最後の夜



 シャルロッテの様子がおかしい。



 その日、オスカーは朝から小さな違和感を覚えていた。そしてそれは、少しずつ降り積もっていく。



 食欲旺盛なシャルロッテが、おかわりをせずに席を立った。


 いつもオスカーを見ると幸せそうに微笑むのに、今日はどこか表情が陰っていた。


 執務室のお茶を、メイドの代わりにわざわざ運んで来た。


 シャルロッテの方から、初めて散歩に誘われた。


 いつもニコニコしているシャルロッテだが、今日の彼女は無理して笑っているように見えた。



 そして。



 夕食後には、話があると言ってきた。









「・・・え? アラマキフィリスの進行が予想より早い・・・?」



 昨日、ミルルペンテという男性に会った後だっただけに、シャルロッテの話は、オスカーの全く予想していない事だった。



「はい。もうあとふた月くらいは大丈夫かと思っていたんですけれど」



 そう言ってシャルロッテが手袋を外してみせると、彼女の手の爪は、左手の小指を残して全て真っ青になっていた。



 ―――うん?



 ここでオスカーは一瞬、何かを思い出しかけるも、続くシャルロッテの言葉で吹き飛んだ。



「・・・ですから、少し早目に契約を終了させていただきたいんです」


「っ、それは・・・」


「結婚前にお渡しした署名済みの離縁届けをお使いになるか、それともこのまま離縁しないで後で死別とするかは、オスカーさまにお任せします。オスカーさまが今後の生活をやりやすい方でお選びください。そしてこちらが前に私がお話した・・・」



 シャルロッテは、契約時に話した条件についてその後も説明を続けたが、動揺したオスカーの耳にはろくに入って来なかった。




 ―――薬は、彼女には間に合わなかったという事か。


 いや、彼女はアラマキフィリス、いずれ死んでしまう事は分かっていた。


 そう、分かっていたのだ。


 こんな風に、別れが近いうちに必ずやって来るのは、分かっていた事なのに―――




「・・・さま? オスカーさま?」



 シャルロッテの呼びかけに、思考に耽っていたオスカーがハッと顔を上げた。



「ああ、すまない。なんだろうか」


「明日の朝、私はここを出て行こうと思います。今まで色々とありがとうございました。オスカーさまのお陰で、本当にいい思い出ができました」




 いつの間にかに説明が終わっていたらしい書類の束が、テーブルの上に置かれていた。


 ケイヒル家との契約条項の書類や、シャルロッテが譲渡すると言っていた個人資産の書類だ。



「明日・・・」



 オスカーは、ぽつりと呟いた。



 いつかは来ると分かっていた未来で、けれどあともう少し先の筈で。


 まだ大丈夫、まだ時間はあると、たかを括っていた自分自身がいた事に、オスカーは今さら気がついた。



 ―――死期が迫っている彼女となら、今後関係が泥沼化する心配がないなどという考えが如何に下らないものだったかも。






「・・・では、私はこれで」


「っ、シャルロッテ」



 席を立とうとしたシャルロッテの手を、オスカーは無意識に掴んでいた。



「え?」



 きょとんと目を丸くするシャルロッテ。


 だが、この行動に驚いているのは、むしろオスカー本人だ。



「オスカーさま、あの?」



 不思議そうに首を傾げるシャルロッテに、オスカーは何と言葉をかけようかと暫し逡巡し。



 けれど、何も上手い言い訳は思いつかず。



 結局、頭の中に浮かんだただ一つの願いを、絞り出すように口にした。



「今夜、君を抱きしめて眠りたい」



「へ? こ、こん? 抱きしめ?」



 ぼぼぼっと顔を赤く染めるシャルロッテを見て、自分がとんでもない事を口走ったとオスカーは気づいた。


 全くオスカーらしくない台詞である事も。


 だが、今さら訂正する気は更々なく、「そうだ。一緒に眠りたい」と続けた。









「お、お邪魔します・・・」




 結婚して4か月と少し。


 初めて夫婦の寝室でオスカーとシャルロッテは眠った。


 もちろん2人の間に何も起きていない。ただ同じベッドで眠っただけだ。



 オスカーはその夜、何を考えていたのだろうか。ただきつく、きつくシャルロッテを腕の中に閉じ込めて、本当にそれだけで夜を過ごしたオスカーは。



 自分で言い出した事とはいえ、なかなか寝つけずにいたオスカーは、夜もかなり更けた頃になって漸く眠りについた。



 だから気づかなかった。



 夜明け頃に目を覚ましたシャルロッテが、そっとオスカーの腕を外すと静かに寝室から出て行った事に。



 オスカーが目を覚ましたのは、昼に近い朝の時間。

 側のシーツからは、彼女の温もりはとうに消えていた。







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