第13話 はぐれ女官
鈴花は琳琳に向けて手を伸ばす。
「私たちはきみを傷つけるつもりはない。さあ、帰ろう。話はあとでゆっくりと聞くから」
「も……申し訳ございません。あたしは、帰るわけにはいきません」
頑なに言われ、鈴花は首を傾げた。
「どうしてだ? このままここで暮らすわけにもいかないだろう。食べるものは後宮から持ってこれるだろうが、冬の寒さは身も心も冷やす」
「家に帰るぐらいなら、この場所で死にます。お願いします。もう後宮へはいきませんから」
ますます頑なになる。
その顔には固い決意が滲んでいた。強硬手段に出たらあっという間に逃げられそうだ。
「――だが、それだといつか死んでしまう」
「いいんです……それならそれで……」
「よくない」
はっきりと言い切る。琳琳は目を丸くした。
「私の目覚めがよくない」
「そ、そのようなことをおっしゃられましても……」
「困るだろうな。だが、私も困る。これは、私ときみとの我儘比べだ。きみが折れるか、私を納得させるまで、きみを追いかけ続けるぞ」
琳琳はいよいよ困ったような顔をする。焔の方にも視線を向けるが、焔は黙ったまま鈴花の後ろにいる。この場を鈴花に託しているらしい。
琳琳は沈黙に耐えきれなくなったように、おずおずと口を開いた。
「こ、ここからは……紅妃様との思い出がある場所が、よく見えるんです……あたし、この都を、離れたくないんです……」
「ふむ、どうして?」
鈴花は純粋な疑問を口にする。
「場所が変わったところで、思い出はなくならない。胸の中に残り続ける。ここを離れない理由にはならないな」
「…………」
琳琳の言っていることは口実だ。本人にとっては真剣な理由だとしても。ここで飢えて凍えて死ぬことよりも、帰る方が琳琳にはつらいから、帰らないのだ。
――ならば。
「皇帝の手付きになれば、下級妃となれる。そうなれば帰る必要はない。私が推薦してみよう」
「おい。勝手なことをするな」
後ろで見ていたはずの焔が怒る。
「て、天龍様のお相手なんて、あたしには無理ですぅ……!」
琳琳も本気で恐怖して萎縮している。
提案が駄目だったことを残念に思いつつも、皇帝が拒否されたのは、少しだけ――ほんの少しだけ、胸のすく思いだった。
だが、実際問題、いまの後宮に下級妃はひとりもいない。琳琳がその立場になれば、居心地の悪い思いをさせてしまうかもしれない。
後宮にいるためだけに、そんな立場になるのは可哀そうだ。
「ならば、私の女官になれ」
「白妃様の……?」
「……おや? 私、名乗っていたかな?」
「後宮で白妃様を知らない人はいません!」
「なら、私の状況もよくわかっているだろう。私には専属の女官がいない。なってもらえるなら、とても助かる」
鈴花は自分の身の回りのことは自分でしている。
妃がするべきでないようなことは、女官に化けてしている。それはそれでいい気分転換になっているので、苦ではない。自由自在に行動できるのも楽しい。
けれど、琳琳のような女官が傍にいるのも、きっと楽しい。
「特にきみのような、身軽で行動力のある女官がいたら心強い」
紅妃の女官だった琳琳だ。後宮女官としての仕事は慣れているだろう。
「あたしが、お役に、立てるんですか……?」
「ああ。きみにしか頼めないことだって、きっとたくさんある」
「あたし、だけ……」
鈴花を見つめる琳琳の眦に、じわりと涙が浮かぶ。
琳琳はぐいっとそれを拭い取ると、木の上からするすると下りてくる。
近くで見る琳琳は、ぼろぼろだった。
肌は小さな切り傷だらけ。身に着けているものは汚れているしあちこち裂けている。
琳琳は深々と鈴花に頭を下げる。
「ありがとうございます、白妃様……あたし、誠心誠意、お仕えさせていただきます」
◆◆◆
西宮に戻った鈴花は、焔と別れ、琳琳と共に宮の中に入る。
最初にしたことは、部屋の整理だった。
「すまないな、散らかっていて」
使っていない部屋を片付けて、寝床の用意をすることにする。
夕方の薄暗い光が窓から差し込む中、大量にある竹簡を、ひとまず集めて端に寄せていく。
それらは、鈴花が詩の練習に使っているものだ。
紙を使い捨てるのは流石に贅沢なので、竹を薄くしたものに墨で文字を書いている。そういうものが、たくさんある。
「そ、そんなことあたしがしますから」
「では、ここはお願いしようか。適当にまとめておいてくれたらいい。書き損じばかりだから」
「書き損じですか? これが?」
「ああ。削り取るのが面倒だったり、もう削れない時もあるから、新しいものに文字を書くことが多くなってしまう。燃やすのも先送りにしてるから、このありさまだ」
鈴花は苦笑いしながら説明した。
「こんなにきれいなのに……」
「あまり見ないでくれ。恥ずかしいから」
詩としてまとめる前の、思い付きの書き散らしだ。人に見せるようなものではない。
「なんだか、不思議です……白妃様って、天女様だと思っていましたから」
「私は人間だよ。食事もするし、睡眠もする。退屈はあまり好きではないし、割と怠惰だ」
「そ、それは……」
「無理に否定しなくていい。服は、とりあえずこれに着替えるといい」
鈴花は自分が変装に使っている女官服を渡す。
(琳琳のために仕立てないとな……)
西宮の、白鈴花の専属女官に相応しいものを。
「あの、いっしょにいた男の方って、いったいどのような御方なのですか」
――主の交友関係を探ろうとするなんて、琳琳は割と好奇心旺盛らしい。
「宦官だ。私のお目付け役だよ」
そういうことにしておく。
彼の正体を知ろうとすれば、泥沼にはまりそうで、出来れば一生知りたくない。
そして、わかっていながらも興味を止められないのだから、もうどうしようもない。
「ところで、琳琳」
「はい」
「私の女官として働くことになったら、私の秘密を知ることになるだろう。しかし、その情報は絶対に他言してはいけない」
一応釘を刺しておく。
秘密は身を守る盾にもなり、武器にもなる。軽々しく明かしてはいけないものだ。
「も、もちろんです。墓まで持っていきます」
鈴花は少し眉を顰める。
「――墓まで、では足りないな。もし幽霊になったとき、秘密を漏らすかもしれない」
驚いた顔をする琳琳に、鈴花はふふっと微笑みかけ、軽く肩を叩く。
「冗談だよ」
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