第84話 シンガポールフライヤー

 次の日、鈴音は「スモーク」の開店準備をしながら落ち着かない気分だった。

 マスターがゆかりに調査報告をするついでに借金返済の計画を立てさせるからと、邦明を呼びつけてしまったので、ものすごい修羅場になったらどうしようと気が気ではなかったのだ。

 鈴音は、気を紛らすために、マスターに話しかけた。

「昨日は薮蚊に刺されてお岩さんみたいな顔になってしまったんですよ。責任をとって私をお嫁に貰ってください」

 鈴音は冗談と見せかけて、マスターの反応を窺うつもりだったが、彼の反応は想定外のものだった。

「いいですよ」

 マスターは平静な口調で答えたものの、話に乗る様子は見せない。

 鈴音は磨いていたグラスを落としかけたが、どうにか受け止めた。

 普通ならば鈴音のボケに対して乗り突っ込みで返して欲しい場面だ。

 鈴音がマスターの反応にどうリアクションしようか迷っている時、客が訪れたことを知らせるドアベルが鳴った。

 入り口からゆかりが姿を現し、その顔には思いつめたような表情が浮かぶ。

「こんばんは、もう調査が終わったと聞いて驚きました」

 ゆかりは温厚な雰囲気でマスターに告げるとカウンター席に座り、マスターがゆかりに素行調査の報告を始めた。

「邦明さんが一緒に歩いているところを目撃された女性は、浄土寺町で英会話スクールを営む福田涼子さんと言う方でした。邦明さんは、自宅の近所にある彼女の英会話スクールに通っていたのですね」

 鈴音はゆかりの表情に影が差した気がしたが、彼女は温厚な雰囲気のままでマスターに尋ねた。

「どんな感じの女性だったのですか」

「そうですね、知的な雰囲気の美人と言ったところでしょうか。写真をご覧になりますか」

 マスターはスマホに表示してゆかりに示したが、その写真は昨日鈴音とマスターが面談したときに撮影したように見える。

「マスター、いつの間に写真を撮らはったのですか?」

 鈴音が涼子としゃべっていたとはいえ、彼女も鈴音も全く気が付かないうちに写真を撮っていたことに驚かされる。

「最近は高性能の隠しカメラが極めて安価に入手できるのです」

 マスターは撮影に使ったカメラは見せる気がなさそうなので、鈴音はいったい何にカメラが仕込まれているかが気になって仕方ない。

「綺麗な人ね。邦明さんはこんな人が好みだったのね」

 ゆかりは次第に悲し気な表情に変わり、鈴音はハラハラするばかりだ。

 その時、店のドアベルが鳴り、鈴音は入ってきた客を見て息をのむ。

 それは昨夜、マスターと一緒に行動を監視した邦明だった。

「いらっしゃいませ」

 マスターは温厚な雰囲気で邦明を迎えてカウンター席を示すが、ゆかりは新たな客の顔を見て表情を硬くする。

「邦明さん」

 名前だけをぽつりとつぶやいたゆかりを見て、邦明はボソボソと話し始めた。

「すいませんでした。借りたお金は必ず返すからもう少し待ってください」

 ゆかりは、暗い表情で邦明に話しかける。

「お金のことは少しくらい時間が掛かってもよかったのだけど、連絡もくれないし、噂では違う人と付き合っていると聞いたけど」

「違う、そんなことはしていない。連絡を取らなかったのは悪かったが、君だって怖い人を使って取り立てしたじゃないか。僕は海外のプロジェクトに参加しないかと打診されて迷っていたんです」

 邦明は必死に弁解するが、何から説明すべきか優先順位を付けられない様子で、しどろもどろになっている。

「昨夜、借金の支払督促をさせていただいたのは僕ですよ。本当はあなたの浮気疑惑を確かめるためにゆかりさんに頼まれて素行調査をしていたのです」

 邦明は怖そうな顔でマスターを眺めながら尋ねる。

「浮気の素行調査?それでは昨日僕に言ったことは」

「あれはここに来てもらうためのお芝居です」

 邦明はマスターとゆかりの顔を交互に見て訳が分からないという顔をする。

「あなたが疑惑を招くような行動をしたからですよ。ゆかりさんから見たら、借金を踏み倒して他の女に走った、だらしのない男と見えているのですよ」

「ちがう、僕はそんなことをしていない」

 邦明は必死に否定するが、マスターは冷たく言い放った。

「言い分があったら、ゆかりさんに誠意を込めて説明してください。彼女は優しいから聞く耳があるかもしれません」

 邦明はゆかりを促してテーブル席に移動して話を始めた。

 自分が話す内容がマスターや鈴音の耳に入らないようにしたかったのかもしれないが、狭い店の中なので盗聴器が無くても話は筒抜けだ。

 口下手な雰囲気の邦明は、自分の思いを伝えようと必死だった。

 邦明は父親が病気のために大きな手術をしたことや、海外赴任を前に語学力に不安を覚えていたのでどうしても英会話の実力をアップさせたかったことを話し、そのために、ゆかりの好意に甘えてお金を借りてしまったと告げる。

 そして、父親の医療費は高額医療費の還付があるのでもう少し待ってもらえたら夏のボーナスを加えて返すつもりだと話した。

「だったら、どうして私が電話しても出てくれなかったの?」

「本格的にプロジェクトに参加する前に現地や本社を行き来して忙しかったのです。それに、シンガポールに長期赴任するときにゆかりさんに一緒に来てくれと言う勇気がなくて」

 邦明の言葉を聞いて、ゆかりの表情が変わった。

「ちょっと待って、どうしてそんな大事なことを相談してくれないの」

 ゆかりは邦明に問いかけるのと同時にマスターを振り返った。

「マスター、英会話スクールの先生の件は結局どうだったの?」

「僕の調査の結果では、邦明さんと彼女が付き合っている確かな証拠はありません。多分、美人の先生が実地にレッスンするために教室の近くで散歩をしたり、一緒にご飯を食べている時、鼻の下を伸ばしているところをゆかりさんの知り合いに目撃されたのでしょう」

 鈴音は涼子が外に出て、散歩や食事をしながら英会話のレッスンをすることもあると話していたのを思い出した。

 邦明は、マスターの発言に飛び付いた。

「そうですよ。あの先生は美人過ぎて近寄りがたいタイプなんです」

「まあ、それじゃあ私は近寄りやすい雰囲気の丁度いいブスだったのかしら」

 ゆかりが揚げ足をとると、邦明は体裁を整える余裕を失った。

「そんなことないです。ゆかりさんは料亭の仲居さんだから若くして社長をしているような成功者を沢山見ているのに、僕は一介の技術者として何年も東南アジアに行かなければならない。仲居の仕事をバリバリこなしているゆかりさんに結婚して一緒に来てくれなんてなかなか言い出せなかったんです」

 邦明が俯いてしまったのと対照的に、ゆかりは嬉しそうな表情を浮かべた。

「それはな、邦明さんは会社が将来を期待しているから大事なプロジェクトに参加させるんや、それに、私もシンガポールの日本料理店で女将をしてくれないかってオファーが来てるんやで。その話受けたら向こうで仕事もできるし何の問題もあらへん」

 ゆかりはさりげなく関西弁に切り替えて話すが、関西弁の使い方は鈴音が聞いても違和感がない。

 しかし鈴音はゆかりが千葉県出身だと真美が話していたことを思い出して慄然とした。

 硬いやり取りの後で、柔らかな関西弁で歩み寄られたら男性は少なからず気が緩むはずだが、その辺りを計算して使い分けているとしたらゆかりの才覚は仲居として鍛えられたにしても相当なものだ。

「え、ゆかりさん僕と一緒に来てくれるんですか」

「もちろんや。一緒にシンガポールフライヤーに乗ろうな」

 ゆかりと邦明は先ほどまでの暗い雰囲気から一転してテーブル席で仲睦まじく移住企画を立て始めた。

 結婚も絡んだ話なのですごく大変そうな面もあるが二人は幸せそうだ。

「マスター、邦明さんが浮気をしているわけではないとどうして言ってくれなかったんですか。私はずいぶん心配したんですよ。何を基準にして彼が浮気していないと判断したのですか」

 鈴音が微妙に気分を害してマスターに尋ねるが、彼は平気な顔で答える。

「いえ、鈴音さんも当然わかっているものだと思いました。だって、恋愛中の男女が二人きりになったら、英会話のレッスン中と言えどもキャッキャウフフな雰囲気になると思いませんか?」

「でも、それだけでは断定できないんではありませんか」

 マスターは当然のことのような雰囲気で鈴音に説明する。

「邦明さんに借金の督促に行ったときに、ちょっと怖いお兄さん風に「よくも俺の女に手を出してくれたな」と鎌をかけた話はしましたよね。すると彼はゆかりさんに男がいたとは思わなかったと答えました。もしも涼子先生と付き合っていたら、あのシチュエーションならば、僕のことを涼子先生が付き合っている男と認識するはずなのです」

 どうやら、マスターは微妙な心理の隙を使って彼から自白同様の答えを引き出していたらしい。

「ところで、シンガポールフライヤーというカクテルがあるのですか?僕は恥ずかしながら知らないのですが」

 鈴音は力が抜ける思いで答えた。

「マスター、シンガポールフライヤーはシンガポールにある大きな観覧車のことなんです。私もシンガポールフライヤー乗りたいな」

「そうか、道理で知らないわけだ。鈴音さんはたまには休暇を取ってシンガポールまで乗りに行ってもいいですよ」

 鈴音はマスターの言葉を聞いて、何が悲しくてシンガポールまで出かけて一人で観覧車に乗らなあかんのやとテーブルをひっくり返したくなったが、どうにか自制した。

 そして先ほどの「お嫁にもらってください」に対する返事も、この乗りの発言だったに違いないと思い、微妙に不機嫌な口調で言う。

「マスターは周囲の人との意思疎通が不十分なんですよ。罰としてシンガポールスリングを三つ作ってあちらの二人に二つ運び、もう一つは私におごってください」

 ゆかりと邦明はオーダーすることも忘れて話に夢中だ。

「そうですか?僕はコミュニケーションは十分とっているつもりなのですが」

 マスターは基本的に人がいいので、反論しながらも鈴音の言いなり三人分のにシンガポールスリングを作り始めるのだった。

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