第2話

 大学の講義というものは非常に奥ゆかしく、おれにとってはただただ眠たいばかりであった。それは教職課程の講義に於いてもさして変わりは無かった。

 

 一年次からずっと、二年に上がってからの今日に至っても、教育指導要領を教材に、もっぱら教育基本法についての講義。


「第一条 教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を……」いつもこの辺りで、おれは読むのをやめてしまう。


 何も力尽きてしまう訳ではない。馬鹿らしくなって読むのをやめるのだ。

 

 そもそも、学校教育で人間を完成させようという風な文言が、おれにとってはちゃんちゃらおかしい。たかだか十八そこそこ、中卒で働くとなれば十六歳。世の中の「よ」の字も知らないそんな若僧や小娘が、すっかり人間として完成してしまったと勘違いしているとすれば、それこそ末恐ろしい。

 

 そう言うおれも、講義をしている教授をよそに、うたた寝をしている訳だから偉そうに言えたものではないが、少なくとも、自分が完成された人間だとは思っていない分、いくらか可愛げがあるはずだ。

 

 ではでは、学校教育とは、果たして何なのだろう。

 

 教育指導要領には、生きる力を育むだの何だのと、小難しい、それでいて血の通っていないと感じられる言葉を並び立てているばかりで、どうにも教育指導への要領を得ない様に感じてしまう。


 こんなものを学んだからといって、立派な教育者になれるのかといささか疑問だ。

 

 確かに、希望する者の皆が教職員になれる仕組みにするよりは、こういったお堅い文章を理解した者かどうかを試験によってふるいにかける方が、公務員としての質を保つ要素にはなるのであろう。

 

 ただ、一人の指導者としての質はそんなもので測れるのだろうか。たかだか紙切れ数枚っきりで。


 いや、教育指導要領も含めた一般教養を身につけているのは最低限の前提であって、それがあるから教壇に立つ資格があるとみなされるのか。

 

 でも、公立学校の教師は公務員だから、後で大変なボンクラだと分かっても、大方首を切られることは無いのだから、それはもう手遅れではないのか――。

 

 教職課程の授業を受ける度に、この思考の繰り返しに阻まれ、最終的には大人しく教授の話にぼんやり耳を傾けるか、そのまま思考の闇に引き込まれて深い眠りへと落ちるかという具合で九十分を過ごしていた。

 

 

 小難しい顔でウトウトするおれを見て、同じ教職課程を受講する連中は口にする。

 

「お前みたいなのが教師になるとか世も末だ」

 

 どこかで聞いた言葉だ。

 

 しかしこの講義中に至っては、これを口にするのは、おれがただ退屈で睡魔と戦っていると勘違いした馬鹿者だ。これ程真剣にこの指導要領と向き合っているおれを捕まえてどの口が言っているのだろうか。


 しかしまぁ、勉強に手が付いていないことは確かである。

 

 そんな戯れ言や教授の講義すら煩わしくなり、かといって机に伏せて理屈をこねくり回すことすら億劫になってくると、おれは外の空気を吸いにと教室から出る。


 

 

 教室棟から出て、メインの学生通りを抜けると、芝生の円形広場があり、その奥には食堂が据えられている。


 打ちっぱなしコンクリートで囲われた円形の芝生広場は食堂に向かって緩やかな登り勾配。電柱を斜めに切ってその断面に芝生を植え込んだ様な見た目のそれは、南向きで日当たりも抜群。昼寝以外にはこれといった用途がおれには見当たらない。食堂側の縁まで来ると三メートル程の高さがあり、打ちっぱなしコンクリートの階段を降りるとそのまま食堂へと向かうこともできる。

 

 芝生の縁で振り返り、おれはそこに腰掛けタバコに火を付けた。正面には真っ直ぐに門まで伸びているメインの学生通りやその周囲のキャンパス。そこを行き交う学生達をそれとなしに見渡せる、程良い高さになっている。


 

 この高台で腰掛けタバコを咥えている時間が、何とも穏やかでおれは好きだ。

 

 昼休みになると後ろにある食堂へと餌に群がる蟻の様に、この円形の広場を避けるようにして人が流れてくるのだが、今はまだ講義中だから目に付く学生は少ない。


 こんがらがった頭をリフレッシュさせようと、一つまた一つとタバコの煙を吐き出していると、「竜也!」と、背後から声を掛けられた。

 

「まぁた授業サボっちょるんかお前は」

 

 その汚い訛りと説教染みた言葉で、振り返らずとも優一だと分かる。

 

 階段を登ってきた優一はおれの隣に腰掛けた。

 

「なぁ、優一。お前にはおれがただただ面倒臭ぇから授業をサボって、こんなとこで呑気にタバコ吹かしてる様に見えんのか?」

 

「そうにしか見えんじゃろ」

 

 そう言いながら優一もタバコに火を付けた。

 

「かぁ〜! おれがどれだけこの国の教育を、教育者としての在り方を憂いているのか。一目見りゃあ分かりそうなもんだけどねぇ」

 

「そんなもん、お前が心配することじゃねぇじゃろ」と、優一は鼻で笑った。

 

「馬っ鹿野郎だねぇ〜、お前は。おれは教師になんだよ? 教師になるおれが、教育の何たるかを考えるのは当然ってもんだろう」

 

「で? こんなとこでタバコ吸いよって、その答えは出たんけ?」

 

「そんな簡単に答えが出ねぇからここにいるんじゃねぇか」

 

 腰掛けていたコンクリートに、すっかり短くなったタバコの火をぐりぐりと押しやってから、振り返りざまに階段下の灰皿ボックスへ、吸い殻をピンと指で弾いた。


 おれの指から離れた吸い殻は、真っ直ぐ灰皿の足元に当たり、そのまま下へポトンと落ちた。

 

 それを見た優一は眉間に皺を寄せなが、、「お前、後であれ拾っとけよ」と言ってきたのが心底煩わしかったので、「わぁーってるよ」と返事をしておいた。


 

 南向きの広場の傾斜は目一杯太陽を受けている。日増しに青くなってきた芝生と共に、おれと優一の顔も、高く登ったお天道さんが景気良く照らしている。

 

「それにしても暑っちぃなあ」

 

 おれはもう一本タバコを取り出した。

 

「まだそんなでもねぇじゃろ。梅雨にもなってねぇんじゃし」

 

「優一の地元はここより暑いの?」

 

「そりゃ暑いのは暑いけど、俺の住んどったとこは瀬戸内側じゃけえ、気候も環境も穏やかで住みやすいとは思うで」

 

「地元どこだっけ?」

 

「山口」

 

「山口ってどこだっけ?」

 

「……お前、このやり取り何回目や」

 

「関西の方だろ?」

 

「近畿地方じゃっちゅうのに」

 

「似た様なもんだろ」

 

「はーええわ」と肩を落として優一はタバコの火を消した。

 

 

「なんかさぁ」

 

 おれは芝生に寝っ転がった。

 

「大学生ってさ、思ってたよりずっと暇だしつまんねぇのな」

 

 鬱陶しいほどの日差しが顔を照らす。ティーシャツの目を抜けた芝生が、チクチクと背中を刺すのがややむず痒い。

 

「授業サボって言うことじゃねぇじゃろ」

 

「それとこれとは別だよ。なんつーの? おれは、オレンジデイズみてぇなキャンパスライフを想像してたんだよ。何人かのグループでさ、中には女の子もいて。そんでもって一緒に課題やったり、たまにゃあお出掛けなんかもしたりしてよ。それがなんだい。こんなところでタワシみてぇな頭の、むさ苦しい奴と二人で日向ぼっこときたらまぁ、色気の無ぇのなんの」

 

「そりゃあお互い様じゃろうが」

 

「もうここまできたらさ、お天道さんまで厚かましく感じてくるってなもんだよ」

 

 頭の方でシュッとライターの擦る音がして、ふぅと優一の吐くタバコの煙が漂ってくる。

 

「お前はつまらんつまらんて、愚痴言うてばっかりじゃの」

 

「つまんねぇもんはつまんねぇんだよ」

 

 優一はもう一つ大きく煙を吐き出した。

 

「つまらんつまらん言う奴はのう、脳ミソが詰まってねぇからつまらんのじゃ。やりたい事とか目的とか自分にとって大事な事とか、色んなもんが頭に詰まっときゃ、そんな言葉口にしやせん」

 

 おれはむくっと体を起こし、背中についた芝を払いながら優一のほうへと顔を向けた。

 

「お前もなかなか言葉遊びがうめぇよな!」

 

 ふぅーと煙をこちらへ吹きかけてから、「そんなとこ褒められても嬉しゅうねぇわ」と、仏頂面で口にした。


「お前は学校の先生になりたくてここに来たんじゃろ?そりゃ確かにな、勉強しかしてきちょらん様な、頭でっかちの先生にゃお前もなるつもりは無いじゃろうし……、まぁ、そもそもなれんのじゃろうけど。でも、先生になるためには最低限は勉強も必要なんじゃろ?こんなとこで呑気に日向ぼっこしちょるほど暇じゃねぇじゃろ。だいたいお前は……」


 再びおれは芝生に仰向けになった。優一の小言も、今日も今日とて休みなく働く太陽も、何もかもが煩わしく思えたので、そっと目を閉じた。

 

「それにしても暑っちぃなぁ〜」

 

 カンカンの太陽が瞼を焼き、ぼんやり薄赤く見える。額から滲んだ汗が、つうっと耳の方へとつたっていってくのを感じた。

 

「……お前、話聞いちょるんか?」

 

 優一の小言はまだ続いていたのかと思ったが、それを口にしてはさすがに角が立つので、「ああ、聞いてる。ちゃあんと聞いてるよ」とだけ返事をしておいた。

 

「お前はホンマに……。とりあえず、授業くらいちゃんと受けぇよ」

 

 タバコの香りを残しつつ、優一の階段を降りていく足音が遠ざかっていった。

 

「あ! さっきのタバコ、拾っといてくんね?」

 

 体を起こし、半身を振り返しながら叫んだ。お前っちゅう奴はホンマにと、優一のぼやきが小さく聞こえた。


 

 またぼんやりと学内を眺めると、早めに講義が終わったのか、さっきより人通りが増えてきていた。

 

 食堂へとなだれこんでくる学生達。

 

 教室棟の裏手、ちょうど日陰になっている喫煙所へと、通りを向こうへ歩いていく学生達の後ろ姿。

 

 食堂が賑わってくるから、少しでも静かな場所へと移動したいのか、売店の方へと向かっていく少人数のグループ。

 

 顔を付き合わせれば挨拶を交わす他学部の学生が手を振ってくれたので、おれもそれに返す様に手を挙げた。

 制服を着た部活動生の集団もゾロゾロと。

 

 芝生に腰を据えたままタバコを咥え、行き交う人達にぼんやり目を配った。

 

 学業に力を入れて知識や見聞を深めるため。

 プロや実業団には入れなかったから、競技種目で芽を出すためにと部活動を続けるため。

 

 資格習得や、就職に有利なスキルを身に付けるため。


 高卒で社会に飛び出すのは億劫で、大人になるのを先延ばしにするため。


 

 このキャンパスで過ごす四年間に懸ける想いは人それぞれで、この高台に座っていると、そんな様々な想いが交錯する学生通りを見渡せる。そして空には、ほぼ年中無休で顔を出しているお天道様。

 

「もうすっかり夏だなこりゃ……」

 

 暇だ暇だと文句は言いつつも、ここに腰掛けタバコを咥えている時間は何とも穏やかで、おれは好きなのだ。

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