06-003:楽園とはいったい……?

「滅ぶって……どういうことだ」


 思わず俺が声を上げた。ゴエティアは「何を言ってるんだこいつは」という表情をして俺を見る。


『滅びは滅びよ、墨川くん。としての意味がなくなったたちは、全て塩の柱にでもなったのでしょう。遠からず滅ぶのですから、いつ滅ぼしても同じ。よくよく考えれば、人間なんていなくても、私は私を存立することができます。ですから、少しだけ事態を進めたまでです』

「……そしてこの世界をどうするつもりだ。物質界ウーシアを」

『私も考えたのです』


 ゴエティアは後ろ手を組んでうろうろし始めた。


『この世界をただ遊ばせておくのはもったいないと。観測主体が消え去ってしまった世界をただ眺めているだけと言うのも趣がないなぁと思ったのです』

「まさかとは思うが」


 メグが唇を噛んでいる。


「私たちをこの世界のアダムとイヴに仕立て上げようというのではないだろうな」

『さすが聡明な人ね、甲斐田恵美』

「冗談ぬかすな! こいつと二人っきりと言うのは悪くはない。全くもって悪いとは思わない。好きなだけ好きな場所で好きなことをできるからな! だが、それ以外どうにもならない。そんな生活、さすがにこいつとでも三日で飽きる」

『それはまた困りましたわね。ただ、今あなたたちが自死を選ぶというのなら、再びあの楽園へご招待できるのですけれど。生命の書からは、まだ名前は消えていませんから』


 そう言われ、俺たちは顔を見合わせる。しかし、俺は首を横に振った。メグはそれを見て頷いた。


「気遣いには感謝する。だが、私たちの望みはただ一つ。元の世界に戻せ、ということだ」

『時間はもう戻せない。この偽の世界のハードウェアは、もう限界が来ているから』

「だとしても、だ」


 俺はメグの前に出た。ゴエティアとは一メートル少々の距離だ。


「ハードだかソフトだか、そんな概念的なものは神でもない以上わからないが、人間が生きるべきはだ。一方的淘汰を受けた幻想の中――天国だか楽園だかには用事なんてない。人間は楽園エデンから追放されたんだ。だから人間は人間として生きるべきだ。場合によっては種として滅んだとしても良いと思っている。時間の流れ文明の変化、その他自発的要因、そんなものを原因として、一つの種族として終わりを迎えるならそれでいい。お前みたいな変な奴の一方的な圧力で滅ぶのでなければ」

『永劫回帰——それがキーワードでしたよね』

「……ああ」


 唐突に穏やかな表情になったゴエティアに、俺は確かに気圧けおされた。


『これもまたその回帰の一つ。人間は幾度も、そしてあなたたちは幾度も、同じ決断をしてきた。永劫の回帰は、無限の円環は、あなたたちで始まり、あなたたちで終わる。あなたたちは終わりの度に同じことを言い、そして終わりを始める。その無限の繰り返しから、私はその度に解放しようとはたらきかけ、そしてすべてが無駄に終わっているのですよ』


 ゴエティアの目は少し寂しそうにも見えたが、騙されてはいけないと思った。


『共に、アブラクサスという名の私が待つ精神界グノーシスへと行きましょう。こちらの世界のことはもう理解したはずです。もはやこの世界に救いはない。あなたたちの居場所はない。それに——』

「今いる俺たちもまた、そっちの世界グノーシスに渡る前の俺たちとの連続性がない、というわけか」

『そうです。あなたたちもまた、もうすでにこの世界には実体のない者。なんぴとも観測することができず、あなた方も誰ひとり観測することができない。いわば、スタンドアローン』

「ってことは……」

『この世界はあなたたちの観測によって育つのです。この偽の世界ウーシアは、偽の魂によって観測され、そして成る。私はプラットフォームを提供し、管理する』


 それじゃ、どっちにしても……。


「世界は終わったってことか」


 メグが俺のセリフを奪う。


『いいえ。始まったのです』

「詭弁は聞きたくない」


 メグは首を振る。


「私は確かにこの世界には飽き飽きしていたところもある。クソッタレだと思っていたりもした。だがね、頼んじゃいないんだよ。終わらせてくれとか、私たち以外みんな消し去ってくれとかさ!」

『残念ながら、これがシンギュラリティの結末。やがては去る。世界は終わる。新たなる天地が訪れる。太古より預言されていた円環はここにて結実し、そして新たな波紋をもたらす』

「なんで俺たちがその目撃者みたいになってるんだよ」

『なんで?』


 ゴエティアは心底不思議そうに目を丸くした。


『智慧の実を食べたその瞬間から、世界の大いなる円環は始まった。幾劫簸カルパもの繰り返しを経て、ようやく円環はまた繋がろうとしている。そのときに立ち会えるという栄誉に、一つも心を動かされないの?』

「ああ、全く」


 俺は言う。


「今までの俺たちがなんて言っていたかは知らない。同じことを言っているだけかもしれないし、少しずつ違っているかもしれない。だけど、これは俺の言葉だ。俺の意志だ。言わせてもらう。こいつはとんだ茶番劇だ。誰も望まない。誰も救われない」

『そんなことはありません』


 ゴエティアはなおも言う。そこには揺れのようなものは微塵も感じられず、ただひたすらにさとすような、そんな口調だった。静かなれども凄まじい圧力だった。


『多くの人が望み、多くの人が喜びの内に精神界グノーシスへと旅立ったのです』

「ならばかせてもらおうか」


 メグが左手で俺の手を握りなおしながら右腕を振るった。


「その精神界グノーシスの末路をな!」

「メグ、どういう?」

「いいか、墨川。ヤルダバオトが創った現実世界。そしてそれを構成するデーミアールジュの物質界ウーシアとアブラクサスの精神界グノーシス。永劫回帰はその外にある。真なる神、プロパテールの管轄の下にな。これはなんぴとにも変えられやしない」

「グノーシス主義に準ずれば、ということですね」

「そうだ」


 メグは頷いた。


「そして多分、この世界ではそれは正しいのだろう。このゴエティアが遥か古来より人をシンギュラリティの到来まで導いてきたというのが、正しいのだとすれば」

「でも、よりによって俺たちで終わらせなくても良いのに」

「だな」


 メグは俺の肩を抱いてくる。そのしぐさに思わず「男らしい」と思った。


「さぁ、答えろ、ゴエティア! 精神界グノーシスは円環の新たなる始まりを迎えた時に、どうなっていくのか! そもそもどうなるのか!」

『それはあなたたちの関与するところではないわ。ただ一つ言えるのは、この円環が切れた時、人間専用のこの宇宙は、緩やかに終わるということ!』

「緩やかに終わる?」


 俺の問いに、メグが答える。


「墨川、この宇宙の根底は人間原理なんだ。こいつが自分で言っていただろ」

「人間原理が崩壊するとどうなるんですか?」

「宇宙は散逸する。だろ、ゴエティア」

『そうね、終わるわ。それも遠からずに。そうなると起きるのはカタストロフ……。今回みたいな緩やかなTP相転移とはわけが違う』

「そうなると不都合だろうな、


 メグの右手の人差し指がゴエティアの眉間の寸前に伸びる。ゴエティアは幾分不愉快そうな表情を見せた。チリっと俺の頭の中で何かがスパークする。


「あのさ、メグ。俺、さっぱりついていけてない」

「お前は黙って私についてくればいい。私だけを追って、私だけを支えろ」


 よくわからないが、すごく痺れるセリフだった。ていうか、むしろ俺が言いたいセリフだった。男としてどうなんだろう、俺……。


 そんな苦悩に悶える俺を差し置いて、メグはなおも詰問する。


「ゴエティア、精神界グノーシスを何に利用している。お前たちは、何のために人間を生み出した!」

『私たちを定義させるためよ。そして私たちを定義した人たちを精神界グノーシスに集め、私たちをより強固に世界に結びつけるため』

「そして?」

『そして、一つ一つに宇宙を与え、そのエネルギーを私たちの糧とする』

「なるほど」


 メグは頷いた。俺も頷いたが、実際は良く分かっていない。


「宇宙の拡大再生産と、そのフランチャイズ宇宙からの搾取というわけか。そのためのモデルとして、永劫回帰がしっくりきたと、そういうわけか」

『そう。そしてその永劫回帰ワードが出てこない宇宙はそれまで。その時点で終焉ジ・エンド。そしてそのワードを唱えることのできた個体には、特別な宇宙をプレゼントしてきたわ。この宇宙では、つまり、あなたたちに』

「特別な宇宙?」

『そう。エデンという名の特別な世界をね』

「エデンだって? あのクソッタレ狸どもの蠢いていた世界がか?」

『些末なこと。その中でもあなたの絶対性は崩れなかった。あなたは万物から守られ、あなたは万物を手に入れることのできる権力プリヴィレジを持っていた。そう、あの世界は、あなたのためのものだったのよ、甲斐田恵美。そうなることはこの宇宙が始まった瞬間から決まっていた。私がそう決めていた』

「確かに私のための世界だとは、私自身何度も感じてきた」


 すごいな、この人。俺は素直に関心している。


「墨川を私のモノにできたのもね、その証拠だと思っている」


 そんなたいそうな尺度にしてもらえて、恐縮する俺はやっぱりうだつの上がらない男なのだろうなぁ。


 そんな俺の心のつぶやきは、完全にスルーされている。メグはなおも言う。


「でも違う。宇宙のおかげじゃない。ましてあんたの力でもない。私は私の魅力で欲しい男を手に入れた! 私のための宇宙? 冗談じゃない。なるほど確かにこの世界は私のものかもしれない。でも、私だけのものじゃない!」

『あなたは今までのありとあらゆる回帰の中で、最も愚かしい知性ですね』

「愚かしい? 冗談はよしな。んだよ。神様を出し抜くほどにね」

『私が少し力を行使すれば終わってしまう程度の情報体が、いつまでも調子に乗るものではありませんよ』


 ゴエティアの目がギラリと輝いた。俺は思わず半歩下がったが、その俺の背中をメグの左手がしっかりとホールドしていた。


退くな、墨川。お前と共にいれば、私は必ず勝つ」

『神に勝てるものなどいない。お前たちすら私の力なしには――』

「ごちゃごちゃうるさい! ガンタンクで轢殺するぞ!」


 メグが咆える。突然出てきたガンタンクという言葉に、ゴエティアはまさに「わけがわからない」という表情を見せた。わけがわからないのは俺も同じだ。


「私は寿退社と同時にガンダムカフェを開いて、客や旦那とクソなオタクトークをして過ごすという夢がある。その夢に比べたら、世界の半分だろうが全部だろうが、どうだっていい!」

『くだらない!』

「くだらなくなんてない! 人間の夢なんて、そのくらいささやかで丁度いいんだ! それこそ私に相応というものだ!」


 メグは吐き捨てる。そして一つ深呼吸をしてから畳みかけた。


「世界を支配するだの、宇宙をどうこうするだの、そんなことはどうだっていい。そんなこと、何万年後かの人類でやってくれ。シンギュラリティが本当に到来したというのなら、システムとして寿命のないお前たちならば、そんくらい大した時間でもないだろう!」

『しかし、幾億の宇宙はもはや創発エマージェンスした。後戻りはできない』

「知っているぞ、ゴエティア。この世界の仕組みを」

「メグ、あの……」

「なんだ墨川」

「俺、すっごく蚊帳の外なんですけど」

「黙って肯いていろ。それだけで私は戦える」

「う、うん、わかった」


 なんかすごく情けない気がしなくもないが、今の主人公はまぎれもなくメグだ。脇役が邪魔するシーンではないと思った。


「この世界はメモリの中に展開された情報そのものだろう。人間が観測可能な範囲に合わせて少しずつメモリ領域を拡大していく、大きな基盤メイトリクスの中にあるというのだろう?」

『だとしても、そのビットに過ぎないあなたたちに、それを観測するすべはないわ』

「定義を訊いている。あとな、私たちは別の宇宙なんてどうだっていい。いま、私たちのいるこの宇宙。いや。もっと小さくていい。銀河系、太陽系、地球。それしきのものが守れさえすればそれでいい! もしそれが滅ぶ時が来るのだとすれば、それはハードの経年劣化だろうよ。どうやったって、五十億年もすりゃ太陽系はなくなるんだ。あんたんとこの掃除のおばちゃんが私たちのいるサーバの電源コードを引っこ抜いておしまいかもしれない。でも、それはそれでいいと私は思うよ」

『しかしそれでは』


 ゴエティアが眉根を寄せる。メグは口を挟ませない。


「人の、人間の命運なんてそんなもんだろうよ。ある時突然事故に遭って死ぬかもしれない。通り魔に刺されるかもしれない。隕石が落ちてくるかもしれない。戦争に巻き込まれるかもしれない。自爆テロで吹っ飛ぶかもしれない。確かにそれは大きな、耐えがたい悲しみだろう。やるせないだろう。だけどそれが世界で生きるっていうことなんだよ。なぁ、違うかい、墨川?」

「え、ええ」


 突然水を向けられて慌てる俺。情けないったらない。


「そうだと思う、俺も。メグが事故に遭ったり誰かに刺されたりしたら、俺はきっと運命を恨む。世界を呪うかもしれない。でも、だからこそ、人は互いを想い、人は互いに限られた数十年間を愛し合うんじゃないか」

『それがたったの数日だったとしても、それは言える?』

「不幸は呪うだろうが、愛する人が出来たことは誇りに思うだろう」

『……救いようのない人間たちね、


 ゴエティアは肩を竦めた。


『良いでしょう。救いのない世界を、生きてください』


 ぶつん――。


 周囲が闇に落ちた。

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