第4話 初めてのネタ合わせ



「上野さん。私たちで絶対、今日見たミルネの舞台に立とうね」


 こともなげに言う筧を、碧はスルーできなかった。確かに想像はしたけれど、現実ははるか遠いと感じていたから、「えっ、私がですか?」という声が漏れる。


「そうだよ。言ってなかったけど、KACHIDOKIの決勝はミルネtheかしもとで開催されるの。どうせやるなら目標は高いほうがいいでしょ。西巻や先輩たちも含めた五人で切磋琢磨しあって、絶対決勝に進もうね。最終的には目指せ優勝! だよ」


 KACHIDOKIは全国大会だから、各地から猛者たちが集まるのだろう。その中には大学入学前からお笑いをやっていた学生もいるに違いない。


  部活に入ったことのない碧でも、全国大会という響きは決してたやすいものではないことが分かる。ド素人の自分がたかが四年で、いや筧の卒業も考えると三年で決勝進出できるかは正直自信がない。


 でも、きりりとした目をしている筧を見ていると、弱音は吐いていられなかった。目標を立てなければ、到達することは決してないと思った。


「そうですね。簡単ではないと思いますけど、目指すところはあった方がいいですもんね」


「うん! そのためにもまずは六月のデビューライブに向けてがんばってこう!」


 筧の声は弾んでいる。相方を見つけて、嬉しくて仕方がないと言うように。


 そうだ。自分はもう筧の相方なのだ。軽くはない言葉の響きに、碧は身が引き締まる心地がした。


「さてと、じゃあネタに取りかかる前に、一つ決めておきたいことがあるんだけど」


「何ですか?」


「コンビ名だよ。コンビ名。上野さん、なんか思いつくのある?」


 碧は言葉に詰まった。急に言われても即座に考えつかない。


 「えっと……」と迷っている碧を見かねたのか、筧は覗きこむようにして口を開く。


「自分から振っといてなんなんだけど、私さ、つけたい名前が一個あって」


「つけたい名前……」


「そう。『スケアクロウ』っていうの。昔の映画のタイトルなんだけど、最近見たらすっごくよくて。コンビ名に使いたいなってずっと思ってたんだよね」


 まるで他の候補は考えられないという目で筧が言っていたから、碧も「いいですね、それ」と素直に同調した。


 もともとコンビ名なんて考えていなかったし、響きも悪くない。迷う理由はなかった。


「でしょ? じゃあ、コンビ名は『スケアクロウ』で決まりってことで」


 一方的に決められても、碧に異存はなかった。


 これから自分たちは『スケアクロウ』として活動する。胸の奥がこそばゆくなる思いがした。


「じゃあ、後はデビューライブで披露するネタなんだけど、上野さん、明日空いてる?」


「はい。四限で講義は終わりですし、バイトも入ってません」


「そう! じゃあ、さっそくネタ合わせしよっか。実は私さ、上野さんとの漫才用のネタ、もう書いてあるんだよね」


 何気なく言う筧に、碧は内心驚く。初めて会ってからまだ一週間も経っていないというのに、もうネタを書き上げたとは。やはり自分とは違うと感じる。


 もちろん碧にとってはありがたいので、率直にお礼を言った。「じゃあ、明日四限が終わった後、一号館の前で待ち合わせね」と流れるように約束を取り付ける筧にも、「はい」と頷く。


 どんなネタなのか。碧は大学に入ってから一番のドキドキを感じていた。





 電車を二回乗り換えて降りた街は、碧が初めて聞く中規模な街だった。駅の正面に短い商店街が伸びていて、その脇にはコンビニや居酒屋チェーンが並んでいる光景は、藍佐大学の最寄り駅を思い起こさせる。


 商店街を突っ切って右に曲がる筧に、碧も小鹿のようについていく。


 どんなネタなのか聞いても、「着いてからのお楽しみ」とはぐらかされるばかりだった。


 幹線道路を外れ、さらに歩くことおよそ五分。地域性に乏しい住宅街の一角に、筧の家はあった。


 白く塗られた外壁に、階段を数段上がるタイプの玄関。二階建ての家の脇には、小さな庭がついている。


 一軒家と言われたら誰もがイメージするようなありふれた家でも、表札に「筧」と書かれているのを見ると、碧は緊張せざるを得ない。心臓をわしづかみにされているような感覚さえ味わってしまう。


「大丈夫だって。まだお父さんとお母さんは働いている最中だから。さ、入って」


 玄関を開けた状態で筧が言ったので、碧には従うよりほかない。


 一歩玄関に足を踏み入れると、暖かな茶色でまとめられたインテリアが目に入った。会ったこともない人間の靴が並んでいて、碧は息を吞んだが、シトラスの香りの芳香剤がすぐに中和する。


 靴を脱いで中に入ると、他人の家独特の空気感が碧を包みこんだ。


 階段を上る筧についていく。一段一段上るごとに、碧には自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえるようだった。


 筧が何の変哲もないドアを開けると、碧の目に物が驚くほど少ない部屋が飛びこんでくる。


 黄緑色のカーテンからわずかに日光が差し込む部屋は、ベッドにテレビ、あとは本棚くらいしかなかった。


 掃除をしたのだろうか。埃一つ見受けられない整然とした空間に、碧は少し呆気に取られてしまう。もっと芸人のポスターやグッズ、DVDがあるのかと思っていたけれど、DVDレコーダーさえ見受けられず、本棚には文庫本が入っているのみだ。この部屋だけ見たら、誰も筧がお笑い好きだとは思わないだろう。


「じゃあ、さっそくネタの読み合わせをしよっか」


 筧はスマートフォンを取り出す。何やら操作をすると、今度は碧のスマートフォンが振動した。


 ラインを開いてみると、一件のファイルが送られている。碧は言われるまでもなく、それをタップした。A4サイズの紙に、文字が並んでいるのが目に入る。


 一番上には「漫才『海外旅行』」と書かれていた。


「……これが台本ですか?」


「そう。言わなくても分かるでしょ。ほら、こっち来て並んで立って。読み合わせ始めるよ」


 「いや、最初から側にいますけど」。そんな碧のツッコミも、筧は意に介さなかった。「いいからいいから」とただニコニコと笑っている。


 そんなに漫才の練習ができるのが嬉しいのかと思いながら、碧は筧の横に立つ。


 「じゃあ、いくよ」と一気に真剣な顔をした筧に、碧は頷きながら息を吞んだ。


「どうもこんにちは。スケアクロウです。よろしくお願いします」


 壁に向かって頭を下げた筧に続くように、碧も小さく頭を下げる。


 スマートフォンに表示されているファイルによると、次のセリフを言うのは自分だ。言ったことのないセリフに、誰も見ていなくても緊張する。


 それでも碧は、ぎこちない声でファイルの文字を読み上げた。


「いや、私ですね。今ひとつやってみたいことがありまして」


「やってみたいこと?」


「一度海外旅行してみたいなと思うんですよ」


「はぁー、いいじゃないですか。海外旅行。名所を見て、美味しいものを食べて。貴重な経験になりますよ」


「でも、私一回も海外旅行に行ったことがなくて。だから今ここで練習してみたいなって思うんですけど、いいですか?」


「何の練習かは分からないけど、いいでしょう」


「海外旅行と言ったら、まず必要になるのがパスポートですよね」


「なるほど、パスポート」


 台本には碧が少し離れて、また筧に向かってくるよう書かれていたから、碧は一言一句違わずその通りにする。少しの動作でも息が速まっていた。


「こんにちは。今日はどうなさいましたか?」


「あの、パスポートの申請をしたいんですけど」


「分かりました。では、バットかグローブはお持ちですか?」


「ここは野球場じゃないんですから。申請センターでしょう?  ちゃんと必要書類は持ってきましたよ」


「ちっ、住民票ですね。お預かりいたします」


「なんでちょっと機嫌悪いんですか」


「では、パスポートが出来上がるまで、あちらに腰かけて漫画でも読みながらお待ちください」


 「分かりました」。碧は座るふりをする。横を見ながら「えっと、こち亀、ゴルゴ13、美味しんぼ。床屋みたいなラインナップ」とツッコむのも忘れない。


「お客様、準備が整いました」


 立ち上がる碧。


「こちらデスノートになります」


「不吉! パスポートですよね?」


「そうでした。パスポートでした。では、お会計の方をお願いしたいのですが」


「いくらですか?」


「はい、二万五千円です」


「反応しづらい数字! どうせふっかけるなら、もっと百万とかにしてくださいよ」


 漫才はその後も手荷物検査、飛行機内、入国審査と続いていった。


 初めて読むネタを面白いと感じるだけの余裕は碧にはなく、台本に書かれたセリフを言うだけでいっぱいいっぱいだった。


 二人で立って喋っていると、まるで芸人のまねごとをしているような気がする。今ここで部屋のドアが開いて誰かが現れたら、とてつもなく恥ずかしく感じるのだろうと、碧は頭の片隅で思った。


「これで海外旅行の練習は万全ですね」


「いや、そんなわけないでしょ。もういいよ」


「どうもありがとうございました」。二人で同時に言って、頭を下げる。そう台本には書かれていたけれど、一回目で二人の息が合うわけもなく、碧は筧の礼に小さく遅れて入った。


  最初の読み合わせが終わって、碧は内心、安堵の息を吐く。筧の隣にいることが少し気まずくなり、一歩距離を取る。


 スマートフォンを見ると、四分が経過していた。



(続く)

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