第76話 仲居さんの恋

「私と彼が付き合い始めたのは一年ほど前のことでした。大手の建設会社に勤める彼が仕事の関係で私がの店に来店したのがきっかけです」

 ゆかりが淡々と話しているのに、マスターは緩んだ表情でつぶやいた。

「いいなあ、お茶屋さんに行って経費で落とせるなんて」

「マスター、仕事が絡んだ接待なんて楽しいものではないと思うわよ」

 真美に釘を刺されて、マスターもさすがに居住まいをただした。

「すいませんでした。お話を続けてください」

 ゆかりはマスターを見て苦笑しながら話を続ける。

「彼が仕事で来店したのはニ、三回ほどで、今思えば彼の方が接待を受ける側だったのですね。彼自身は入社して年数も浅い雰囲気で、上役の方が連れてきたという感じでした。そんな中で、彼は私が気に入ったらしく、電話番号を何回も聞かれたので私はつい番号を教えてしまったのです。私の店ではお客さんとプライベートなお付き合いというのはあまり推奨されない話なので、私自身どうして教えてしまったのか不思議です」

「仲居さんをナンパするとはなかなかの猛者ですね」

「それは私も同感だわ。ゆかりちゃんは折り目正しくて軽いノリでは近寄りがたいはずなの」

 マスターと真美が口々に意見を言うが、ゆかりはあまり意に介さない様子で話を続ける。

「電話番号を教えてしまったので、一緒に出掛けようとかお誘いが着てうるさくなるかなと思っていたのに、その後音沙汰がなかったので私としては意外でした。彼は北村邦明さんというのですが、私と同年代です。その割に少し頼りなくてそれでいて優しい雰囲気がちょっと気に入っていたので、私としては何の連絡もくれないことで微妙に気を悪くしていたのです」

 実は期待してはったんやなと鈴音は心の中で思った。

 落ち着いた雰囲気のゆかりが連絡先を教えたり、音沙汰がないことに気を悪くするのが意外だったのと同時に、相手の北村がどんな人か興味が高まる。

「そんな時に、不意に彼から連絡がきたんです。なんでも急な出張で東南アジアで仕事をしていたとかで、久しぶりに日本に帰ったらお会いしたくなったとか勝手なことを言ってくれるんです。私は最初忘れていたふりをしようかとおもったのですが、彼の声を聞いたら妙に素直に会う約束をしてしまい、次の週末に一緒に食事をすることになったのです」

「すごいですね。連絡先を教えてもらったら、しばらく放置してじらすのも手かもしれませんね」

 マスターが適当なことを言うので、鈴音は思わず口を開いた。

「マスターがそんなことしたら、忘れられてしまうのがおちですよ」

「そうそう、とにかく彼女の話を聞きなさいよ」

 鈴音と、真美が非難を集中するとマスターは口をつぐみ、ゆかりは軽く咳払いしてから話を再開した。

「それから彼とのおつきあいがはじまりました。お店によく来られるベンチャー企業の社長さんとか弁護士さんとか、成功された男性は格好いいのですが同時に押しが強いところがあって私は少し苦手なのです。邦明さんはサラリーマン然とした、会社のルールに従って生きているタイプなのですが、どことなくふわっとした掴みどころがない部分があり、その分ナチュラルな優しさみたいなものを感じたのです」

 微妙にお惚気が入っているが、鈴音は話の続きを聞きたいので無言で待つ。

「時間が合うときに一緒に京都の町を歩いたりするだけで、私は結構楽しかったのですが、彼は旅行好きでちょっと萩、津和野まで出かけようとか言って連れ出してくれるのがうれしかったです。私は割と出不精で、放っておいたら数か月間、自分の家の周辺と職場の往復しかしていないということもあるのです。邦明さんのおかげでちょっと違う生活が出来て面白かったのですね」

 そこまで話すと、ゆかりはふうっとため息をついた。

「ところが、最近になって彼が連絡をすることが間遠くなってきたのです。最初は仕事が忙しいのかなと思っていたのですが、私の友人が邦明さんが派手な雰囲気の女性と連れ立って歩いているのを見たというのです。彼に電話して最近会っていないことをそれとなく言ってみても、フォローする事さえしないで電話を切ってしまうし」

 最初から男性関係のことで相談と聞いていたのに、鈴音はなんだか暗い気分になった。

 ゆかりの人柄なのか、彼女が気落ちしていると自分も落ち込んでくる気がするのだ。

「それでは、ご依頼というのは北村邦明さんの素行調査をしてほしいということですか?」

 マスターは微妙に面白くなさそうな表情で彼女に尋ねた。

 推理小説好きが高じて探偵業を始めたというマスターにとっては、男女関係のもつれから依頼が来る素行調査は、物足りないに違いない。

「そうです。実は付き合っているときに、彼はお父さんが病気で入院して治療費がかさんだと言って困っていたので私が百万円ほど用立てたことが有るのです。もしかしたら、私に接近したのはお金目当てだったのではないかと思うとさすがに悔しい気がします」

 詐欺目的で近づいたとすれば、洒落にならない話だ。

 鈴音がマスターの様子を窺うと、彼は俄然やる気が出た様子でゆかりに言う。

「わかりました。調査の件お引き受けします。費用は基本料金がこれで、調査に要した経費は別途実費をいただきます」

 マスターは、客にバーの支払代金を書いて渡す紙片に、探偵として仕事をする時の基本料金を書いてゆかりに手渡した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る