第四二話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその参』太原雪斎SIDE
「先発隊は潰走! 服部友貞殿は奮闘するも討死なされました!」
「……そうですか」
使番(伝令)の報告に、太原雪斎に小さく嘆息をこぼす。
ここは今まさに戦死が告げられた服部友貞の居城、荷之上城の一室だ。
川を挟んだすぐ対岸が織田領であり、攻略の拠点にするには丁度よく、願証寺証恵と雪斎は一向勢の指揮を執るため、昨日からここに入城していた。
「まさかあの策が見破られるとはな……」
伊勢湾全域の湊から大船団が織田領に押し寄せる、という情報をあえて流し、かつ服部党の準備は入念にひた隠した。
これによって織田家の守りを津島湊および佐屋川周辺に集中させ、手薄になった市江川を服部党が伏兵的に渡河し陣城を築く。
それを相手に考える暇さえ与えない奇襲で行う。
我ながら会心の一手であったが、しっかり看破され潰された。
やはり『織田の鳳雛』の二つ名は伊達ではないといったところか。
当初危惧した通り、侮りがたい難敵と言えた。
「ふぅむ、友貞殿が討死なされるとは……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
一方、証恵は合掌し、神妙に念仏を唱え始めていた。
だがその声ににじむ喜色は、隠しきれていない。
続けて証恵は言う。
「友貞殿の嫡子はまだ幼いと聞きます。さぞご無念だったでございましょう。友貞殿は我ら真宗の発展に尽くしてくれた方。その御恩に報いるためにも、遺児は我ら真宗がしっかり支えてあげたいと思います」
言葉こそ仁義に満ち、沈痛そうな面持ちではあるが、その口元はどこか緩んでいた。
その心中を察するに、友貞が死んでくれたことで、こうしてこの荷之上城をまんまと接収できるといったところか。
市江島の農業収穫量自体は大したものではないが、伊勢湾の中継湊の一つとしてけっこうな津料が上がる。
狙いはそのあたりだろう。
とんだ生臭坊主もいたものである。
とは言え、自分も所詮は同類か。
「証恵様が後見人をなされるのであれば、嫡子の将来も安泰でございましょう」
自らの
織田家の勢力を削ぐには、一向宗の力は必要不可欠である。
彼らの力を借りるためなら、お世辞の一つや二つ、いや百や千、安いものであった。
なにせ支払うのは自らの罪悪感のみ。
それ以外には一切の費用はかからないのだから、使わない手はなかった。
「たとえお世辞でも、雪斎和尚にそう言って頂けるならば自信が持てますな」
証恵は満足げに頷く。
口頭とは言え、駿河、遠江の二ヵ国の太守である今川家の執権が、証恵が服部家の嫡子の後見をすることを、つまり一向宗が市江島を領有する事を暗に認めたのだから当然か。
「ははっ、本心ですよ」
どの口が言っているのかと我ながら思う。
服部家はこれから没落していく未来しかむしろ見えないぐらいである。
(そう言えば、そろそろ信秀めに報が届く頃合いか)
証恵のご機嫌取りが一段落ついたところで、雪斎は意識を三河のほうへと向ける。
元々この織田包囲網は、織田家の三河侵攻を食い止めるために発案したものである。
当然、そちらの方にも策は張り巡らせてある。
(さて、今度は尾張の虎のお手並みを拝見させてもらうとしようかのぅ)
ぺろりと舌なめずりとともに、雪斎は凄絶に笑う。
自らの知恵一つで、他者を思い通りに動かすことに、また罠にハメることに、彼はたまらない愉悦を感じるのだ。
相手が強者であればあるほど、その愉悦は増す。
我ながら業が深いと思う。
若い頃はそんな自分に悩み仏門に帰依したものだが、結局本性は抑えきれない。
一皮剥けば彼もまた所詮、戦国の世で生き血をすする一匹の獣であったのだ。
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当時の長島あたりの地図になります。
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