23)カイキする日々

23-01

 月のない夜。星もあまり見えない。

 白狛神社跡地近くの駐車場で、仁科の車から降りた時、南の空に明るい星が一つだけ見えた。

 木々の隙間からは、山の麓の街明かりがチラついている。

「小坂は待つの?」

「え、どうしよう……」

 自転車があるから、と和都の家を出る時に小坂は一人先に出発したのだが、山の坂道を上がってくる途中で追い越してきていた。

「わりと近くだったし、待ってもいいんじゃない?」

 坂道の下の方へ視線を向けると、道路沿いに等間隔に立つ街灯とは別の、丸い明かりが左右に小さく揺れながら、こちらに向かってきている。

「あーほら、きたきた」

 自転車を立ち漕ぎで向かってきていた小坂は、予想よりも速く和都達のいる駐車場にたどり着いた。

「だぁー畜生、負けた!」

「車に勝てるわないだろー」

 菅原はそう言うが、小坂はそこそこ本気で先に到着するつもりだったらしい。

 ぜぇぜぇと呼吸を荒くしながら「くっそぉ」と小さく呟き、自転車を仁科の車の近くに駐める。

「じゃあ、行きますか」

 車に積んであった手持ちサイズのライトを点けた仁科が先導し、駐車場の脇にある小さな道へ向かった。

 雑草が刈られ、多少分かりやすくなった出入り口の先は、深い闇を飲み込んだように静かで暗い。駐車場エリアや跡地の脇を通る道路沿いには、麓から等間隔に街灯が立っている。だが、神社跡地はそこを外れる通路を上がった先にあるため、明かりは一つもなく真っ暗だ。

 和都は家から持ってきた懐中電灯を、春日達はそれぞれスマホのライトを点けて注意深く進む。

 山の中、まだ秋口だというのに虫の音もなく、妙に静まり返っていて、昼間の明るい時間とは雰囲気が全く違う。崩れた石段の残骸を踏み締める、ザリザリとした音だけが響いた。

 坂道を登り切った先、綺麗に整地された暗い空き地が見えてきた、と思ったその時、

〔あ、カズト! やーっときたぁ!〕

 不意に暗闇の中から声がして、突然、空き地をぐるりと囲むように、一気に明かりが点いた。

「な、なに? なに?!」

 後方にいた菅原が、前の方にいた和都にすがるようにくっつく。

 明かりの正体は、すべて宙に浮かんだ火の玉だった。

 まるで明かりの灯された石灯籠が並んだ、夜の神社を思わせるような雰囲気だ。

 その薄ら明るくなった、空き地の一番奥のほう。

 初めて来た時には大きな倒木があり、今は綺麗に切り整えられた切り株のある辺りに、真っ白で巨大なオオカミが一匹、前足を揃えてお座りした状態でそこにいた。

〔もう待ちくたびれたよ〜〕

 牙の覗く口を大きく開けて、欠伸をしながらハクが言う。

 オオカミの座るすぐ近くには、綺麗に作り直された、小さな黒い屋根と白い壁で作られた祠。

 和都は小さく深呼吸をすると、砂利石を踏みしめながらハクのほうに一人近づいていく。

「ハク……」

 魂の繋がりが途絶えた状態のハクは、バクが自分を食べる計画を中止した、という事実を知らない。

 和都としては、出来れば話し合いですませたかった。

 もしかしたら、ちゃんと話せば分かってくれる、という考えもあったかもしれない。春日がバクに託された札で強制的に動きを止めるのは、少しやりすぎのように思えたからだ。

〔ここに来たってことは、カズト、みんなとのお別れは済んでるんだよね?〕

 ハクは和都が近づいてくるのを見て、すっと四本足で立ち上がる。空き地を囲む火の玉の明かりで、白い毛並みが艶やかに揺れた。

「ハク、あのね……」

 和都が口を開くも、ハクは聞いているのかいないのか、金色の瞳を細めてただニッコリ笑う。

〔んじゃあ、早速、いっただっきまーす!〕

 後ろ足で地面を思い切り蹴り、前足を伸ばしたハクが大きな口を開けて真っ直ぐ、和都に向かって突っ込んできた。

「……!」

 すぐに仁科が和都を抱き抱えるようにして横に飛び、後方にいた春日たちも逆方向飛んでハクを避ける。

 地面に敷き詰められた小石が、ジャラジャラと音を立てて跳ねた。

 獲物を捕まえられずに着地したハクは、眉を下げたような顔を和都のほうに向ける。

〔もー、なんで逃げちゃうのぉ?〕

「んなもん、逃げるに決まってんだろーが!」

 小坂が叫び、バクに向かって持ってきていたバスケットボールを投げた。だが、大きな尻尾であっさり叩き落とされて、大した攻撃にもならない。

〔痛くしないから大丈夫だよ!〕

「そういう問題じゃなくて!」

〔じゃあ、なぁに? カズトはボクと一緒にいたいんじゃなかったの?〕

 ハクがまるで駄々っ子を相手にした時のような、困った顔をした。

「……一緒にいてくれるのは嬉しい。でもおれ、まだ死にたくないよ!」

〔ニンゲンのままがいいのー? でもカズトの周り、ひどいことするニンゲンばっかりじゃん!〕

 和都が叫んで訴えるが、ハクはぶんぶんと二本に分かれた尻尾を大きく振って、呆れるばかりだ。

〔お家とかお部屋とかに閉じ込めたりさ、あっちこっち追いかけ回したり。カズトにいっぱい痛いことするニンゲンもいたよね!〕

「痛い、こと……?」

 ハクの言葉に、菅原が訝しんで和都のほうを見る。春日はただ唇を噛み締め、ハクを睨みつけていた。

 真っ黒な記憶が一瞬頭を過っていって、胸の奥の古傷がじんと痛い。

「……ハクはずっと、見てたんだもんね」

〔そうだよ! でもボクはバクがいいよって言わないと、助けてあげられないからさぁ〕

 そう言ってハクがピンと立てていた両の耳を垂れる。

 ハクの言葉に仁科がなるほど、と頷いた。

「つまりお前は、バクが使役する『狗神』だった、というわけか」

 狗神は使役する『狗神遣い』の命令で、人を殺したり、人に憑いて発狂させることができる。

 バクは祟り神として仁科家の末子に憑き、ハクはそんなバクの裁量で動く狗神として側にいたようだ。

〔そんな感じ! でも、バクがボクを使うことって、あんまりなかったなぁ。バクの目を見ただけで、ニンゲンはすーぐおかしくなっちゃうし。そのくらい、ニンゲンって『鬼』に近いんだよね〕

 ハクはどこか呆れたようにそう言った。

「……そうだね、そうかもしれない」

〔だからさぁ、カズトもそんなニンゲンなんかと一緒にいることないよ!〕

 ハクの言う通りかもしれない。

 人間の悪意も、狂気も、たくさん見てきた。

 その全部に絶望して、さっさと死んでしまいたいと思っていたから。

〔自由になりたいんでしょ? だからボクが、自由にしてあげる!〕

 再びハクが大きな口を開け、和都に向かって突っ込んでくる。

 それを仁科と一緒に横に飛んで避けると、祠の近くまで来ていた。それより後ろは雑木林で、逃げられそうなスペースはあまりない。

「でもそれは、おれの望んだ自由じゃない!」

〔えー? ボクと一緒になれたら、カズトの会いたがってた、オトウサンにも会えるのにぃ〕

 ハクの言葉に、ハッと息を飲む。

 亡くなってから、幽霊が視えるはずのこの目で視えなかった、実の父。

「……やっぱり父さんが視えないのは、神様になっちゃったからなんだね」

 普通の人に視えない世界のことを知るうちに、それはなんとなく理解していた。

 寂しい時、辛かった時に、泣いても叫んでも、現れることはなくて。

 遠くにいってしまった神様には、話しかけることしかできない。

〔そうそう! だからさ、ボクらと一緒になって会いにいこうよ!〕

「……ごめん。ごめんね、ハク」

 ハクと同じ神様になれば、会いたい人に会えるのかもしれない。

 父に会えたら、たくさん話したいことがある。聞いてほしいことがある。

 できるなら頭を撫でてほしい。

 でも、

「それでもやっぱり、おれはまだ人間として生きていたいよ」

 やりたいことも、約束も、人間の自分じゃなければ出来ないことだ。

「酷いことする人もいたけど、助けてくれる人もたくさん、たくさんいたから」

 そうでなければ、きっと自分はここにいない。

 自分にここにいて欲しいと思う人達のために、生きていたいと思うようになった。

「だから、ハクと一緒にはなれない。……ごめんね」

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