第32話 皇帝の影


 逸る心のまま天寧宮に飛び込む。


「火急の件だ。通せ」


 命令口調で告げると、警備の人間や女官たちもすぐさま道を空けていった。

 まっすぐに皇帝の寝所へ急ぎ、ほとんど無理やり扉を開ける。


「皇帝陛下!」


 勢いよく飛び込むと、御簾の向こうから激しく咳き込む声が響いた。

 ぞっとする。もし皇帝に何かあったら――


「陛下!」


 御簾を力強くかき分けた瞬間、時間が止まった。

 薄い暗がりの中、寝台の上にいた人物を見て、息をするのも忘れ、立ち尽くす。


「――焔……?」


 顔は伏せられ、視線が合わないようにされているが、見間違うはずがない。

 寝台の上に寝ているのは焔だった。

 顔色は悪く、以前見た時よりも痩せていて、口元は吐き出した水で濡れている。


(どうして焔が皇帝の寝所に――)


 その瞬間、つじつまが合った。


「そうか……焔、お前は……」

「…………」

「……お前は、皇帝の影武者だったのか……」

「……いや……」


 焔は長い沈黙の後、絞り出すように呻く。

 鈴花は首を横に振った。


「何も言うな。秘密は必ず守る」


 ――皇帝の影武者。時には、使い勝手のいい道具。


 宦官でもなく、武官でもなく。

 氏素性を名乗らないのも当然だ。


(皇帝の影武者だなんて……)


 焔の目には多くの逡巡や重荷が垣間見えた。

 鈴花は安堵とともに、深い寂しさと敬意を抱いた。


 ――なんという重い役目だろう。

 言えないことがたくさんあるだろう。だから、鈴花は質問しなかった。


 皇帝は別の場所にいるのだろう。病床に臥しているところを襲われないように。


 鈴花は御簾の中に入って、更に焔に近づいた。

 寝台に上り、その姿を間近で見る。


 焔はびくりと震え、鈴花を制しようとした。


「やめてくれ……あなたが、汚れる」


 寝間着と寝具が、先ほど吐き出した水と汗で濡れている。


「こんなことで汚れない」


 腰が引けている焔の寝間着の襟をつかみ、ぐっと広げる。

 鍛えられた身体に、紫の鱗のような痣――紫斑が浮かんでいる。


「は、白妃――ッ」

「やはり……龍涙疾か……」


 顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。

 あの特有の匂いがしない。


「先ほど飲んでいたのは、白湯か?」

「そ、そうだ――」

「龍泉水は、ここにはあるのか?」

「そこに――」


 寝台脇に置かれている水差しを指差す。

 焔から離れ、その水差しの中身を嗅いでみると、あの匂いがした。少し甘ったるい、酒精に似た匂いが。


「これはもう飲むな」

「……龍泉水をか?」

「ああ。一切飲むな。絶対に飲むな。一生飲むな。まだ仮定だが、おそらく皇族の血を引き、龍泉水を飲んでいる者が発症している」


 水差しを叩き割りたいところだが、ぐっと我慢する。

 驚いている焔に向かって、鈴花は自分の考えを伝えていった。


「私は、純粋な白家の人間だから、発症しなかった。小紅妃は、変な味がしたから飲まなかったと言っていた」


 水差しを見つめる。


「私は……紫涙の変も、この水が原因ではないかと疑っている。あれが起こる直前に、龍泉水が皇族たちの宴で振る舞われたと記録があった」

「……本当か?」

「ああ。病床でも、万病薬と信じられた龍泉水が振る舞われ続けた記録があった」


 そちらは宮廷の記録に残っていた。


「大昔は、本当に霊水だったのだろう。万病に効く薬だったかはわからないが……ただ、二十年前の大災害の時に一度枯れた。おそらく、地震で水源が――龍脈の場所が変わった。だが、六年前の奇跡の復活を果たした。だがこの水は、既に汚染されてしまっていた」


 地中の毒素が混入したか、はたまた誰かが毒を仕込んだか。

 詳しいことは現地で調査しないとわからないが。


「……おそらく、紫涙の変も……発症後も、汚染された龍泉水を、なお万病薬だと信じて飲み続けたことで、重症化して弱っていったんだ」

「…………」

「後宮内で発症した者も、その後は龍泉水を飲んでいないから回復に向かっている」


 一瞬、安堵したような笑みが浮かぶ。

 だがそれは次の刹那、ひどく暗いものに変わった。


「……そうか、そういうことか……」


 安堵と怒りが混ざった声は、ひどく弱々しかった。


「……呪いでは、なかったのか……」


 その言葉に違和感を覚える。


(――呪い?)


 何をもって呪いだと思ったのか。

 問おうとした刹那、焔が激しく咳き込んだ。口元から血がほとばしり、鈴花は目を見張った。


「――焔! すぐに、医者を――」

「待ってくれ、白妃……いや、鈴花……口の中を切っただけだ」

「だが――」


 血に濡れた手で袖を引かれる。その手はわずかに震えていた。


「――もし」


 鈴花を見上げる瞳は真剣で。


「もし俺が、あなたを娶りたいと言ったらどうする?」


 だからその言葉は、胸の奥深くにまで突き刺さった。


 ――娶る。

 その意味がわからない鈴花ではない。


「……皇帝に下賜を願うということか?」

「…………」


 ――戯言だ。

 病気で弱って、支離滅裂になっているのだろう。

 本人だって、きっと本気で言っていない。

 それでも鈴花は、冗談にはできない。


「……絶対に許されない……」


 許されるはずがない。天地がひっくり返りでもしない限り。


「……ああ、そうだな」


 その声には、諦観と寂しさが滲んでいた。

 何もかもを諦めているようなその声に、胸が締め付けられる。


 鈴花は息を吸い込んだ。

 ――すべては戯言。

 誰も知らない御簾の中の出来事だ。


「でも、もしそうなったら――嬉しいよ。お前と夫婦になって、一緒に過ごせたら……うん、きっと幸せだろうな」


 絶対に訪れない未来だからこそ、素直な気持ちを口にした。

 微笑むと、寂しそうだった焔の表情が和らぐ。


「千年、生きられそうな気がしてきた」

「大げさな……仙人になるつもりか?」

「仙人は無理だな。そんなに清らかじゃない。煩悩まみれだ。――いまこの瞬間でさえ、あなたを抱きしめたくてたまらない」


 言いながらも、袖をつかんでいた手を離す。

 鈴花が皇帝の妃だからだろう。

 そのことに、寂しさを覚えながらも、受け入れる。


 ――本当は、訊いてみたい。自分のことが好きなのかと。

 だが、訊けない。

 これが、自分たちの距離なのだ。これ以上近づくことは許されない。


「とにかく、龍泉水は絶対に飲むな。皇帝にもそう言っておいてくれ」


 鈴花はそれだけ言って、部屋を出た。龍泉水の入った水差しを持って。

 これを飲まないことで快方に向かえば、もう決定的だ。後のことは医者に任せる。

 外の人間に医者を呼ぶように言い、鈴花自身は天寧宮を出た。


(焔が、生きていてよかった……)


 足を止めないまま、溢れてくる涙を拭う。


 ずっと心配していた。二度と会えないと思っていた。どんな形でも、再び会えて、言葉を交わせた。


 冗談でも、戯れでも。

 あの言葉だけで、千年生きていけそうな気がした。


 ――その時、鈴花は見た。

 夕暮れに染まる西の空に、黄龍が浮かんでいるのを。


「…………」


 一瞬、何もかも忘れてそれに見入る。

 それは雲だ。暮れ行く空に浮かぶ雲が、龍のかたちを取っている――違う。黄龍が、雲を借りて、帝国に降臨している。


 そう、自然に信じられるほど、黄龍はあまりにも雄大で、威厳と神秘に満ちていた。

 その存在感だけで、鈴花の全身が震える。


 この黄龍はいま多くの人々の目に触れているだろう。

 そして、誰もが思うだろう。思い出すだろう。


 ――皇帝陛下は、偉大なる黄龍の化身だと。



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