04-005:利他性と利己性、そして本能

 俺たちはまた地下のあの部屋へと戻った。そしてすっかり空腹になっていたことを思い出し、まずは置いてあったカップ焼きそばを平らげる。こんな時に至ってもこんなものをすすっていられるとは、我ながらなかなか豪胆であるなぁ、なんて思う。


 メグ姐さんはカルティエの時計に視線を送りつつ、「そろそろ十時か」と呟いた。まだ眠くはない……というより脳が興奮してしまって眠れそうにない。


「さて、空腹も収まったし、眠くなる前に一戦するか」

「はい」


 俺は頷いた。メグ姐さんは食事前にトイレで着替えていた。今はスーツではなく、スウェットとショートパンツ、そしてスニーカー姿である。誰のセンスで服を選んだのかはともかく、眼福であることは事実だ。そこには感謝せねばなるまい。メグ姐さんも動きやすくて良いと言っているので、双方共に得をする関係である。ちなみに俺はなんだか味気ない黒いジャージである。まぁ、いいか。


「課長は、どうするのが正しいんだと思います?」

「ん?」

「いや、この世界はもう動いてしまっているんですよね。アンドロマリウスだかゴエティアだかのせいで」

「他のAIどももな」

「ええ、そうです。だったらもう逆戻りはできない……」

「逆戻りする必要はない。できないことを嘆いても仕方ないじゃないか、墨川」

「しかし、それでは」

「私たちは私たちの出来ることをする。今、物語の中心にいるのは私たちだ。失敗したら即座にゲームオーバー。あの白髪お化けの思う壺ということ」


 メグ姐さんは忌々し気に吐き捨てる。


「人間は私たちが物質世界ウーシアだと主張するこの世界をAIに明け渡し、AIたちの電脳の庭グノーシスの中に生きることになるだろうね。出エジプト記のエクソダスみたいなものさ」

「選ばれた人間だけが、それを許される?」

「そう、選ばれた人間だけが許される大移動さ」


 生命の書に名を記された者のみが、神と共に新たな天地に入ることが出来る――。


「じゃぁ、選ばれなかった人間は……」

か、あるいは、自我を失わされて、あるいは無視されて、AIたちの手足の一つとなるだろうさ」

「……どっちにしても人類にとって幸せな未来じゃないですね」

「いや。実際のところ、それを望む奴らも少なくはないだろう」


 メグ姐さんはやんわりと俺の意見を否定する。一瞬、俺はフリーズした。


「この雑音ノイズまみれの低劣低俗な世界にうんざりしている人間も、また少なくないということだ。選ばれた結果、より高尚な世界に移ることが出来るという事が約束されているのなら、喜んで手を挙げるものもいる」

「でも、そのためには選ばれなかった人を踏み台にする必要がある」

「ははは、お前はだな、墨川」

「そんなことはないですけど」


 俺は幾分むっとして応じた。メグ姐さんは肩を竦める。


「人はな、お前のように他人をおもんぱかったりはしないのさ。他人という集団に思いをせることはあっても、その対象というのは所詮しょせんは他人の集団。その中の、一人一人に目を向けられる人間はそうそういないし、毎回必ずそうできる人間は皆無だ。人の処理能力では限界があるから、ある程度は範疇化カテゴライズした上でそれを総評することでメモリの消費を抑制する。そうなってしまった結果生じる、その行為の過半は、たとえ利他的に見えるものであったとしても、単なる利己的な行為の発露に他ならないってことだ」

「他人に思いを馳せるのは利他的なのでは?」

「いや」


 メグ姐さんは明確に否定してくる。俺は「え?」とかいう間抜けな声を出してしまう。


「たとえ思いのみならず、そこに行動がついてきたとしても、人間の行動は総てが利己的な動機に起因するものなのさ、墨川。をするというのは、善なる彼・彼女を演出するのに最も手っ取り早い。客観的とも言えるしな。だがね、そのヴェールを剥ぎ取ったら。その彼・彼女の実態は、利己的で要領の良い特性の権化に過ぎないっていうわけだ」

「俺は別に利己的でも要領が良いわけでもないですけど――」


 せめてもの反論は、メグ姐さんの挑発的な視線に遮られる。


「お前は確かに要領は良くないな。利己的かどうかは知らん」

「……何を根拠に」

「お前は、私を抱きたいと思うだろ」

「え、何をいきなり」

「私はお前に抱かれたい」

「えええ?」


 何か引っかかるものがないではないが、俺の頭はそれどころじゃなくドギマギしていた。メグ姐さんは――性格はともかく――とにかく美人なのだ。スタイルも良いし、生命力に溢れている。一言で言えば――黙ってさえいれば――だった。


「この感覚はな、本能だ。感情とか理性とかそういうのではない、もっと根源的で本質的なもの、つまりはなのさ」

「ほ、本能だなんてそんな」

「本能を低俗なものだとでも思うのか?」

「だって、俺たちには理性があって」

「理性だって? うん、それが幻だというんだ。それはな、単なる計算結果にすぎなくて、私たちの行為その全ては、その結果にそれっぽい理由を付けて演じさせられているだけのことに過ぎない。一皮むけば、男も女も、いや、ありとあらゆるは、本能によってのみ、生きているってことさ」


 メグ姐さんは何でもないことのようにそう言い放つ。俺はもう黙っている他にない気がした。 


「私は優秀なオスの遺伝子を宿したい。お前は自分の遺伝子を遺したい。その本能だ。そのために、お前はメスに好かれようとする。私は優秀なオスを求める」

「そんな、動物みたいな」

「動物だろう、私たちだって」


 そりゃそうだけれど。でも、それ以上に――。


「まさか墨川、万物の霊長だとか言うつもりか?」

「え、ええ。人間をしてそう言うじゃないですか。ヒトは万物の霊長だって」


 俺の言葉にメグ姐さんは「ははは」と笑う。


「万物の霊長とかふざけんな。私たちはただのサルの一種だ」


 そのさっぱりしすぎた口調に、俺は思わず引き込まれかけて「いやいや」と首を振った。


「でも、課長とは」

「その課長ってのはもうやめよう。どうせ今さら本社に帰るのは叶うまい。そもそももう会社の名前すら思い出せんだろう?」

「……じゃぁ、なんて呼べば?」

「メグとでも呼べ。昔からそう呼ばれているから違和感がなくていい」

「メグ姐さん」

「姐さんは余計だ。メグだけでいい。私は年下だ。さんづけも要らない」

「わ、わかりました」

「オーケー。メグって呼べよ」

「お、オーケー、メグ」

「よろしい」


 俺たちはようやく進み始める。


「さっきの話だが、私は本気だぞ。お前はオスとして優秀だ、墨川」

「そんなこと言われましても」

「何か躊躇ためらう理由でもあったか? まさかお前、彼女でもいるのか?」

「いえ、いませんけど」

「フッ、童貞め」

「……すみませんね」


 俺は溜め息を吐いた。

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