第7話 デビューライブ



 西巻がとぼけた声を出している。コンビニエンスストアに次々と変わった客が現れるという設定の一人コントに、客席では小さな笑いが起きる。


 眩いばかりの照明を一身に浴びながらネタを披露する西巻の姿を、碧は舞台袖からじっと眺めていた。


 西巻には舞台上に頼れる人間はいない。だけれど、碧はネタが終わりに近づいていることを知りながら、もっと舞台に立っていてくれと思う。


 今日の観客は一〇人。全てが部員の友人だったが、いざ他者の目に晒されると思うと、碧は鼓動が速まるのを抑えきれない。


 今日来てくれた人たちは全員味方だ。冷やかす人間はいない。


 しかし、これ以上ないホームの環境にも、碧は恐れを抱いていた。面白くないと思われたらどうしようと、考えるべきではないことを考えてしまっていた。


 終わらないでくれ。こっちに来ないでくれ。


 碧の祈りも通じず、西巻のネタは時間通りに終わった。「どうもありがとうございました」の後に、まばらな拍手。


 先輩たちは碧のことを考えて、順番を二番目にしてくれたのだが、しんとした空気に会場が温まったとは碧には思えない。


 西巻が微妙な顔をして、戻ってくる。会場にはアップテンポなBGMが流れていたから、小声なら話しても問題はなかったが、西巻は何も喋ることなく碧たちの横を通り過ぎてしまった。


 それどころではないとは分かっていても、碧の緊張は今までにないほどに高まる。筧に「大丈夫だから」と声をかけられても、何の薬にもならない。照明に照らされたままの舞台が、処刑台のようにすら見えてしまう。


 でも、舞台に立たないという選択肢は、もはや碧たちにはない。「行こう」と声をかけて、数段しかない階段を上り始めた筧に、碧も続いた。


 二人に送られる形だけの拍手。


 碧には嫌でも観客一人一人の表情が見えてしまう。期待していない。時間が潰せたらそれでいいと言わんばかりの無表情。


 センターマイクにたどり着くまでのたった数歩が、碧には途方もなく遠く感じられた。マイクの高さを調節する筧の横で、置物にでもなったかのようだ。


「どうもスケアクロウです。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 お辞儀をした二人に、またとりあえずの拍手が送られる。空席が目立つ客席。


 すぐ拍手は鳴りやんで、碧にセリフを迫る。踏ん張って、呼びかけるように声を出す。


「いきなりなんですけど、海外旅行って憧れますよね」


「まあ私たちの身では、したいと思ってもなかなかできませんからね」


「でも、何の準備もせずに行ったら戸惑うだけなんで、やっぱり練習とかしといた方がいいと思うんですよ」


「確かにそれはありますね」


「海外旅行に行くにあたって、最初に必要になるものといったらパスポートですよね」


 手足が縛られるような空気の中、二人は前置きを終え、本題の漫才内コントに入る。


 何度も試行錯誤を繰り返して、一ヶ月半という短い間だけれど磨いてきたネタだ。碧にも少しだけれど自信がある。


 でも、凍っているみたいに微動だにしない観客を目の当たりにすると、わずかな自信もボケるたびに削り取られた。自分たちの味方であるはずの観客さえ笑わせることができなくて、碧の心にはネタの進行とともに、一つ二つと小さな傷が増えていく。ただセリフを言うだけのロボットにもなれない。


 ネタをしながら碧は、舞台袖から自分たちを客観視するような感覚にもなった。哀れで身勝手で痛々しい。


 客席の後ろでは西巻が自分たちの漫才をスマートフォンで録画してくれているが、絶対に見返したくない。


「では、金属類。特にバールのようなものがありましたら、こちらのトレイにお入れください」


「なんで限定するんですか。バールのようなものって、持ってる人そうそう見たことないですよ」


 せっかく放ったボケとツッコミも、すぐに重たい雰囲気に押しつぶされる。


 くすりともしない観客の姿が嫌でも目に入り、碧は舞台に立つことの恐ろしさを知った。二人だけで壁に向かって練習していたときの方が、まだ手ごたえがあった。


 もはや碧はネタを切り上げて、早急に立ち去りたいとさえ思う。誰も見ていないところで、膝を抱えてうずくまりたい。


 そう思う碧を、筧が舞台に繋ぎ止める。自分はいいけれど、一人残される筧に恥をかかせるわけにはいかない。


 碧はなんとか踏ん張ってネタを続けた。折れそうな心を隠そうと、必死に声を出す。ゆっくりはっきり喋ろうという意識はどこかに吹き飛び、自ずと早口になる。


 もはや笑わせるどころではない。観客の何人かは大丈夫かと、心配しているかもしれない。


 それでも碧は、マイクの横に立ち続けた。最後までやり切らなければ、自分たちには何も残らないと感じた。


「もういいよ。どうもありがとうございました」


 ネタが終わると、温度のない拍手がぱらぱらと飛ぶ。それは祝福とは程遠く、碧にとっては首元にナイフを当てられているようだ。


 鳴り始めたBGMに急かされるように、舞台を後にする二人。舞台袖で待機していた瀬川と戸田に「お疲れ様」と声をかけられる。


 なのに、「ありがとうございます」と返す自分が、どこか別の場所にいるように碧には思えた。


 録画を終えた西巻が舞台袖にやってきて、小道具であるパイプ椅子を舞台上に出すなど、慌ただしく動く。


 碧は瀬川たちのもとを通り過ぎて、誰からも見えなくなった瞬間に、膝を折って崩れ落ちた。


 手で顔を抑える。理由の分からない涙が、涙腺を上ってくる。筧たちを心配させてしまうと思って、嗚咽は洩らさなかったが、それでも息は荒く、立ち上がることはできない。


 筧に背中を叩かれて、碧の胸はいっぱいになる。次に息を吐いたら、溢れてしまいそうだ。


 BGMが切り替わり、瀬川と戸田が舞台に出ていったのを、碧は背中で感じる。


 二人のネタが終わる五分後まで、碧は立ち上がることができなかった。ズタズタになった心を修復するには、それ相応の時間が必要だった。





 デビューライブも終わり、後片付けをしてから、五人は駅の方へと向かっていた。筧曰く、これから今日の打ち上げが行われるようだ。事前に聞かされてはいなかったものの、存在は察していたので、碧にもさしたる驚きはない。


 だけれど、スベりにスベった後で打ち上げに行く元気は、正直なところ碧にはなかった。早く帰って、枕に顔を埋めてしまいたい。


 なのに、一人だけ断って帰ることも碧にはできず、やむなく暗くなった通りを歩いている。まだ夜の七時過ぎだというのにもう車通りが少ない。


 自分が住んでいた町と大差なく、碧は心細かった。先輩たちの話に混ざることもできなかった。


 五人が入ったのは、碧の新歓のときと同じ居酒屋だった。相変わらず、駅のホームから見えるところに看板があるだけあって、ひっきりなしに人の喋る声が聞こえる。


 瀬川と戸田がビールを、残りの三人がソフトドリンクを頼んで、五人はひとまず乾杯をした。


 ジョッキやグラスを突き合わせる音が、浮かんでは消えていく。碧は烏龍茶を口に運んだ。思っていたよりも苦い味がした。


 打ち上げ中、碧は先輩たちから色々と慰められた。「最初はこんなもんだよ」とか「やり切ったことはよかったと思う」とか「俺は面白かったけどな」とか。


 だけれど、どの言葉も耳を滑っていくだけで、碧の心にまでは届かない。瀬川と戸田はまあまあウケてたし、西巻だって、笑いがなかったわけではない。でも、自分たちの漫才で起こった笑いは、完全なるゼロだ。


 三人だってスベったことはあるのだろう。でも、今日ウケた人間に自分の気持ちなんて分かるはずないと、碧は感じてしまっていた。


 三人が自分たちの欠点をなかなか指摘してくれなかったことも、碧の心をささくれさせる。悪いなら悪いとはっきり言うのも、優しさではないか。


 きっと三人は、碧をALOに引き留めようと、気を遣っているのだろう。


 でも、私だってとっくにALOの一員だ。いつまでもお客様扱いは望んでいない。運ばれてきた料理を少しずつ食べながら、碧はそう考えていた。


 打ち上げが始まって一時間ほどが経った頃、碧は「ちょっとトイレ行ってきていいですか?」と席を立った。見送られながら、四人のもとを離れる。


 でも、碧はトイレを通り過ぎていた。店員に断って外へと向かう。


 帰りはしない。でも、碧は少し外の空気を吸いたい気分だった。


 階段を上がって、地上に出る。地下にあるため居酒屋には窓がなく、碧は一時間ぶりとは思えないほどの開放感を味わった。


 駅の正面から少し外れた店前は、さほど車通りは多くない。空気は少し湿っていたけれど、雨は降っておらず、長袖一枚でも寒くはない。


 碧は何をするでもなく、一つ息を吐いた。商店街からも外れていて、喧騒もそこまで聞こえてこない。気持ちをいったん落ち着けるには、悪くない環境と言えた。


 SNSを見たり、高架を走っていく電車をぼーっと眺めてみたり、碧は無為な時間を過ごす。


 すると、何分か後に階段を上ってくる気配がした。振り返ると、筧が外に出てきていた。


 トイレにしては遅すぎると、自分を連れ戻しに来たのだろうか。


 ほっと息をつく筧に、碧はバツが悪いといった顔をした。


「よかった。外にいてくれて。万が一のことがあったらどうしようって思ってたから」


「ごめん。みんな心配してるよね。そろそろ中に戻らなきゃ」


「いいよ、まだ。それよりさ、ここでちょっと話してかない?」


 筧は碧の横に並んだ。酒の匂いとは程遠い、まっさらな匂いを碧は感じる。


「今日、もっとウケたかったね」



(続く)

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