相模和都のカイキなる日々

黑野羊

1)狛犬

01-01

 高校二年になる相模さがみ和都かずとは、昔から他人に視えない変なものをよく見た。

 空中に浮かぶ人の顔、横断歩道の途中で消えてしまう黒いモヤ、通路を歩く膝から下だけの足。

 そういったお化け、幽霊、怪異の類には、『いいもの』と『いやなもの』があって、視えてしまう大抵のものは『いやなもの』だった。そしてそれらが視えてしまうと具合が悪くなり、だんだん心臓が痛くなる。

 しかし、今この目の前にあるものは、珍しくどちらか分からない。

 新学年になった新学期、最初の日。始業式のために徒歩圏内にある狛杜こまもり高校へ向かう途中の出来事だった。

 よく晴れた早朝。学校へ向かうには遅くも早くもない時間だというのに、家を出て駅から学校へと続く大きめの通りに出た瞬間から、辺りの音がまるで一気に音量をゼロにしたかのように消えていた。

「……あれ?」

 音だけでなく、誰も居ない。まるで世界に自分だけになったような気分だ。

 こういう時はだいたい『何か』がいる、というのは経験から知っている。とりあえず学校へ向かう道をそのまま歩いていると、やはりその『何か』はいた。

 犬の生首。

 ピンと立った耳にシュッと伸びた鼻、口はわずかに開いて舌が少しだらりと垂れている。

 真っ白で毛並みもふさふさとしており、通常ならば首輪をする辺りに赤と白が交互に捻られた太い紐を巻いていたが、その後はぶっつりと切り取ったようにない。

 それが宙に浮いていた。透明な空間から、頭だけをこちらに突っ込んで覗き込んでいるようにも視える。

「……なにこれ」

 不思議ではあるが、怖くはない。嫌な感じも良い感じもしない。

 もし『いやなもの』なら、頭が痛くなったり、心臓を握り潰すような痛みが起きるはずだが、それもない。

〔こんにちは!〕

 頭の中に響くように声が聞こえる。自分よりも年齢の低い少年のような声だった。

 辺りを見渡すが、人間は誰も居ない。

「……え?」

 目の前に浮かぶ犬の生首は、ニコニコと笑っているように見える。

〔こんにちは! あぁ、朝だから『おはよー』だったね〕

「お前が、喋ってるの?」

 瞳孔が縦に一本だけすっと入った瞳は、金色の琥珀のような色をしていて、一度だけパチリと瞬きをした。

〔うん! ボクの名前は『ハク』だよ。よろしくね〕

「よろ、しく……?」

 見た目の異様さとはかけ離れた妙に明るい話し方をするので、どう受け取っていいのか分からず、和都は混乱してしまう。

〔急にごめんねぇ。でもちょっと伝えたいことがあってさ〕

「伝えたいこと?」

〔『鬼』が来たよ!〕

「『鬼』が来た?」

 予想外の物騒な単語にオウム返しするしか出来ない。しかし、『来る』ではなく『来た』というのが引っかかる。それではすでに、この辺りに『いる』ということになってしまうではないか。

「……え、その『鬼』って昔話とかに出てくる『鬼』?」

〔そう!〕

「角が生えてて、人間を食べるっていう化け物の、あれ?」

〔そうそう!〕

 目の前の奇妙な犬の生首は、ハキハキと明るい声で頷く。

「ええ……」

〔そんでねぇ、カズトは『鬼』に見つかっちゃったから、気を付けて欲しいの〕

「いや、気を付けてって言われても」

〔しかも今時の『鬼』は、昔話に出てくるのみたいじゃないからね! 色んなところにいて、ニンゲンにも紛れてるからね!〕

「そんな」

〔でもカズトにはちゃあんと視えるから、分かると思うよ!〕

 思う、と言われても。

 確かに今まで様々な異様なものを見てきたが、絵本さながらの『鬼』という化け物は、それらしい姿をしたものすら見たことがない。

「……捕まったら、食べられる、とか?」

〔うん! だから、逃げてね!〕

 冗談のつもりが、全力で肯定されてしまった。

「は? えっ?!」

〔そろそろ時間切れだぁ。まったねー!〕

 物騒なことを言うだけ言って、犬の生首はしゅるしゅると渦を巻くようにして、すぅっと消えてしまった。

「あっ」と思った次の瞬間、今度は辺りの音がスイッチをオンにしたかのように、一気に聞こえてくる。

 誰もいなかったはずの周囲に、気付けば当たり前に、同じように高校へ向かう学ランを着た生徒たちが歩いていた。

「……なん、だったの」

 終始ずっと雰囲気と内容と声色がチグハグで全く合っていなくて、どうにも腑に落ちない。

「和都」

 後ろのほうからこちらを呼ぶ声がして振り返ると、見知った顔が近寄ってくる。

「あ、ユースケ。おはよ」

 中学からの友人で、同じ高校に通う春日かすが祐介ゆうすけだった。

 学ランの胸元には、和都と同じ二年生を表す白いネームプレートが付いていて、黒文字で『春日』と書かれている。中学の頃から周りより頭一つ背が高く、高校になってもやはり見上げるように話す相手で、背の低い和都には少し羨ましい高さだ。

「ちゃんと寝たか?」

「二十二時には寝ましたー」

 和都はそう答えると、そのまま春日と一緒に歩き出す。

 知っている顔を見たことで、ようやく現実に戻れたような気がした。

「もし無理そうなら早めに言えよ」

「分かってまーす。……心配性だなぁユースケは」

 中学から一緒の春日は、他人に視えない『いやなもの』のせいですぐに具合を悪くする和都の体調を常に気にかけてくれている。

 だが、普通の人に視えないものが視えることは、そんな春日にも言えていない事実だった。

「しかし、またユースケと同じクラスかぁ」

「そうだな」

 無表情に近い春日の生真面目な顔には、さして感情は見えない。

「……仕組んだ?」

「仕組んでない」

「本当にぃ?」

 辟易するほど頭がよく、優秀すぎるこの友人は、生きていくのに困りごとの多い自分を、中学の時から何かと手助けしてくれる。それもあり、一緒にいる時間の多い春日とは、そのうち下の名前で呼び合うような間柄になった。

「仕組んだ覚えはないが、『保健室の利用回数年間一位』の問題児のために、配慮はされたかもしれないな」

「……あっそう」

 無表情だった春日の口角が小さく上がっていたのに気付く。一年生の時は保健委員をやっていた春日のことだ。きっと『かも』ではないんだろうな、と和都は内心息をついた。



 学校に着き、昇降口から教室のある本校舎へ入ると、二年三組の下駄箱で一年の時から同じクラスの、菅原すがわら佳壱けいいち小坂こさか友紀ともきもちょうど上履きに履き替えているところだった。

「あ、おはよー」

「お、相模に春日、おはよ。また同じクラスだな」

「ああ」

「ちょうどいいじゃん。クラスの班、またこの四人で組もうぜ」

 授業では何かと四人一組みの班で活動することが多く、菅原と小坂とは一年の時に同じ班で活動もしており、そこから仲良くなった二人だ。

 持ってきていた上履きに履き替え、履いてきた靴を入れようと『相模』と書かれた下駄箱の棚を開けると、丁寧に三ツ折りされた紙がそっと置かれていた。

「……うわ」

 和都は嫌な予感がして小さく声を漏らす。それに気付いた菅原が後ろから覗き込んでいた。

「あらあらあら〜。新学期から『狛杜こまもり高校のお姫様』は大変ねー」

「菅原、今度ソレ言ったら殺すよ」

 ため息をついてそれを取り出し、紙の置かれていた場所に靴をしまう。

 畳まれた紙の内側は思った通り、和都への愛を長々と綴った、所謂ラブレターであった。しかし狛杜高校は男子校なので、差出人も当たり前に男子である。

「いやー、これまたビッシリと」

「手書き? 字ぃキレイじゃん」

 後ろから菅原と小坂が面白半分に覗き込んでいた。

「……見るなよ」

 和都は昔から、よく色んなモノを惹き寄せる。

 散歩中の犬、近所の野良猫、話したこともないクラスメイトや学校の先生。他人に視えない変なものだけでなく、男女を問わず、異常なまでに他人に執着されてしまう。こうした手紙をもらうのも日常茶飯事だ。

 上から下まで丁寧に書き綴られた文字に目を通した後、和都はその手紙をまた三ツ折りに戻す。そしてそのまま、表情を変えずにビリビリと縦横二重三重に破いて、下駄箱近くにあった購買部と自動販売機の間の『紙くず』とラベルの付いたゴミ箱に、紙切れとして捨てた。

「えぇー。相模、さすがにそれはちょっと……」

「『ご迷惑なら破いて捨ててください』って書いてあったし、迷惑だから破って捨てただけ」

 菅原が眉をひそめて諫めたが、和都は手紙を読んでいた時と変わらない表情でそう言うと、三階にある二年生の教室へ向かうため、西階段を上がり始める。

「相変わらず、塩対応ねぇ」

「甘くしたところで、おれには何の得もない。つか、なんで男子校でもこんなに来るんだよ。意味わかんねぇ」

 小中高といつだって手紙や呼び出しが付き纏い、そしてそれは時折エスカレートして事件になることもあった。基本的には女性からが多かったということもあり、その面倒さから逃げるべく、高校は男子校を選んだのだが、数は減れども残念ながらなくなることはない。

「まー『姫』じゃ仕方なくね?」

「お人形さんもビックリな美貌に、低い身長、華奢な肩! 黒髪にパッチリ黒目の色白美人で、唯一の趣味は読書! ……なーんて、女子だったら役満だよー?」

「マジで最初に『姫』とか言い出したヤツ誰なの? 殺したいんだけど」

 そう憤る姿すら、綺麗な顔のせいで台無しになってしまうのも困ったところである。

「……残念ながら、性格もクチも悪りぃんだけどな」

「見た目だけで判断するようなヤツを、好きになるかっての」

 小坂がケラケラと笑う様子に、和都はふんと鼻を鳴らしてみせ、二年三組の教室へ入っていった。

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