

 桑名湊から津島湊まではわずか四里強。

 時間にすれば三刻(六時間)もあれば着く距離だ。

 すなわちすでに敵は尾張の地に上陸している可能性さえあるということだ。


「信光! 貴様は兵五〇〇〇を率い、急ぎ津島へ後詰めに向かえ!」


 胸に焦燥感を覚えつつ、信秀は命ずる。


 後背を脅かすことで、三河からの撤退を促す。

 おそらくは雪斎の思惑通りではあり、それに乗るのは極めて癪ではあるが、仕方がない。

 このまま放置するわけにはいかなかった。

 すぐに命に応じると思われた信光ではあったが、首を左右へと振る。


「いや、岡崎の事は俺に任せて、後詰めには兄者が向かうべきです」

「むっ?」

「そっちのほうがいいと、俺の勘が言っています」

「ふぅ、また勘か。もう少し言葉にしてくれると、儂も楽なんじゃがなぁ」


 とは言え昨夜、弟の勘に従わず、痛い目を見たばかりである。

 苦笑するとともに、信秀は頭を冷やし、冷静に考え直してみる。


 突然の事態に、少々冷静さを欠いていた節はあるのは否めない。

 改めて考えてみれば、岡崎城を取り矢作川以東の松平領を取ったところで、税として信秀のところまで上がってくるのは一万貫がせいぜいといったところであろう。

 つや効果もあり、津島から上がる津料だけで、それをはるかに上回る収益が上がっているのだ。

 加えて、清州には守護の斯波岩竜丸が、そしてなによりつやがいる。

 この二人こそ織田の生命線だ。

 どちらを優先するかなど比べるまでもなかった。


「……ふむ、そうじゃな、今回はおぬしの勘に従うとしよう」


 こと戦の指揮に関してだけならば、家中随一の猛将たる信光に軍配が上がるが、尾張をまとめあげるとなれば、やはり守護代である信秀を置いて他にはいない。

 つやや信光の命には従わずとも、信秀の命になら従う、という者も少なからずいるからだ。

 また信秀が尾張にいたほうが、同盟相手である斎藤との交渉も捗るだろうし、信秀にしか決裁できないこともある。


 総じて物事を見れば、信秀が戻るほうが吉と言えた。

 なによりも、弟の勘は当たる。

 それが判断を後押しした。


「もっと前から俺の言葉に耳を傾けてくださると、俺も助かるんですがねぇ?」

「悪いのぅ。これからはもう少し、おぬしの勘に従うとしよう」

「兄者はいつもそう言われますが、最近はあまり頷いてくれませぬなぁ?」

「むぅ……いろいろとしがらみというものがあるのだ」


 今回もそうであった。

 動かせるものが大きくなるほど、突然の方針変換というものが難しくなってくる。

 そこに大勢の利権や損得がからむからだ。


 下手すれば、家臣たちの不満が溜まり、ひいては求心力の低下にもつながりかねない。

 だが時には非難が噴出するようなことも、断行したほうが良い結果につながることも多い。

 それを見分けるのは、そして多くの反対を押し切ってまで突き進むのは、至難の業というしかなかった。


「まあ、今回は長谷部国重で手を打つとしましょう」

「あれか」


 信秀は思わず渋面になる。

 一番お気に入りの愛刀であった。

 信光は刀数寄であり、ことある事にこうして刀をねだってくるのだ。


「少々惜しいがまあ、よかろう。では三河の事は任せたぞ、信光!」

「はっ、兄者のほうこそ尾張は任せましたぞ!」

「ふん、誰にものを言っておる」


 言い合いつつ、二人はガンッと拳を合わせる。

 子どもの頃から兄弟、背中を預けて戦ってきた。

 幾度となく、こうしてお互いを鼓舞してきた。


 だがこれが最後のものになることを、この時の信秀はまだ知らなかった。

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