忠義を尽くす

ねりを

第1話 忠義を尽くす

お慕い申しております。

どうか、いつまでも、あなたのお側に…お慕い申しております。

どうか、何も出来ぬ、私ではありますがいつまでもあなたの幸せを祈らせてください。

お慕い申しております。

どうか、私の命この身、捧げられる全てを貴女に…貴女に…。

どうか、そのような顔されませんように。

お慕い…申しております。


「栄吉さん。栄吉さん。御飯ですよ。」

うららかな春を感じさせる朝だった。章代は専用庭を眺めるのを愛する栄吉に縁側に朝ごはんを運ぶのが常だ。

「……」

いつもならむくりと立ち上がって、こちらを振り返る栄吉だが、今日は日の当たる縁側に置かれている安楽椅子から起き上がらない。

「栄吉さん。行くのですね…。」

貴女の声、もう何年も何年も、水の中から聞こえる様に遠くに聞こえた愛しい貴方の声。

「栄吉さん。ありがとう。」

こんなに澄んで聞こえるのは何年振りか。なぜ私の眼(まなこ)は開かぬ。貴女に応(こた)えたい。この喉

は鳴らぬ。貴女に返したい。あぁきっと貴女は笑っておられるのでしょうね。優しく笑って

おられるのですね。私はまた、貴女に見送られ…。



「栄吉…」

「ここは。また、お会いしましたか」

「お主の願いをかなえるには時間が足らなかったようだ」

「また、与えてくださいなどいうのはさすがにおこがましいですか?」

     


「母さんったら、拓海のいいなりになって買って来ちゃったっていうから。」

「おばぁちゃんを怒らないでよ。お母さん。」

ガチャガチャというケージを組み立てる音。レジ袋をごそごそ漁る音。

「拓ちゃんのせいじゃないわよ。私が欲しかったの。でも助かったわ。青葉が車を回して

くれて。こんなに沢山荷物が欲しいなんて思わなかったから。てっきり、ご飯だけあればい

いって思っていたのよ。」

「おトイレとかね。お部屋とか。お茶碗も人間用じゃだめなんだよ。」

「そうね。おばあちゃんより、拓ちゃんのほうがよく知ってるわ。」

本をペラペラめくる音。

「お母さん。そんなんで、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫よ。拓ちゃんも、大きくなって、おばあちゃんのお世話なんて必要なくなっちゃっ

て、寂しいと思ってたところなのよ。それに、このマンションも古くなってペット可になっ

てね。ご近所さんにもたくさん犬猫飼う人も増えてうらやましかったのよ。」

あぁ。愛しい人。やっと会えた。巡り合えた。

働き者の貴女の手は、乾いていて温かい。洗剤とハンドクリームの匂いがする。

「あら、この子、もうお母さんになついちゃっているわね。膝の上で安心しきったみたいに眠っているわ」

「いいなぁ。僕も膝の上に乗せたい!」

どたばたと子どもの足踏みの音がする。

「また、今度ね」

優しい貴女の手が額を行き来すると、まどろみに抗えない。

「何て名前にするの?」

「それはね…」



「わかっていたことだもの。むしろ私よりも先に行ってもらって安心したのよ。大丈夫よ。こうして電話も出来ているでしょ。拓ちゃんも安心してお仕事に励んで頂戴。」

次々とかかってくるスマホを切ると、章代はコタツのテーブルに手を掛けて、手の力でようやく立ち上がった。家の中でも杖を突き、スマホを首から下げ続けなければならないことにもすっかり慣れた。電気ポッドからお湯を出すと、四角いヘチマたわしのようなインスタントの甘酒を溶かした。最近はガスの火を使うのも危なっかしいと自覚があったので、文明の利器は積極的に取り入れるようにしている。おちょこに二つに分けて注ぐと、海老せんべいを添えてお盆に乗せた。甘酒を飲むときは、たまり醤油のたっぷり浸った分厚い煎餅を食べるのが好きだったのに、こちらには抗えないから少し寂しい。仏壇に上げると、缶かんのご飯も添えた。

「固形物が喉を詰まらせるからと、こちらに切り変えたとき貴方、しめしめって思ったでしょう?」

そんなことを呟きながら、章代はお線香を挿して手を合わせた。

孫の拓海が正月に京都土産で買ってくれたお気に入りのお香だ。今日はグレープフルーツの香り。

「10歳だった拓ちゃんがもう26歳なんですよ。私たちも年をとって当たり前ですよね」

拓海が正月に訪れたときには、来年結婚予定だという彼女も引き連れてきた。かわいらしい、お嬢さんで、よくこの家に遊びに来ていた小学校のころの拓海を思い出させた。目を開けた章代は、両手を合わせていたのでバランスを崩して少し倒れそうになる。危ういところで手首に引っかかっていた杖で何とか持ちこたえた。

「あらあら…ふふふ」

危ないところだったのに、章代は照れて笑って済ませ、そのまま杖を突いてコタツに戻った。

コタツの上には仏壇とおなじ、甘酒とえびせん、みかんにチョコレートが置いてあった。地べたに座るとなかなか立ち上がれないので、コタツには足つきの座椅子が置いてある。

その部分だけ隙間が出来て寒いのだが、立ち上がれない方が億劫なので我慢している。

テレビを点けると、何回も放映されているアニメ映画にチャンネルを合わせる。

「年を取って忘れっぽくなって、いいなって思うのが、何度見ても同じ話を楽しめるところなのよ」

といいながら、ミカンをヘタから、らせん状に剥く。昔どうしてそんな風にミカンを剥くのかと聞くと、じゃあどうしてリンゴはこうやって剥くの?と章代は応えて笑わせた。章代は誰の機嫌も損なわずにその場を収める魔法が使える。みかんにチョコレート、甘酒と甘いものばかり食べて飲んだ章代は、眠くなってまって、自分の両腕を枕に目を閉じ、小さないびきを掻きだした。テレビでは、魔法を取り戻した少女が、少年を助けるクライマックスシーンを映している。


「風邪をひきますよ」

少し、肩を揺らしても章代は起きない。椅子を引いて、持ち上げると枯れ葉のように軽い。

ベッドに運ぶと掛布団を二枚と毛布を掛けて電気を小さくした。点けっぱなしのテレビの中で、魔法使いが少年を助け賞賛されているシーンに変わる。



章代は朝のニュース番組でやっている犬のコーナーが好きだ。ニュースやグルメ情報は流し見るのに、そのコーナーだけは律儀に座って見ている。今朝の章代は眠りが深いようで、早く目覚めなければ、犬のコーナーが終わってしまう。私は、カーテンを開き朝日を部屋に

届けると、章代の瞼の下にも伝わったらしく、瞬きを繰り返しながら垂れた皮に覆われた小さな眼を開いた。

「章代さん、おはようございます」

「あら、栄吉さん。こんなにお寝坊してしまって恥ずかしいわ」

と章代は応えた。ベッドをリクライニングさせて半身を起こし、廊下にある車いすまで運んでトイレの便座に座らせる。少し離れたところから水の流れる音を確認すると、また車いすに乗せて、コタツの椅子まで運んだ。テレビを点けると、丁度犬のコーナーが始まるところだった。画面では、電車の出発とともに猛烈に走り出す柴犬がいた。追いつけない距離まで放されるとくるくるとその場を回転してもう一度とせがむ。

「あっははは…うふふふ」

飼い主が汗だくになって犬のリードを引く姿に、章代は笑い転げた。そのコーナーを終えると、

「あんな風にはしゃいだ方が良かったですか?」

とお茶を出しながら尋ねた。章代は少し考えた後、

「そうね…あのコーナーの大ファンだから一回ぐらい出てみたかったわ」

とテレビに出られるような特技も変わった癖もなかった私を見て

「でも、おばぁちゃんだから、貴方があまり元気でも手に余っちゃったでしょう。だから、おあいこでしょう」

ともう一度うふふとわらった。

冷蔵庫の中は、レトルトパウチの煮物やハンバーグなどの総菜、ゼリー飲料に、ペットボトル、冷凍庫にはレンジで温めるだけで食べられるお弁当や冷凍食品、棚にはたくさんのパックご飯や賞味期限の長いパンなどがぎっちり埋まっていたが、触手が動かない。何だか楽しそうではないのだ。

「折角、朝早く起きたのだし、モーニングに行きましょう」

私が声を掛けると、

「それはいいわね」

と、いたずらな顔で返事をした。洋服ダンスの中から、若草色のセーターと、グレーのパンツ、オレンジ色のケープを取り出した。

「ちょっと派手じゃないかしら?」

という章代を

「良くお似合いですよ」

と、おだててしばらく使っていなかった様子の鏡台の前に連れてくる。曇った鏡を布巾で拭くと細くなった白髪の髪を梳いて丸める。引き出しの中には結婚する前に送った鼈甲の櫛があった。それを挿すと、白い花に止まって休んでいる蝶のようだ。化粧筆で頬紅と、口紅も挿す。章代は鏡に映った自分の姿を左右に映しながら確認している。どうやら、気に入ったようだ。

マンション近くの喫茶店は、このマンションに引っ越すときから変わらずあって、変わったと言えば引っ越し当初には軽く窓に引っかかる程度だったヘデラが、今や店を飲み込むほどに立派に成長したことだろう。

「あら、章代さん。お久しぶりですね。今日もテラス席で…」

という長く勤めるウェイトレスに

「いや、今日は奥の席を借りてもいいだろうか」

と車いすを押しながら答えた。

「はい、どうぞ、空いております」

「おまたせしました」

と、持ってきたのは熱々のデニッシュにソフトクリームがたっぷりかけられたこの店の代表的なメニューだ。章代は一緒に注文したカフェオレに、そのソフトクリームを惜しげもなく掬い取って入れるとシュワシュワと熱いカフェオレにソフトクリームは溶けていった。熱いものが不得手で、甘いものに目がない章代が必ずやる食べ方だ。自分のモーニングに付いてきた小倉トーストのあんこを寂しくなったソフトクリームのてっぺんに乗せた。自分に頼んだアメリカンを啜りながら、甘いものを頬張る幸せそうな顔を見る。章代はいつだって食欲旺盛だ。

「満足したわ」

コーヒーに付いてくるピーナッツを二袋と、モーニングの半切の食パンを食べ終えると、章代も注文したものを全て平らげた。



「少し歩きましょう」

出勤時間を過ぎた城公園は、ウォーキングや散歩の老人ばかりだ。

「懐かしいわ。しばらくここに来ていなかったものね」

桜の花がアーチのように架かる公園の周辺を歩いていると、見知った顔が走り寄ってくる。

「はぁ…はぁ…」

大きなこげ茶の鈴をつけた犬が走り寄ってくる。

「この子ったら急に走り出したと思ったら、章代さんを見つけたのね」

と、飼い主の小栗さんが息を整え言う。車いすのストッパーを下ろすとベルは私に挨拶をする。

―栄吉、久しぶりだな

ベルは羽ばたきのような尾をブンブンと振り回す。私は膝を折り、ベルと視線を合わせた。

―久しぶりだな。元気そうで何よりだ

脇腹をスルスルと擦る様に挨拶をした。

―また会えてうれしかった

―あぁ私もだ

太い手綱のようなリードで小栗さんを引っ張りながらベルは反対側に進んでいった。

「相変わらずでしたね。ベルは」

初めてベルに会ったとき、章代と河原で堤防から落ちる夕日を眺めていた。私を目掛けて走り寄ってきたベルに小栗さんはリードを放してしまった。ベルは雑種だが、リバーよりも大きな体躯をしている。私は草原をベルと駆けながら彼の興奮を醒まし、リードを放してしまうほど力強く引っ張るのはいかがなものかと、まだ若い彼を諭した。

―そうか、リードを放さないぐらいならいいのだな

と、彼は妙に納得した。



思い出に浸っていると、春の悪戯な風が、落ちた花弁を舞い上がらせて章代を包んだ。桜の枝の隙間から注ぐ光を浴びてピンク色の雨に包まれた白い頭の天使。私はストッパーを外し、章代が掛けていたケープを握った。

「しっかり掴まっていてくださいよ」

タイヤは勢いよく踊り出す。桜のカーペットとシャンデリアのダンスフロアーを。

「わわっあっはははは…うふふふふ…」

回転し、左右に踊る車いすのメリーゴーランドの上で、章代は子供に返って笑い、はしゃぐ。



城内の入り口にあった茶屋は、テラス席があったのでここに足を運ぶ度に一緒によく訪れたデートスポットだ。店裏の段ボールの積み重なった雑多なところに、たぬきのように腹の丸く目つきの悪い猫が日向ぼっこをしている。いつだったか、その猫が甘えた鳴き声で章代に媚びるので腹が立って大声で追っ払って以来、猫は私の姿を見るなり毛を逆立てギャーと威嚇しながら逃げ出すので間違いない。

「この一年で、お店が変わってしまったみたいですね」

若者向けのハンバーガーがメインのカフェになっていた。メニューを見ると、レタスやトマトがざく切りが挟まったハンバーガーや、皮が弾けそうなほど中身が詰まったウィンナーが入ったホットドッグは章代の口には合わなそうだ。観光客もいなくて暇だったのか店内から若いバイトの子が出てくる。

「親子で、お花見ですか?」

私たちは目を合わせて笑った。

「いや、私たちは夫婦だよ」

と私が答えると、慌てて

「すみません」

と頭を下げた。折角だからと、店内に入ると、メニューを広げる。そして片隅にあった商品に目を惹かれた。

「お願いします」

「はい。ご注文ですね」

「この黒糖豆乳をタピオカ抜きで、あとブレンドコーヒー、それからこれを頼めませんか」

お子さまランチを指した。

「それは…お子様が対象なので…」

「さっき、私たちのことを親子といったじゃないですか…それに私の妻は歯が弱いので他のメニューは食べられそうもありません」

というと、

「確認してきます」

とバイトの子はカウンターに消えていき、戻ってくる。

「ご用意できます。ご注文は以上ですか?」

「はい。我がままを申してすみません」

頭を下げると、バイトの子は笑って「いいえ」といった。

小さなカップで整えられた旗の立ったオムライスに、ハンバーグ、ミックスベジタブル、ポテトフライがキャラクターのトレーに乗っている。章代は手を叩いて喜び、スプーンで口に運ぶ。私は薄暗い店内から鏡のように映る窓ガラスを見た。40半ばの白髪が目立ち始めた中年男がそこにいた。



「すっかり遊んでしまいましたね」

城公園からの帰り道を急ぐ。春先とはいえ、夜は冷え込む。通りがかりの花屋では、春の花が並んでいる。チューリップ、アネモネ、ミニバラ。目に鮮やかなそこにぽつんと隠れるように並んだポッドに、間延びした茎の先に小さな肉厚の花が咲いていた。

「シュウメイギクだわ」

ポッドに水やりをしていた花屋の店主が声を掛ける。

「春咲きなんですよ。珍しいでしょ」

店主は、ポッドを章代の膝に乗せた。章代は縦皺の目立つ指先でその花びらをもてあそぶ。濃いピンク色のちりめんのような肉厚の花びらが、くるみボタンのような雄花と雌花を飾っている。

「一つもらっていきましょうか?」



家に帰ると、家の中はすっかり冷え切っていた。章代を縁側の安楽椅子まで運ぶと、幼子が人形を抱くように抱えていたシュウメイギクのポッドをこちらに差し出す。

「シュウメイギクの花びらはね。もう花びらじゃないのよ。退化花弁なの。地下茎で増えていくから。ねぇ、これを縁側から一番見やすい場所に植えましょう。大きく育って秋には一面の花景色が見られるかもしれないわ」

「花弁はなんのためにある?」

章代の手からポッドを受け取ると、代わりに毛布で包んだ。

「花弁は蜂や蝶、花たちが受粉を行うために必要な行為をしてくれる虫を呼び集めるために進化したのよ。種を作らずに自分たちで地下で増やすような植物の花弁は、次第にその役割を終えてただの飾りになっていくのよ」

「そうか…」

庭に出ると、柄の取れたスコップを見つけて出来るだけ深く穴を掘って土を耕し、シュウメイギクを植える。如雨露はなかったので、台所から何杯か水を汲んで湿らすと、花ではない花が小さく揺れてお礼を言った。

「植え付けてきたよ」

と、声を掛けると章代は静かに眠っていた。



青葉は朝から安否確認ができる電気ポッドが動いていないことに少し不安を覚えて、夕方6時に鳴らすいつものスマホでの安否確認を早めにしようとパートの終わる5時を待った。働き盛りの父を失くして以来、女手一つで自分を育ててくれた母、章代は、シングルマザーだというのに娘の自分から見ても穏やかで人当たりがやさしい。それでいて、年だからホームか、うちに来るかしたらどうかというのを、マンションの一階だから不自由ないのとか、毎日連絡するから心配ないわとやんわりと断る。

スーパーの時計が5時になる。青葉はタイムカードを通すと、エプロンのまま、スマホを鳴らした。いつもなら5コールをする前に出る母が呼び出しのまま出ない。予感がして、通勤に使っている自転車で、そのまま母の住む実家に向かう。



玄関を開けるとツーンとした爽やかな匂いがする。何だったっけ?暗い玄関の明かりを点けながら頭を巡らす。あぁ。グレープフルーツだ。

「お母さん?」

少し大きめの声を掛けながら中に進む。トイレにも、風呂場にもその姿がないのを横目で確認しながらリビングに入る。マンションの専用庭に付いている縁側に置いてある安楽椅子に母の小さなお団子頭が見えた。ちらりと、横目で仏壇を確かめる。最近亡くなった愛犬の骨壺と、父の遺影、犬の缶詰におちょこに汲まれた甘酒。匂いはここからだろうか、お香の残り。

「お母さん?」

章代は、庭に顔を向け毛布にくるまれて、目を閉じている。幸せな夢を見ているようで少し口元が笑っている。

庭に見慣れない小さな花が植えられていた。









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