【web版】後宮冥妃の検視録~冷遇妃は皇帝に溺愛される
朝月アサ
第壱話 後宮の花
第1話 水に浮かぶ花
龍帝国の後宮の池に、花が咲いていた。
立ち並ぶ蓮のつぼみたちの中に、赤い大輪の花が浮かんでいた。
蒼月に照らし出されたそれは、人だった。
豊かな紅の髪が、見事な花の刺繍がされた緋色の衣が、溶けるように流れ出す血が、花びらのように広がっている。
――彼女は
煌びやかな容姿を持つ美妃は、惨殺され、夏でも尚冷たい池に打ち捨てられていた。
◆◆◆
「――
――天寧宮。
皇帝が後宮で過ごす際に使用する宮――その奥の間で、緞帳越しに声が響く。
重々しく威圧感が漂う、若い男の声。皇帝である
緞帳の前に立つのは、白い髪と赤い瞳を持つ十五歳の少女、白鈴花だった。
部屋には他に誰もいない。侍女も近侍も宦官も。
鈴花が身に着ける銀糸で繊細に刺繍された衣が、行燈の光を受けて微かに輝く。
彼女は、感情の起伏を見せない赤い瞳で、緞帳の向こうにいる皇帝の姿を見つめ、静かに口を開いた。
「いいえ。私ではございません」
「だが紅珠蘭は、お前の衣の端を握りしめていた」
「確かに、詩会に出ている間に、一枚どこかに消えてしまいました。困ったものです。替えも少ないのに」
鈴花は口元に微かな皮肉を漂わせた。
彼女は、装飾品をほとんど身に着けていない。帯の上に巻いてある、鳴らない鈴ぐらいだ。
化粧もしていない。だがその肌は透き通るように白い。
よく言えば清廉であり、質素。これが四妃の一人であると――皇帝の妃のひとりであると教えられて、素直に納得するものがどれほどいるだろうか。
鈴花の姿は、どちらかといえば神に仕える巫女のものだ。
身に着けている白のように、穢れなく、高貴な魂を持つ巫女。
鈴花は落ち着いた赤の瞳で緞帳の奥を見つめる。
その奥にいる人物の玉体を目にすることができるのは、褥を共にする寵姫と、身の回りの世話をするわずかな侍従だけだ。
鈴花はそれとは違う。
「私が犯人だとして、動機はどのように考えられているのですか?」
「余の寵愛を唯一受けていないお前が、他の妃に嫉妬したのだと」
皇帝の言葉に、鈴花は細い眉を僅かに顰めた。
怒りを口にする価値もないとでも言いたげな表情で、冷静に言葉を紡ぐ。
「その動機だけは受け入れがたいですが、私に罪を着せて処刑するというのでしたら、それで構いません」
「するものか。お前は白家からの大切な献上物だ。誰にも処刑はさせん」
鈴花はつまらなさそうな表情を浮かべる。
「ただ、牢に一生閉じ込めることになるだけだ」
「――――」
鈴花の表情が強張る。
「いまも囚われているようなものですのに、これ以上窮屈にしようというのですか」
「それが嫌ならば、真犯人を連れてこい」
高圧的な声には、鈴花に対する期待と、犯人に対する怒り、そして寵姫を失った悲しみが滲んでいた。
皇帝は紅珠蘭を愛でていた。いずれ皇妃になるはずだった女性が惨殺されたのだ。その怒りは深い。
「――わかりました。犯人を連れてまいりましょう」
「一か月だ。次に月が満ちる前に連れてこい」
「はい」
「それから、お前に一人つける」
「必要ありません」
「一人では何かと重労働だろう。好きに使え」
取り付く島もなく、拒否権もない。
つまり、付けられるのは監視役ということだ。
鈴花は仕方なく儀礼的に一礼し、滑るような足取りでその場を去った。
◆◆◆
(皇帝め……好き勝手なことばかり)
天寧宮から出た鈴花は、月光の下、夜露に濡れた石畳の上を歩く。
(一生牢生活など……退屈で死んでしまうではないか。ただでさえ後宮など息苦しいばかりなのに)
故郷で野山を歩き回っていたころが懐かしい。
鈴花は大きくため息をつく。
(ああ……疲れた)
今日は早朝から大騒ぎだった。
身体を滅多刺しにされ、池に投げ捨てられた死体が発見されたのだ。
しかもその死体は四妃のひとり。
貴人が殺されたことも、その手口の残忍さも、後宮を恐怖に陥れた。
――いったい誰が殺したのか。
犯人は見つからないまま、鈴花も容疑者のひとりとして、夜中まで取り調べを受けることになった。
(何たる屈辱……)
容疑者として疑われるのは、仕方ない。
死体の手に鈴花の衣の一部が握られていたというのだから、当然の流れだ。
だがその動機とされたものが、思い出すだけで屈辱だ。
(それにしても、いったい誰が私に罪を着せようというのか)
鈴花は後宮で孤立している。
他の三妃とも交流はない。女官たちも最低限の世話しかしない。皇帝の寵愛を受けていない妃に取り入ったところで、何の旨味もない。
(だからこそ、動機がでっち上げやすいということはあるだろうが)
鈴花が辿り着いたのは、現場である池だった。
夜の水面はどこまでも深く、暗い。その下にどんな秘密を隠しているのか。
池の周囲には誰一人いない。普段から人通りの少ない場所だ。
風が水面と葉を撫でるざわざわとした音だけが響いている。
(……どうしてこんな場所に、紅妃は来たのだろう)
犯行時間は夜だ。
夕方までは、紅妃にも、池にも、何の変哲もなかったと女官たちが証言しているという。
鈴花は注意深く辺りの様子を見る。
飛び散った血痕が残っている。池にかかる橋の欄干に、下草の一部に。
(この出血量。どこか別の場所で殺されたわけではなさそうだ……いや、決めつけるのは早計か)
いまは情報を集められるだけ集める段階だ。
選別していくのはもう少し後のこと。いまはすべての情報を記録していく。
(後宮は、一種の密室だ)
閉じ込められた花たちは、帝が変わって後宮が一新されるか、下賜されるか以外には、この場所を出ることが叶わない。
そして外から入ってくることも難しい。次代の龍器を生む後宮の人の出入りは、厳密に管理されている。
(外部犯の可能性は低いが……可能性を排除してはならない)
水面を見つめる。血で澱んだ水は数日中に入れ替わってしまうだろう。
鈴花は、帯に巻き付けていた鈴を取り出し、手首に巻き付けた。
手を前に伸ばし、鈴を振る。
清廉な鈴の音が静寂を切り裂き、夜に響く。
鳴らないはずの鈴の音が。
まるで、鈴花が歌っているかのように。
音に振るわせられるように池の水面が静かに揺れ動く。
月明かりの下、白い蓮のつぼみの間に、霧が生まれる。
人の姿をした霧が。
それは、鈴花の知る紅珠蘭の姿だった。
紅珠蘭の姿を持つそれは、身体を抱えて丸まっている。頭も上げず、小さく丸まっている。
「――誰があなたを殺したのか」
問いに込めた一縷の期待は、おぼろげな姿と共に、流れる風に消える。
死者は何も語らなかった。無言のまま、ただそこにある。
生きているときの残像のように。
(話せるだけの力はないか)
死者から話を聞き出せれば早かったのだが。
「……私が犯人を見つけ出す。もう少しだけ、待っていてほしい」
もう一度だけ鈴が鳴り、紅珠蘭の姿を持つ霧は消えた。
――この大地には、神がいた。
ある時、天から降りてきた龍に、神の座を譲った。
天龍は大地のすべてを支配したが、唯一支配できないものがあった。
それが、死だ。
死だけは古き神の手に残された。
古き神の一族は人に混じりながら静かに生きた。その一族の名は白家。
龍は人と混じることなく帝として大地を統べた。その一族の名は黄家。
白家の人間は、時折その身に神器を宿して生まれる。
鈴花の受け継いだものは鈴。
鈴花はその鈴で世界を震わせ、目には映らないものを見る。
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