第一章
第6話 王子様が言うには
家庭教師勤務一日目。
「この国の王家も貴族も、腐敗し堕落している。今こそ、舵取りは踏みにじられ続けてきた民衆の手に委ねられるべきなのだ」
窓からは爽やかな光の差し込む午前。
王宮の図書室にて、教師と生徒として顔を合わせたフィリップスは、白皙の美貌に青い瞳を
ジュディはその日、金色の髪を結い上げ、地味な色合いながらも固く張りのある茶色のタフタドレスに身を包み、落ち着いた装いをしていた。広いフロアに置かれたソファのひとつに腰掛けて、立ち歩きながら拳をふりかざし、朗々と演説をするフィリップスの主張に耳を傾ける。
(蒸気した頬、ぎらつく瞳、熱に浮かされた少年そのもの。これまで教師たちが教えてくれなかった「隠された真理の扉」を開いたみたい。でも、いまあなたが口にしている言葉は、本当に殿下自身がお考えになったことでしょうか?)
シンプルながら体の線を拾いすぎないシルクのシャツに、ウェストコート。裾のわずかに広がったトラウザーズが、フィリップスの均整のとれた体つきを麗しく引き立てる。動作にはキレがあり、体を鍛えているのが知れた。少なくとも、怠惰な生活は送っていないようだ。
フィリップスは、自分の背丈を超える鉢植えの観葉植物の前に立ち、ジュディに視線を向けてくる。
「リンゼイ先生は、この国の現状をどうお考えですか。女性であれば、男性に権利を制限され、ままならぬ思いをすることも多いことでしょう。世界を変えたいとは思いませんか?」
質問を耳にして、ジュディは笑みを浮かべながら、ガウェインとの会話を
――私があなたを教師にと考えたのは、この国では現状、女性の立場は男性よりも弱いからです。その意味で、あなたは貴族ではありますが、殿下にとっては「守るべき弱い者、虐げられて不満を持つ者」です。それでいて物怖じしない態度のあなたに、殿下は関心を持つでしょう。
――仲間にひきこまれるでしょうか?
――さて。そこは私も、指示する上で決めかねています。いっそ引き込まれて頂いて、殿下のブレーンを探ってもらうべきなのか。しかしあなたの裏切りに気づけば、殿下はさらに頑なな態度になる恐れもある。それくらいなら、初めから何も偽らず体当たりである方が、教育者としては妥当かと。
招聘しておいて、作戦の重要な部分まで未定とあけすけと言うので、ジュディは声を上げて笑ってしまった。そして、その場で二人で方針を決めた。
フィリップスの思想に媚びることなく、真っ向から向き合うのだと。
(教育者としてここに招かれた以上、己の信じないことを口にして愛想を振る舞い、信頼めいたものを取り付けても、虚しく有害なだけ。それでは「女性は
目を瞬き、フィリップスを見つめて、ジュディは朗らかな声で答えた。
「殿下の質問が『現状に満足しているか』という意味なら『いいえ』です。殿下がどのような方法で『世界を変える』かに関して、私はもちろん大変に興味を持っています。ご説明頂けるのでしょうか?」
真正面から、問いただす。フィリップスは自分の話にジュディが食いついたものと感じたのか、機嫌良さそうに破顔した。
「貴族の女性は現在、爵位と財産を継ぐことができない。貴族の妻になろうと、貴族の家に娘として生まれようと、当主が死没してしまい、爵位や領地その他が血縁の男性に引き継がれてしまえば、困窮して路頭に迷うことすらある。これは大いに問題だと思いませんか?」
長子相続の制度である。この国には、爵位や称号、土地や家屋といった財産のすべてが長男に引き継がれる「男子のみによる継承」が厳格に守られてきた歴史があるのだ。フィリップスは、貴族女性であるジュディに対し、まずそこについてどう考えるか、尋ねてきた形だ。
(それは多くの女性にとって、非常に辛く不都合な問題だったのは確か。そのために、貴族の家へ嫁いだ女性は跡継ぎとして男子を生むことを異常なまでに熱望されるし、産めなければ役立たずのように扱われることもある……)
将来的には廃止されるべき制度であると、ジュディとて考えている。だが、物事の一面だけを取り上げて悪し様に語ることを、ジュディは良しとしない。
「問題だとは思いますが、段階を踏んで変わりつつあります。近年では、爵位こそ血縁男性のみの継承という部分は変わりませんが、遺言状があれば財産は長女が継ぐといった方法も可能になりつつあります。私は、これまで社会を厳格に規定してきた決まり事は、いきなりの廃止ではなく、このように少しずつの変化が良いと考えております」
手放しで賛同することなく、自分の意見をはっきりと述べたジュディに、フィリップスは明らかに鼻白んだ様子であった。
目を細め、剣呑な調子で言う。
「手ぬるいですよ、先生。そんなことを言っていては、いつまでも女性の地位は向上せず、男の下に置かれたままです。生き物として、女性は何か男性に劣っているのでしょうか? たしかに、肉体的に個体差こそあれど、たいていは男性の方が大きくなりますし、力も強いです。しかし女性だって男性にはできないことがいくらでもできるでしょう? それなのに、いまの立場に甘んじて生きていて、恥ずかしくないんですか?」
意識が低すぎきませんか?
まるで、脅されているようである。
(自分の意見に沿わない相手に対して豹変する殿下に「寛容さ」はありますか? 弱き者を救うというご自身の考えに、あまりにも酔い過ぎてはいませんか?)
もし王家の教育をバランスよく享受していれば、このように伝統的なものに対して否定的で、偏った考えにはならないのではないだろうか。
ガウェインが指摘した通り、フィリップスは何者かによって考えの筋道をつけられ、その相手の望む方向へと導かれているかのように感じられた。
それはおそらく、正義のような見た目をしていて、正しく生きたい少年の心を大いに震わせたのだろう。
たとえばその相手は、フィリップスに対してこう言ったのかもしれない。
――君はこれまでの王とは違う。真に偉大にして、最後の王となって歴史に名を残す。腐敗した王権を自ら捨て、民衆の手に返すことによって。君のその尊き決意を否定し、君にあらぬことを吹き込む大人の言うことなど信じるな。
王家に生まれ育ったからといって、何不自由なく贅沢三昧な暮らしに溺れるのを当然と考え、それに執着するわけではない。
王とは、民のためにどうあるべきかを常に考える存在。
世の中の役に立ちたいと切望し、焦燥感を抱く少年が王家に現れても、不思議はない。それはとても自然なことですらある。そこを、絡め取られた。
ジュディは問題の根深さをひりひりと感じながらも、フィリップスから目をそらすことなく口を開いた。
「恥ずかしくはありません。私は自分の考えを、誇りに思って口にしています」
フィリップスの瞳が鋭さを増し、ぎりっと歯を噛み合わせた音が聞こえた気がした。その威圧を受けながら、ジュディは淡々と続けた。
「数百年前から続く慣習は、いまの価値観に照らし合わせてしまえば、悪法のようにも見えましょう。しかし、この国は長子相続の原則を貫いたことで、
「正しい歴史ではないか? そうして身分の不均衡がならされることの、何が問題なのだ」
きつい口調で言い返されて、ジュディはかすかに眉をひそめながらも続けた。
「この国の貴族は、周辺国のように、没落の一途をたどり、その役目も忘れて怠惰に生き『寄生貴族』と民衆から嫌われた貴族たちとは異なる道を歩んできました。まさにその長子相続の厳格さがあったために、いまなお圧倒的少数ではありますが己の役目を忘れず『高貴なるものの責務』を果たさんと、日々の仕事に邁進しているのです」
「ふん。たしかに王宮に巣食う貴族の中にもごく少数、政治の真似事をしている者ならいるだろう。だが、いったいどれだけの貴族が、真にこの国の行く末と民たちの不遇を憂えているのだろうか」
またもや言い返されて、ジュディは少しの間、呼吸を整えた。
(この国の貴族は、本当によく働き、率先して多くの税を収めていているの。まさかそれを、貴族に近い立場の王家の跡継ぎが、知らないとでも?)
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