ふたりの出会い(2)

 浩市は、二十五歳の成人男性である。高身長と呼べるほど背は高くないが、それでも百七十センチほどはある。

 目の前にいるものは、そんな浩市が見上げてしまうくらいの大きさだ。二メートルは優に超えているだろう。

 かつて、東京の繁華街でプロレスラーを見かけたことがある。そのレスラーは、公式の身長が二メートルだった。体重も百二十キロであり、横幅も広い。大型冷蔵庫のようなサイズだ。浩市は間近で見て、デカいなあ、と素直に感心したことを今も覚えている。

 目の前にいるものは、そのプロレスラーよりも大きい。皮膚は銀色であり、後ろ足で立っている。となると、二足歩行するのだろう。

 顔と思われる部分は、トカゲのそれに似ていた。小さな目が付いており、その目で真っ直ぐ浩市を見下ろしている。一応、口らしきものも見えた。軽く開いた隙間からは、鋭く尖った歯が大量に生えているのが見えていた。耳と思われる部分は見当たらない。有り体に言えば、特撮映画に登場する怪獣のような姿である。

 ホラー映画などで人が未知の怪物に出くわすと、たいがいは悲鳴をあげてガタガタ震える。あるいは口を開けて後ずさるか、叫び声をあげて逃げるか。とにかく、何らかのリアクションをするものだ。

 しかし、現実の世界でそんなものに出会うと、人は子供のようにポカンとなってしまう。脳が対処できず、困惑のような状態になってしまうのだ。

 今の浩市がそうだった。これまで想像もしていなかったようなものが出現し、彼の思考能力そのものが上手く働いていない。頭の中が真っ白になり、体は硬直していた。


 俺は、ここで死ぬのか?


 頭の中に、そんな考えが浮かぶ。目の前にいるものが怒れば、どう転んでも勝ち目はない。浩市など、一撃で叩き潰されるだろう。

 これまで生きてきた記憶が、走馬灯のごとく頭の中を流れていく。断片的なものであるが、はっきりと見えていた。思い起こせば、何とくだらない人生だったのだろう。何ひとつ成し遂げられなかった。

 いや、そもそも何かを成し遂げることなど考えていなかった。ただ、静かに生きていたかっただけだ。なのに、それすら叶えられないというのか。

 ここで死んだら、はさぞかし困るだろう。だが、こればかりは仕方ない。あとの始末は、自身にやってもらおう。

 その時、ひとりの女の顔が浮かんだ。


 俺がここで死んだら、あの人はどうなってしまうのだろう。


 怪物の方は、じっと彼を見下ろしている。両者の距離はほとんどない。怪物が手を伸ばせば、余裕で届く。その手のひらは、キャッチャーミットのような大きさだ。腕は長く太いし、両足も長い。あの凄まじい跳躍力や体の大きさから察するに、人間など一撃で叩き潰せるくらいの腕力はあるはずだ。

 両者は、そのまま見つめ合っていた。浩市は動こうにも動けなかったのだが、怪物の方も動く気配がない。ふたつの目は、浩市の顔に向けられている。敵意は感じられないが、かといって善意も感じられない。

 両者ともに、硬直したまま時間が流れていく……だが、先に動いたのは怪物の方だった。何を思ったのか、不意に顔を湖へと向ける。

 直後、濁った水へと飛び込んだ。現れた時と同じく銀色の体をくねらせ湖を泳ぎ、浩市の視界から消えてしまった。

 その様を、浩市はただただ見ていることしか出来なかった。




 どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 浩市は、ようやく動けるようになった。首を動かし、湖を見下ろす。湖面は、いつもと同じく静かなものだ。あんな生き物のいた痕跡は、どこにもない。

 途端に、足の力が抜けた。地面にへたり込み、荒い息を吐く。その時になって、ようやく脳と肉体が事態を把握したのだ。

 体が震えてきた。痙攣に近いような状態だ。全身をガタガタ震わせながら、先ほど見たものについて考えを巡らせる。

 

 あれは、本当に現実だったのか? 

 幻だったのではないか?


 ふと、そんな考えが頭を掠める。身長は二メートルを軽く超えており、恐ろしい跳躍力を持つ二足歩行の生物。顔はトカゲのようだが、皮膚や体つきは昆虫にも似ている。腕は異様に長く、皮膚は銀色に光っていた。地上では二本足で直立して歩くが、普段は水の中に棲んでおり恐ろしい速さで泳げる。

 そんな生き物は、この世界に存在しないはずだ。少なくとも、日本にそんな生物がいた……などという話は聞いていない。なら、自分は幻覚を見ていたのではないだろうか。

 しかし、幻覚ではない証拠がすぐに見つかる。目の前の土には、足跡が付いていた。それも、深く巨大なものだ。怪物の大きさと、着地した時の衝撃をこちらに伝えてくれる。また、足跡の周囲は濡れていた。奴の体から垂れた水によるものだ。

 間違いなく、今あれは存在していた。そして今も、湖の中に棲んでいるのだ。

 ようやく、浩市の体に力が戻ってきた。四つん這いの体勢になり、そこからどうにか立ち上がる。足は震えているが、なんとか歩くことは出来た。店は閉めたし、あとは帰宅するだけなのだ。暗くなる前に帰ろう。浩市は、家に向かい歩き出した。




 浩市の住んでいる家は、店舗のすぐそばにある。歩いて二分ほどの場所だ。二階建ての一軒家である。

 家に着いてドアを開けると、薄汚いジャージ姿の若者が出てきた。弟の誠司セイジである。浩市とは違い線の細い風貌で、肌は青白く不健康そうだ。事実、ここしばらく外出していない。店を手伝うことすらしていない。そう、この男は引きこもりのニートなのである。

 もっとも、浩市としては彼に店を手伝われても困るのだ。むしろ、今のように家に閉じこもっていてくれる方がありがたい。


「兄貴、遅かったじゃないか。何かあったのかよ?」


 その声は不安そうだ。何を心配しているのかはわかっている。浩市は、面倒くさそうに答えた。


「大丈夫だ。異常はない」


 もちろん嘘である。

 見たことも聞いたこともないもの……いや、そんなありきたりの言葉では語り尽くせないだろう。

 とにかく、まだ発見されていないはずの未知の生物が、すぐ目の前に現れたのだ。これを異常と言わずして、何を異常と言えばいいのだろう。どこから見ても、完全なる異常事態だ。

 しかし、その事実は伏せることにした。誠司が心配しているのは、そんなことではない。それに、これ以上悩みの種を増やしたくはなかった。


「そうか……よかった」


 誠司はホッとした表情になる。金色に染まった髪を掻きながら、口元を歪めて笑った。

 嫌な笑い方だった。かつて弟は、北尾村キタオムラでも一番のワルと言われていた男だった。幼い頃から問題児として知られており、中学生になると手のつけられない不良少年となる。あちこちで悪さを繰り返し、父と母と浩市がそのフォローに回っていたのだ。それが、誠司という男だった。

 そんな面影は、今はどこにもない。浩市の目には、怯えきった無力な青年として映っていた。




 家に入った浩市は、茶の間にて夕食を食べ始めた。母の理恵子も一緒だ。弟はというと、自室にこもっている。これまた、いつものことだった。

 ふたりの食事は、暗いものだった。どちらも、喋るために口を開こうとはしない。ただただ黙々と食べている。

 かと言って、お互いの存在を無視しているわけでも、疎ましく思っているわけでもない。時おり理恵子が、何か言いたげな視線を送ることもある。それに対し、浩市も目線を返す。

 何とも奇妙な食事風景だった。家族らしからぬ光景ではあるが、それも仕方ないことだった。

 一家団欒などという言葉は、この安藤家には永遠に無縁のものとなってしまったのだから──




  

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