スケアクロウに憧れて

これ

第1話 こんな大学は嫌だ



 椅子が二つ、向き合うようにして置かれている。スポットライトが二人の男性を照らし出す。半分ほど埋まった客席から漏れる笑い声。でも、劇場の空気は和らいではいない。


 目の前で二人の男性が部屋探しのネタを披露しているのを、上野碧はほとんど直立不動のまま聞いていた。舞台袖は狭く、何人もいられない。


 持ち時間が過ぎていくにつれて、碧は足が大きく震えるのを感じていた。


 今まで目指してきたはずの舞台。でも、いざ立つ瞬間になると、想像をはるかに超えて緊張する。


 多くの観客は、自分たちを初めて見る。歓迎されるかどうかは、舞台に立ってみなければ分からない。


 一組前のコンビが盛況のうちにネタを終えた。だてにこの舞台に何度も立っていない。


 客席には拍手が起こり、舞台はひとまず役目を終えたかのように暗転する。二人は碧たちとは逆の方に引き上げていった。


 劇場には合間を埋める音楽が流れ、待機していたスタッフが手早く舞台に出て行って、椅子を片付ける。


 代わりに舞台の中央には、一本のマイクが立てられた。シンプル、かつ重大な碧たちの命綱だ。


 いよいよ自分たちの順番だ。碧は真っ暗な舞台を前にして、呼吸が逸った。


 今日のために多くの稽古を積んできた。でも、いざという時になると、心から自分を信じることができない。


 失敗しないだろうか。ネタは飛んでしまわないだろうか。


 碧が不安に苛まれていると、隣に立つ人物が肩に手を置いてきた。華奢だけれどしっかりした手に、碧は横を向く。


「ここにいるお客さん、全員笑わせてやろう。大丈夫。私たちならできるよ」


 力強い言葉は、自分たちが積み上げてきたものを少しも疑っていない。碧は一つ頷く。


 そうだ。自分は一人じゃない。隣には相方がいてくれるのだ。


 碧は拳を握る。準備ができた舞台は再び明るく照らされ、登場時のBGMが鳴る。


 碧は一つ息を吐いた。


 絶対にうまくいく。


 そう信じて、念願の舞台へ第一歩を踏み出した。




    ※ ※ ※




 一号館に向かう道の途中に、いくつもの幟が立てられている。ユニフォームを着てみたり、大きな手作り看板を出してみたり、道行く人間に手当たり次第に声をかけてみたり。


 学生たちは新たな入会者を確保しようと必死で、上野碧(うえのあおい)は歩いているだけで圧倒されていた。あまりの情熱に、高校までずっと帰宅部だった自分が少し場違いにも思える。


 大学に入ったら、一にも二にもまずはサークル。サークルに入らないと、縦のつながりも横のつながりもなかなかできない。


 そう一つ上の先輩には聞かされていたものの、まだ大学の雰囲気にも慣れていないのに、サークルに入るなんて夢のまた夢のように思われた。


 新入生ならおそらく誰でもいいのだろう。いくつかのサークルに声をかけられたり、チラシを渡されたりしながら、碧はやっとの思いで一号館の手前までたどり着く。


 その間際に、一人の女子学生が立っていた。ショートの髪の毛はかすかに茶色に染められていて、はっきりとした目鼻立ちと明るい雰囲気は、彼女が周囲の人間から愛されて育ってきたことを思わせる。


 彼女は手に黄色と黒のスケッチブックを持っていた。何が始まるのだろう。碧は彼女に目を向ける。


「エレガンス筧(かけい)の『こんな大学は嫌だ』ー!」


 よく通る声にも、碧以外の学生が足を止める様子はない。観客が一人しかいないのに、筧は気にしていないかのように、スケッチブックを捲り始める。


「建物がよく見たらゼラチンでできているー!」


「自分以外の学生が全員、強盗がするような目出し帽を被ってるー!」


「図書館に置いてある本が全部、オカルト雑誌『ムー』!」


 スケッチブックを捲る度に現れたのは、小学生が書いたのかと見間違うほど拙い絵だった。客観的に見て、とても人様に見せられるようなものではない。


 だけれど、碧の口元は知らず知らずのうちに緩んでいた。面白みのないネタと下手な絵に、全力を投じている筧がわけもなくおかしかった。


「以上! エレガンス筧の『こんな大学は嫌だ』でしたー!」


 五つほど答えを披露して、筧はネタを締めた。


 小さく拍手を送る碧。見させてもらったという手前だけではなく、純粋に心からの拍手だった。


「ありがとう! ねぇ、あなた名前は!?」


 食い気味に聞かれたから、碧は軽くたじろいでしまう。


「う、上野碧です」


「そう! 上野さんね! ねぇ、上野さんもお笑い好きなの!?」


 筧の目は、同好の士を見つけたという喜びで輝いていた。爛々とした眼差しに当てられると、無下にすることは碧にはできない。


「ま、まあ人並みには……」


「そうなんだ! ちょっとでも興味があるなら、私たちとしては大歓迎だよ! ウチのサークル人数いなくてさ、だからぜひとも入ってくれると嬉しいんだけど」


グイグイ距離を詰めてくる筧に、これが大学生なのかと碧はカルチャーショックを受ける。大学生活を謳歌している様子の筧は、碧が今まで積極的に関わったことがないタイプの人間だった。


「は、はい……。考えておきます」


「うん。まあそうだよね。サークル選びは、大学生活を大きく左右するイベントだからね。そんなに簡単には決められないよね」


 「ごめんね。なんかいきなり迫っちゃって」。少ししおらしい態度を見せる筧に、碧はかぶりを振る。少し驚きはしたけれど、それは大した問題ではない。


 「いえ、大丈夫です」と言うと、筧は一瞬前の申し訳なさそうな態度はどこに行ったのかと思うほどの、満面の笑みを見せてきた。急な表情の切り替わりに、碧は自分がターゲットになっていると改めて知る。


「そう! じゃあさ、今週の金曜日、新入生歓迎会があるんだけどよかったら来てよ! 大丈夫! もちろんお代はいただかないから!」


 出た。これが噂に聞く新入生歓迎会。本当に実在するとは。


 碧はキツネに騙されたような心地になりながらも、おずおずと頷いていた。たぶんタダでご飯が食べられる。一歩踏み出すなら、今この瞬間しかない。


「ありがと! じゃあさ、上野さん。ラインはやってるよね? また連絡したいからアカウント教えてくれる!?」


 言っている途中からスマートフォンを手にしていた筧に、碧はスマートフォンを取り出すことで応える。


 慣れない手つきでQRコードを表示して、読み取ってもらう。すると、すぐ筧から友達追加の誘いが来た。碧も承認する。


 五人しか登録者のいないラインのホーム画面。その一番上に、筧希久子の名前が表示された。


「ありがと! じゃあ、また何かあったら連絡するね! サークル選び、迷うと思うけど、よかったらウチのサークル、藍佐大学お笑い研究会ALOの存在も、頭の片隅に入れておいてくれたら嬉しいな!」


「は、はい。ちゃんと覚えときます」


 筧がまた大きな笑みを見せると、一号館の方からチャイムが鳴った。講義開始五分前を知らせる予鈴だ。そろそろ教室に向かわなければならない。


 碧は筧に断って、その場から離れた。


 自動ドアの前で立ち止まって、もう一度振り返る。めげることなく声を張り上げて、道行く学生に同じネタを披露している筧が、健気に見えた。





 駅前はもう何回か来ているものの、相変わらず人が多くて慣れないなと碧は思う。地方から上京してきた碧にとって、特別快速が止まらないこの駅でも、十分都会を感じる。


 仕事終わりなのかスーツ姿の人間が多い時間帯を、碧はスマートフォンと辺りを交互に見ることでやり過ごしていた。


 待ち合わせ場所の北口には碧以外、同じ目的で来た大学生らしき人間は見当たらない。


 本当にここで合っているのかと、碧が不安になり始めた頃、北口前に四人の集団がやってくる。男性が二人、女性が二人。筧が先頭で歩いているから、碧はその集団が藍佐大学お笑い研究会ALOだと分かった。


「上野さん! 来てくれたんだ! ありがと!」


 筧が真っ先に駆け寄っていって声をかける。相変わらずキラキラとした目に押されて、碧は「ま、まあ」ぐらいの返事しかできない。


「筧、この子がラインで言ってた人?」


「そうです、瀬川(せがわ)先輩! 我がALO期待の新人、上野碧さんですよ!」


 後ろを歩く背の高い男性の疑問に、筧は胸を張って答えてみせる。


 まだ入会していないのに、勝手に期待の新人にされていて、碧は肩身が狭くなる思いがした。他の三人がまだ信じられていない様子なのが、唯一の救いだ。


「上野さんだったね。じゃあ、さっそく新歓の会場に行こっか」


「えっ、でもまだ私一人しか来てませんけど」


「大丈夫大丈夫。後から他にも来る予定だから。ほら、もう予約時間も迫ってるし」


 筧と瀬川以外の二人の学生も、新入生に嬉しくてたまらないようだ。碧は断るだけの勇気もなかったので頷く。


 今度は瀬川を先頭に、五人は北口から離れていく。


 どこに連れていかれるかも、どのような歓迎を受けるかも分からない。


 碧の胸には小さな期待と、それを上回る漠然とした不安が混在していた。



(続く)


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