BIRTH VOICE

白い人

運命の寄り道

第1話 世界は小さな産声一つから始まった

 人界歴五六五年、初冬期(十二月)最初の日。

 人王国ニュードミネイトでは雪雲が国土の大半を覆った。国端にあるワームタウンでも初雪が積もった。

 明かりが灯る町の家々は寒さを凌ぐためか、戸や窓を固く閉ざし、屋根や雨樋に薄く雪を積もらせている。


 パチパチと暖炉の中の薪が炎に身を焦がされ灰に変わっていく。その音を掻き消す声が室内に響き渡る。

 桶にお湯を溜めてタオルを浸し、絞ってと、慌ただしく動く女。少しだけ、桶のお湯が淵から溢れたがお構いなしに廊下を駆ける。

 暖炉の部屋に辿り着いた女は、横たわる女に駆け寄った。

 桶を目の前の女の股座のすぐ近くに置いて、足を支えてやる。


 甲高い唸り声が響き渡る。部屋の中には横たわる女の他にも複数の人間がいたが、皆それぞれ無事に終わるまで声を出すことができなかった。

 唯一、女の手を握る男は彼女の耳元で声援を送り続けた。

 涙を流し、痛みに耐え、声を上げる女が最後に雄叫びのような力み声を出した。


 世界が静まり返ったのかと錯覚してしまいそうな一瞬の静寂の後、「ふぎゃあ」と小さな産声が響き、やがてそれは大きな声で誕生を主張するようになった。


 産まれたばかりの命は、母の声と手の温もりを感じてか安心したかのように眠りに落ちる。


 奇跡が産まれたばかりの平和な国。その中にある小さな町に、近づく運命。


 獣を連れた少年が、雪の中を歩いている。

 碧色の瞳を宿し、近づく町を見据え、白い息を吐いた。


「キュウ、もうすぐだよ」


 少年が肩に担いでいる荷袋が声に呼応するようにうごめいた。ゆっくりと口が開いていき、ポンっと獣の首が出てきた。

 白い毛がふさふさに伸びた耳長鼠だった。


「あの町を越えたら、人王国だ」

「…キュウ」

「興味ないって…まあいいや。着いたらきっと驚くよ。人がいっぱいなんだって師匠が言ってた」

「キュアァ…ウ」


 あくびをする白鼠は荷袋の口を器用に中から閉め、会話?を中断した。


「雪の中にいても寝れるってきっと最高だよね」


 寝息を立て始めた旅仲間に皮肉を言ってしまう少年。それはまあ仕方のないことだった。

 くたびれてぼろぼろの茶色いコートに足の細さが浮き出るパンツ、主張の強いとんがり靴。寒さ耐性のまるでない恰好で雪景色の中を歩く少年。他に歩く人もいない雪道で拷問みたいな状況を体現している少年の名前は、ジャック。苗字はない。

 一方、袋の中ですやすや眠っている白耳長鼠の名前はキュウ。ジャックが名付けた。温かそうで毛並みのいい白毛を持っているはずなのに、雪の中を歩いたりはしないわがま…超マイペースなジャックの親友。ジャックは慣れているため、文句言わない。


 一人と一匹はある情報を求めて、ともに旅をしている。

 そして彼らが目指している人王国にはその情報、あるいは関連した情報を持っている機関が存在し、その情報をするための組織がある。

 そこにたどり着くのが今回の旅の目的なのだが、目的地手前まで来て、少しだけ足を止めることになりそうだった。


「宿、空いてるかなぁ」


 ジャックがワームタウンの入り口にたどり着くまで、それから一時間かかった。




「すいませ」

「満室だ」


 宿屋の受付の親父はジャックが頼むよりも前に、にべもない態度で断りを入れた。寒さに耐えしのぎ、やっとの思いでたどり着いた宿屋に、入って数秒足らずで泊まれないと言われたジャックの顔は氷のように固まっていた。

 暖炉のある部屋でベッドに飛び込み、ぬくぬくの夜を過ごすことだけを考えて歩き続けていたジャックだったのだ。希望を失った人の顔といえば伝わることだろう。


「…そこのソファをお借りすることは可能ですか?」

「夜はここの暖房切れるけどいいのか?」


 この人は悪魔なのかもしれない。ジャックはおとぎ話に出てくる登場人物を受け付けの親父と重ねた。

 彼も仕事なのだと自分を落ち着かせる。


「別の宿屋って近くにありますかね」

「隣町まで行くか、王城付近の街は宿屋が多いぞ。うちより狭いのがゴロゴロある。どっちを選んでも着くのは明日を過ぎることになるがな」

「…そうですか」


 外はジャックが宿屋に着いた頃くらいから、雪が吹雪きだした。本格的になるのはもう少し後だろうが、暗くなるにつれて視界が悪くなっていくことも危険だ。

 目的地目前の雪の中で、冷たい夢を永遠に見ることになるのは当然避けたい。というか、ジャックはもうすでに大分限界だった。

 靴は溶けた雪で濡れて最悪だし、コートもパンツも風の冷たさを凌ぐことですら役に立てないことをこの一時間以上の歩行で思い知らされた。

 風も雪も凌げる屋根と壁があり、かつ一応横にもなれるソファは、運命が与えてくださった奇跡なのかもしれない、ジャックはそう思うことにした。

 「ではソファを」とジャックが言ったと同時くらいに、宿屋の親父は「レベッカ、こっちに来てくれ」と奥から人を呼んだ。

 ごねる客を追い出すための人員を呼んだのかとジャックは身構えた。しかし、奥から出てきたのはジャックよりは年上の若い女の子だった。


「なんですか」

「もう上がりだな?」

「はい」


 女の子は荷物を肩に掛けていて、暖かそうなコートとマフラーを着ていて、貸してくれないかなとジャックは思った。そんな話には当然ならなかったが、ジャックが驚くような会話が始まった。


「このおっさんをお前の家で一泊させてやれないか?」

「えー?!」


 予想外の提案をされた女の子は嫌そうな顔をした。

 ジャックは黙ってこの交渉が終わるのを待つことにした。少し引っかかる言い方もあったが、…このおじさまは実はとてもいい人なのかもしれない、とジャックは手のひら返しなことを思った。

 おじさまが女の子との交渉を続ける。


「まだ大丈夫だとは思うが、暗くなっていく雪道は危険だ。看板娘のお前に何かあったらと思うと、先生に顔向けができなくなるからな。このおっさんに送り届けてもらう代わりに一泊をってことだ」

「一人でも帰れますよ私」

「ここでおっさんに寝られて、朝冷たくなってましたは、俺が困るって言えば伝わるか?」

「ええー?」


 二人の会話を黙って聞いているジャックはダイレクトに伝わってくる女の子の嫌そうな声と表情に少し傷ついていた。


「わたし、女の子ですよー。夜道で襲われるかもとは考えてくれないんですかー」


 品を作って抗議する女の子だったが、親父に鼻で笑われた。


「自分で何とかしてしまうだろお前」

「そういうことじゃないです」


 否定はしない女の子にジャックは苦笑いした。

 それがいけなかったのか、女の子がジャックのほうを見て品定めするような目を向けてきた。目を逸らしてしまうジャック。


「…まあ大丈夫そうか。仕方ないから良いですよ」

「先生には俺のほうから連絡しておくよ」

「はーい」


 なんでか許された。ジャックは胸をなでおろす。

 交渉が終わった二人はそれぞれで動き始めた。親父は戸締りを始め、女の子は奥の部屋?に戻っていく。ジャックは居心地悪くなりその背中に声をかけた。


「あの」

「こっちです。ついてきてください」

「…はい」


 まるで客として扱っていない模様。これはどうなるのだろうかと、一人分からなくて戸惑うジャック。とりあえず後ろをついていくのだが、外に出ると寒さと雪の攻撃が弱っているジャックの身体に一気に押し寄せてくる。

 たまらず、女の子に詰め寄るように尋ねてしまう。


「(家は)ち、近いんですか‼︎」

「近づかないでください。倒しますよ?」


 寒さで震えるジャックは襲われると勘違いされたことに心を痛めた。が、そんなことどうでも良くなるくらいに体が冷えてきた。

 寒さで重たくなる目を凝らして、「あまり近づかないでください。間違えてぶっ倒してしま……」と物騒な声のする方にゆっくり前進した。

 遠くの方に明かりが灯った家々が見える。みんな、寒さなど感じない温かい部屋の中でそれぞれの夜を過ごしているのだろう。情景が浮かんでくる。ずるいよーキュウ、布団を独り占めするだなんてうふふふ……。


「ふふふ……ははは……」

「着きましたよ」


 ジャックが意識を取り戻すと、そこは横に長く伸びた平たい大きな家だった。

 背の高い扉の前に立つ女の子はドアノブを捻り、開け放った。靴を脱いでズンズン中に入っていく女の子に困惑したジャックはその背中に聞こえるくらいの声を張り上げた。


「あの!僕はどうしたら…」

「靴を脱いだら待っていてください。着替えと父を探してきますので」

「はあ」


 広い家だから、彼女のお父さんは迷子になっているのかもしれない。でもそれだと家主の人でも迷子になるような場所に女の子を一人で行かせて良いものか?娘なら血は争えないのでは?などと考えているうちに女の子の姿は消えていた。今更追いかけても確実に自分が迷子になるだけだったので、風は凌げる玄関でジャックは待つことにした。


「へ…くしゅん!!」


 鼻がズルズルと水音を奏でた。

 担いでいた荷袋を肩から降ろし、座り込んで靴を脱いだ。やっぱり足は濡れていて、まるで海で溺れた時のように靴は水を吸っていた。これで室内を歩いていたら失礼だったろうとジャックは笑った。


「へっくしょん!!!」


 くしゃみの音で起きたのか、荷袋が蠢き始めた。

 ゴソゴソと動く荷袋から顔を出した友は、自分を見て鼻で笑うことだろう、ジャックは朧げにそんなことを思った。

 眠気に襲われて視界がぼやけていく中で、友達の姿が見えたのだが、なぜか横になっていた。まだ寝るのかと、笑いそうになってジャックの意識は掻き消えた。





 次にジャックが目を覚ましたのは、温かい布団の中でだった。

 パチパチと割れるような音のする部屋で、自分はいつの間にかベッドに侵入していたことに気づく。すぐに出ようと思ったのだが、体が言うことを聞かず、背中がくっついたように離れなかった。仕方がないので、口元まで掛けていた毛布を少し下げて、普通に動く首だけを回し周囲を見回した。窓が見える方は明るい空が見えた。朝だ。雪は降っていないな。反対は…


「おはよう。ぐっすりだったわね」


 知らない女性が、ベッドに座っていた。嬉しそうな笑顔で微笑んでくれている。

 ジャックはぎこちない笑顔で挨拶を返した。


「おはようございます。…えっと?」


 誰ですか?と尋ねようとして、ジャックは躊躇った。

 たとえ愛想がいい女性であっても、名前を突然尋ねたら襲われるかもしれないと思ったからだ。ジャックの師匠の時がそれだったので、以後名乗るのは自分からとしているジャックは必要な時以外は名乗りそれをあまり好んでしようとしなかった。

 必要なのは相手から先に聞かれた時と、勝負をしかける時のみ。師匠の数少ない教えだった。

 しかし、女性は襲いかかる雰囲気なく、自ら名乗った。


「スーザン・カーネルよ。よろしく、白髪の妊婦さん」

「え?あ!」


 女性、スーザンの言っている意味がよく分からなかったジャックは指を向けられて気づいた。彼女の指差す先はジャックのお腹の方で、確かに膨らんでいたのだ。おまけにモゾモゾと蠢いている。ジャックが起き上がることで毛布が捲れ上がった。

 膨らんだお腹の正体、それは毛布の中で丸まって寝ていたキュウだった。

 大きなあくびをして伸びをする友にジャックは呆れた笑いが出た。


「キュウ、僕は君のベッドじゃな……あ!」


 ピョンとベッドから飛び降りたキュウはジャックの言葉に耳を貸している様子はなかった。隣のベッドにトコトコ近づいて行き、飛び乗った。

 ジャックは遅れて気づく。スーザンが|耳長鼠≪キュウ≫を見れば驚かせてしまうということに。おまけにベッドにも上がってきてしまえば泣き叫んでしまうかも。

 ジャックはキュウを抑止しようと声を上げた。


「待ってキュウ!」

「まあ、可愛いお子さんね。うちの子よりも大きいわ。なんてね」

「…え?」


 スーザンは「ふふふ」と笑ってキュウの頭を撫でた。

 ジャックは混乱した。訳がわからない、と。スーザンにキュウが撫でられている光景を不思議に見つめていると、新たな人物達がその部屋に現れた。


「おはよう、スーザン」

「あら先生、彼が起きましたよ」

「本当だ。どうだい具合は」

「え?え?」

 

 知らないおじさんだ。宿屋の親父より、少し老けていて丸い見た目のおじさんだった。スーザンと比べ落ち着いた笑顔をジャックに向けている。とりあえずジャックが分かったことは、彼が医者だということのみだった。


「Dr.クラウディーだ。K先生、雲先生、みんなからはそう呼ばれている」

「ということはここは病院で、僕はベッドを勝手に借りてしまったと。……すみません!」

「ん?勝手に?いや私が運ぶように娘に頼んだんだよ。ベッドは幸い空いていたからね」

「あ、お姉さん…」


 医者、K先生の後ろに立っていたのは、あの女の子だった。昨日と恰好が違ったのですぐには分からなかった。確か名前を…


「レベッカよ。あなた、子どもだったのね。昨日はびっくりしたわ」

「すいません。玄関で待ってたところまでしか覚えてなくて…」

「当然よ。だってあなた気絶してたもの」

「はい?」


 寝ながらベッドに侵入していたのかと思い込んでいたジャックは怒られるかと身構えていたのに拍子抜けした。

 K先生がジャックの頬に手を当てたりして様子を見てくれる。


「うん。血はちゃんと通っているな。…君は昨日、低体温症で倒れたんだよ。玄関でね」


 K先生はスーザンの方も肌の様子や、呼吸を測ったり医者らしい行動をしながらジャックの話を続けた。


「暖炉をつけていたのがここの部屋しかなくてね、彼女には悪いと思ったが君の身体を温めるためにベッドを隣にさせてもらった。君も大変だったばかりなのにすまないね」


 K先生に謝られたスーザンはそんなことないと笑った。


「私たちが無事に今日を迎えられたんです。文句なんてありませんよ。それに、大変だったのはこの子も同じでしょう」


 スーザンがキュウの背中に手を置いて毛を撫でた。悪くないといった反応を見せる友にジャックは驚く。

 K先生は「ああ、そうだった」とキュウの顎を指先で掻くように撫でた。少し嫌そうだった。


「彼が君を夜通し、温めてくれたといっても過言じゃないな。君はいい友達を持ったね」

「彼じゃなくて女性ですよ、キュウは。あと、そろそろ指を引っ込めないと…噛みます」

「おっと、そうなのか。悪いね、お嬢さん」

「ギュウ…」


 本当に嚙もうとする寸前だったキュウは、離れていくK先生の指を不機嫌に見つめた後、ふて寝するように尻尾に顔を乗せて丸くなった。

 レベッカが「で」と待っていたような態度でジャックに詰め寄った。


「その鼠、スリーパー(宿屋の名前)では説明なかったわよね?黙って宿代ごまかそうとしてたわけじゃないでしょうね、お・客・様?」

「う、そそ…そういう訳では」


 図星だった。どうせ、キュウはあのまま寝ているだけだったろうし、袋の中にいてくれていたら構わないだろうとジャックは黙っていた。それに結局、宿ではなくレベッカの家に泊まる流れになったし、客扱いもされていないのだろうと思っていたのに…

 ジャックはそういえばと、荷物はどこだとあたりを見回した。見当たらない…。


「あの僕のバッグは知りませんか?」

「バッグ?そんなもの持って……ああ、あの小さい荷袋のこと?バッグって……ふふ」


 レベッカは鼻で笑った。それに対してジャックは笑顔で肯定する。少しだけ額に青筋を浮かべて。


「バッグですよ。とても使い心地がいいんです。何処か知りませんか?大事なものがたくさん入っているんです」

「そ、そう。…ふふ。ん!ちゃんと預かってるわ、中身は見てないから安心して」


 「えっと」と言って部屋を出ていくレベッカ。荷物を探しに行ったのだろう。

 スーザンとK先生がニコニコしてジャックを見ていた。


「レベッカちゃん、あなたのことすごく心配してたから安心できたみたい。昨日は何度も(ジャックの)様子を見にきてたから」

「そうなんですか。ご迷惑だったでしょうね」


 K先生が「いや」とジャックの言葉を否定した。


「そうじゃない。うちは産婦人科だから、薬品設備が限られているんだ。それなりに知識は付けてきたつもりだが、それでも何もできない時なんかがあるからね。対応したのはレベッカなんだが、あの子は知識をつけてる途中でね、経験も少ない分不安が多かったんだろう」


 ジャックは朧げな記憶の中で、声を聞いていた気がする。不安そうな女の子の声…だったかもしれない。

 K先生がジャックに笑顔を向けた。


「君が高熱を出していたら、もっと大変だった。健康で丈夫な身体をしている。自慢していい才能だ。そして、レベッカの細かな対応も回復に影響があったかもしれない。だから、あの子のちょっとした態度にも目をつぶってほしいと言うのは親バカすぎるかな、スーザン」

「どうでしょうね。私も親に成ったばかりなので」

「じゃあ、君もそのうち、こうなるな」

「まあ」


 スーザンが笑い、K先生も笑っている。ジャックは少し置いてけぼりな感覚がしてしょうがないが、なんだか一緒に笑えてきた。「ぶしっ」とキュウがくしゃみをしてさらに笑いが込み上げた。K先生が慌ててスーザンから引き離してジャックの膝の上に置きなおした。


「さあ、スーザンはひと眠りする前に仕事があるよ。やれそうかい?」

「はい。大丈夫です」

「よし、君のほう軽い食事にしよう。ベッドから出れるかい」

「食事!いいんですか!?」


 ジャックはガバッと布団から抜け出た。その拍子にキュウが布団から落ちることになり、何とかきれいに着地して見せるが、驚かせられたことに腹を立て、ベッドから出ているジャックの足に嚙みついた。「いったい‼」と大声でジャックが叫ぶ。

 突然部屋の外から、ジャックに負けない声量の泣声が聞こえてきた。


「え」

「こら、叫んじゃいかんよ」

「す、すみません。あの声は」


 ジャックがいまだ噛んでくるキュウを必死に剝がし、K先生の𠮟責に謝った。彼も本気で怒っている様子ではなく、呆れを含んだ笑いのような顔ですぐに許してくれた。が疑問に答えてくれたのは別の人で、スーザンだった。


「うちの子です」


 それから、部屋の中に入ってくる数人の女性と、泣声の発生源の姿をジャックは見た。

 とても小さいのに声は大きく、この世のすべてに愛されてしかるべきという可愛らしさを持つ、不思議な生き物だった。

 籠のようなものから女性たちに優しく慎重に取り出されたその生き物は、嬉しそうに手を伸ばすスーザンに迎えられ、その腕の中に優しく抱かれた。

 力強く自分を主張する咆哮は、スーザンの腕に抱かれてから、ゆっくりと静まっていって、眠っているように落ち着きを取り戻している。

 ジャックもそれがスーザンの子どもだということは、彼女の腕に抱かれている様子から察することはできていた。

 だがしかし、彼はこの光景を見るのが初めてだった。


「私が、あなたのお母さんですよ」


 スーザンの眼から涙が零れた。対して、その子どもは目をしっかり開けられなかった。涙をこぼすこともない。

 だけれどジャックには、はっきりと見えた。


 親子が視線を交わし、愛を感じあっていることを。


「ほら、ここからは母子おやこの時間だ。私たちは部屋を出ようか」

「…はい」


 ジャックはなぜ自分が涙を流しているのかよく分からなかったが、K先生が部屋を出ようと後ろを向いたときに涙を拭いた。キュウを抱きかかえて、部屋を出ていく。

 ベッドを整えずに出てきたことを思い出したジャックだったが、振り向いて部屋に戻ることはしなかった。


 迷子になりそうな廊下をしばらく歩くとK先生は立ち止まり、「食堂はここをまっすぐ行って突き当たりを右だから」と言って、来た道を戻っていった。

 話していた時には感じられなかったのだが、K先生は結構忙しい人なのだろうとジャックは感じた。

 スーザンの部屋に入ってきた女性たちと似た格好の別の女性がK先生の元に駆け寄る姿を見て、立ち止まるジャック。遠い女性の表情は見えづらいが、ジャックには伝わってくるものがあった。

 スーザンのような女性とその子どもをたくさん想像したジャックは、キュウを抱きしめる腕に力が籠る。友はそれに文句を言わず、ジャックが再び歩き出すのを静かに待った。

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