第12話
だが、次の瞬間俺の耳に聞こえるはずのない声が響いた。
「んー、なんか物音がすると思ったら。もしかしてこれは不法侵入の現行犯逮捕かな?」
「——……っ!」
人間というのは驚きが度を超すと、どうやら声が出なくなるらしい。
大きく目を見開いたまま声の出所を探すためにあたりを見回せば、隣室のベランダから体を乗り出すような恰好でこちらを覗きこんでいる女性、奥村先輩と目が合った。
先ほどまでの自分の中にわずかに残っていた、「りんちゃん」との思い出を懐かしむ気持ちがまるで夢から覚めるように霧散していく。それも仕方がないことだ。
俺の方はかつて「りんちゃん」が通ってきた秘密の通路を懐かしみ手を伸ばしただけだが、何もしらない奥村先輩から見た今の俺は「深夜に隣室の一人暮らしの女性のベランダへの通路を模索する変態」として目に映ったに違いない。もし俺が赤の他人の第三者だとしても、この現場を見てしまったら流石に黙って110番通報を押すことだろう。
早く、何か言い訳をしなければと焦るが、こんな時に限ってうまい言葉が全く出てこない。
「いや、あの……これはその、この間の、強風で仕切り板が変な音を立ててたので」
「それをわざわざこんな深夜に~おかしいな~?」
先日吹き荒れた春の強風で、この古いアパート自体がみしみしと音を立てていたのは事実だ。事実あまりの強風で付近のアパートやマンションの仕切り板が破損した、という話も聞いている。だが、たとえそうだとしても、こんな真夜中にベランダで仕切り板の強度を確認する変人はいないだろう。
言い返す言葉もない、と神妙な顔で黙り込んでしまった俺を見下ろしながら、先ほどまで訝しげにこちらを睨みつけていた奥村先輩の体が少しずつ小さく震え始める。まるで何かを耐えるように数秒ぶるぶると震えた後、堰を切ったように大きな声で笑いだした。
「あっははは、っは……ごめんごめん、ちょっとおもしろすぎる。そんな濡れた子犬みたいな顔しないでってば、笑っちゃうから」
笑いすぎて息が上手く吸えていないのか、最後の方は半分涙目になりながらも奥村先輩は笑い続けた。
「あー、笑った笑った、こんなに笑ったの久しぶり。間宮君って人を笑わせる才能あるね」
ひとしきり笑ったことでようやく落ち着いたのか、奥村先輩は目尻に浮かんだ涙を拭うと俺に向かって「こっちにおいで」とでもいうように手招きをした。
当然今の俺に拒否権などあるはずもなく、呼び寄せられるように奥村先輩の隣へと並ぶ。並ぶ、とはいえ実際俺と奥村先輩の間には仕切り板があるので、ベランダの欄干から上半身を乗り出す形で顔を見合わせている状態だ。
「えっと、あの……」
なんと話しかけたら良いものか悩んでいる俺に、奥村先輩はまだ少し震えが残る声で笑いかけてきた。
「やましい事をしてたんじゃないことくらい、ちゃんと分かってるよ。大丈夫、少しからかっただけだから」
驚かせてごめんね、とまるで悪戯が成功したとでもいうように奥村先輩はわざとらしく片目をつぶって見せた。
「だって、もし本当に不法侵入して寝込みを襲うつもりなら私が寝た後にやるでしょ。私が夜型人間でこの時間はまだ起きてるの、知ってるよね」
「えっ、あ、はい……って、なんで」
「なんでって、だってこのアパート絶望的に壁が薄いでしょ?お隣さんの生活音、筒抜けなんだよね。間宮くんも私に負けない夜更かしさんなの、知ってるんだから」
いつも深夜2時過ぎまで起きてるでしょ、悪い子だ。と笑いながら指をさされ俺は思わず声を失ってしまう。確かに奥村先輩の言う通り、このアパートの壁は薄い。
だからこそ、俺も時折隣から聞こえてくる音にいろいろな意味で頭を悩ませることがあったのだが、つまりそれは俺が隣の部屋の音が聞こえてしまうように、隣人もまた俺の生活音が聞こえているということになる。
(……う、あぁ)
ということは、トイレの音や時折シャワーを浴びながらへたくそな鼻歌を口ずさんでいることもすべて奥村先輩に筒抜けだったというわけだ。恥ずかしいことに変わりはないが、それでもこの一週間健全極まりない清らかな生活を続けていた自分を褒めてやりたい。
男子学生のある意味健全ではあるが、だれにも知られたくないワンシーンを聞かれなくて済んだことは不幸中の幸いだ。もし聞かれていたら、流石の俺も立ち直れなかったことだろう。
「大丈夫だって、変なことは聞いてないから。今度は私が聞きたい歌をリクエストしたら、シャワー中に歌ってくれるかな?」
「聞いてるじゃないですか、忘れてくださいよ!」
「あはは、怒った怒った」
夜の街に声が響かないよう小声で訴えれば、奥村先輩はまるで子供のようにころころと楽し気な笑い声をあげた。無様なところは知られてしまったが、不審者の容疑はどうやら完全に晴れたらしい。いや、そもそも最初から疑われてもいなかったのだが。
安心したことでようやく多少周りを見る余裕ができたのか、欄干から上半身をのぞかせる奥村先輩をしっかりと目に映すことができた。
出会ったときは厚手のパーカーを着ていたが、今は寝間着替わりなのだろうか。ゆったりとした大きいサイズのシャツを被っただけの格好に、俺は思わず目をそらしてしまう。時折風に翻るシャツや、袖からのぞく白い肌があまりにも無防備で、正直目の毒だ。
「あれ、どしたの?」
無意識に顔を背けたことに気付いたのか、奥村先輩が不思議そうに問いかけてくる。わずかに顔が赤らんでいることがばれてしまわないよう、俺は必死に会話を逸らそうと口を開いた。
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