第5話 悪役令嬢ドリス・エーレンベルク⑤
「ペンの持ち方から直した方がいいと思いますが」
オスカーの冷ややかな声が響く。
翌日からさっそくオスカーに勉強を教わることになり、いまこうして机に向かっているわけだが……。わたしの書く文字を見てオスカーも頬を引きつらせている。
勉強以前の問題だと呆れているに違いない。
うん、わたしもそう思う。
「仕方ないわ、癖なんだもの。これが一番持ちやすいの」
これは本当だ。
体に染みついている癖は恐ろしい。ペンの持ち方が間違っているとわかっていても、いざ書こうとすると手が自然とその持ち方をしてしまう。
小さくため息をついたオスカーがわたしの背後に回る。
「失礼」
短く断りをいれると、後ろから覆いかぶさるようにペンを握るわたしの手に自分の大きな手を重ね、正しい持ち方を指南してくれた。
「逆にペンがグラグラして持ちにくいわ」
「指先の力をもっと抜いて。そうです、お上手ですよ」
手を添えたまま『ドリス・エーレンベルク』と、一緒にゆっくり綴ってくれた。
すごい。見違えるようなきれいな文字だ。
次はひとりでその文字をゆっくりなぞる。
「書き順が違います。上の点は最後に打ちます」
そう言ってまた手を添えたオスカーが、丁寧に教えてくれる。
「ねえ、パパとオスカーの名前も綺麗に書けるようになりたいわ。教えて!」
顔を上げると、思っていたよりもオスカーの顔が近くにあってドキンと心臓が跳ねた。
攻略対象が複数存在する一般的な乙女ゲームとは違い、ハルアカの攻略対象はオスカーひとりだけだ。
つまり、全プレーヤーが何度も彼に恋をする。
オスカーは唯一のヒーローとして、万人がカッコいいと思う美麗で精悍な容姿を兼ね備えているのだ。
ゲームの中で2次元のヒーローだったオスカーが、3次元の実物で存在している。ドキドキしない方がおかしいだろう。
オスカーは再びわたしの右手に手を重ね、
『ミヒャエル・エーレンベルク』
『オスカー・アッヘンバッハ』
と書いた。
触れている手が熱くて集中できない。
この男に追放されないように教養を身に着けて逆に追い出してやりたいのに、こんなことではいけないわ!
「これをお手本にしてひとりで練習してみるから、オスカーは一旦下がってちょうだい」
オスカーは青灰の目をスッと細める。
もう飽きたのかと思っているのかもしれない。それでも小言はせずに頭を下げた。
「かしこまりました」
退室しようとするオスカーの背中に声をかける。
「そうだ、オスカー。家具の色が落ち着かないから模様替えをしたいんだけど」
振り返ったオスカーの眉間の皴が深くなる。
「お嬢様がつい先日、この色がいいと主張してすべてオーダーで新調したばかりですよ?」
オスカーはかなり不満そうだ。
言いたいことはわかる。
このショッキングピンクの家具一式をそろえたのは先月のことだもの。
でもね、こんな色の机じゃ落ち着いて字も書けやしないのよう!
「わかってるわ。でも、どうしてもこの色が目に入って集中できないの。せめて机だけでも……無理なら天板だけでも。道具さえ揃えてくれたら、わたしが塗り直したっていいわ」
わたしの本気を感じ取ったのか、オスカーがわずかに目を見開く。
「かしこまりました。家具職人に相談してみます」
そう言って退室した。
わたしがひたすら文字の練習を続けていると、夕方にオスカーが家具職人のクラークを連れてやってきた。
先月クラークから家具一式を買い、さらにショッキングピンクに塗装してもらったのだ。
「ドリスお嬢様、ごきげんよう」
「クラーク、わざわざ来てくれてありがとう」
ペンを置いて立ち上がると、オスカーとクラークが驚いた表情で固まっている。
あら、なにかやらかしたかしら?
「ドリスお嬢様、本日はおかげんでも悪いのですか?」
おずおずと聞いてくるクラークの様子でようやくピンときた。
そうだった、これまでのドリスだったら「ありがとう」と感謝を伝える相手はミヒャエルだけだったのだ。それも、おねだりをきいてもらえた時だけ。
家具職人に向かって笑顔でありがとうだなんて、そりゃオスカーもクラークも固まるはずだ。
「具合が悪いんじゃなくて、心を入れ替えたのよ」
にっこり笑ってみせる。
「それで、オスカーから事情は聞いているかしら?」
「この家具の塗り替えは、まずヤスリで表面のツヤと塗料を全て落とし、そこからご希望の色の塗料を塗っていくとになります」
クラークの説明に愕然となる。
ただ上から塗り直せばいいだけだと思っていたのは、考えが甘かったらしい。
一番手っ取り早いのは、この家具をすべてクラークに引き取ってもらい処分して、新しい家具を新調することだ。
しかしお金がかかりすぎる。お金持ちの伯爵家が家具を短期間で買い替えて経済を回しているのだと割り切るしかないだろうか。
ここでふと、机の引き出しが目に留まった。
そうだ、2段目の引き出しにはたしか――取っ手を引いて開けると、そこには無造作に貴金属のアクセサリーが投げ入れられていた。
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