6.つかさくん

 ユクミが見たのは赤い頬をした女の子だ。司の名を呼び、駆け寄って来て、背後から彼の足に抱き着く。背は司の腰ほどなのでユクミと同じくらい。長い髪をの一部を結って飾った菖蒲色あやめいろの細い布と、薄紅色うすべにいろの服が良く似合っていた。


「つーかーさ! おはようー!」


 そして彼女はユクミによく似た声で明るく言い、花が咲くような笑みを浮かべて横から司を見上げる。その表情はユクミでさえ警戒を忘れて思わず見惚れてしまうほど愛らしい。

 だというのに司は体を強張らせ、正面を向いたまま声も出さない。やがて女の子は不思議そうな表情を浮かべ、司の上着を引っ張る。


「ねーねー、つかさー! ごあいさつはー? ねー。なんで、なんにも言わないのー?」

「こら、知穂」


 司の背後から新たに女性の声が聞こえる。司の体がさらに硬直するのを見ながらユクミは首を傾げた。

 声を聞いた異界の住人はこの女性で三人目だ。友介と、女の子と、女性と。

 その中でこの女性だけは先の二人とは少し違う印象を受けた。もちろん、司やユクミとも違う感じだ。


「年上の人を呼び捨てにしちゃいけません」


 女性が言うと、女の子はそちらを向いて少し口を尖らせる。


「だって、ママ。『つかささん』って言いにくいもん」

「呼び捨ては駄目よ。せめて『司くん』にしなさい。いつもごめんね、司くん」


 司はユクミの方を向いたままぎこちない笑みを作った。まるであらかじめ表情の準備をしているようだ。ユクミがそう思うと同時に彼は勢いよく振り返る。


「俺は平気ですよ、美織みおりさん」

「司くんは、優しいね」


 朗らかな声で言いながら快活そうな短髪の女性――美織が歩み寄る。


「もしかしてうちに用があった?」

「はい……あ、いいえ。……いや、その……ちょっと近くまで来たんで、少し顔を出そうかな、と……」


 司は歯切れの悪い調子で言い、辺りへ視線を走らせる。


「……お二人だけですか?」

「そう。今日は、」

「あのね、今日のパパは、おしごとの“うちあわせ”があるんだって! だから、ママとあたしはおるすばんなの!」


 会話に割り込んだ知穂の言葉を聞いて、司が体の強張りを解く。


「……そっか。教えてくれてありがとう、知穂ちゃん」

「どういたしまして!」


 礼を言いながら胸を張った知穂がごく自然な様子で司の手を握る。まるで当たり前だと言わんばかりの動きを見て、ユクミの心にはほんの少しさざ波が立つ。その気持ちを抑えるようにユクミが自分で自分の手を握り合わせたとき、知穂はふと意外そうな面持ちになった。


「あれー? つかさー」

「知穂。言ったばかりなのに、もう忘れちゃったのかな?」

「はーい。……つかさ、くん」


 美織に注意されてわずかにしょげた様子を見せたのも束の間、知穂はすぐに顔をあげて司の手をしげしげと見つめる。


「つかさくんの手、今日はとってもつめたいね。いつもあったかいのに、へんなのー」


 冷たいのも道理だ。何しろ死人になった司は体温がない。ユクミは後悔でキュッと口を結び、ハッとした表情になった司が慌てて手を引く。すぐに知穂が「やだー」と叫んだ。


「つかさくんと手をつなぐの!」

「駄目だよ。俺の手は冷たいから、ええと……そう、知穂ちゃんの手も冷たくなっちゃうだろ?」

「いいよ!」

「良くないよ。とにかく、駄目」


 言われてしばらく難しい顔をしていた知穂は、突然「そうだ!」と叫び、左手からふわふわした白藍色しらあいいろものを外して司に差し出した。


「あたしのてぶくろ、かたっぽどうぞ! これね、パパがかってくれたの! とってもあったかいから、つかさくんの手もすぐあったかくなるよ!」

「……ありがとう、知穂ちゃん。でも俺の手には大きさが合わないかな。だからこのまま知穂ちゃんがつけてるといいよ」

「……えー……」


 知穂はやんわり押し戻された“てぶくろ”を握ったまま、大きさの違う手を見比べて不満そうな、あるいはつまらなそうな顔をしている。どうやら今度は司と揃いで“てぶくろ”を身に着けたくなったようだ。司に対する「好き」の感情を隠さない様子はとても可愛らしい。その様子に心動かされたのだろうか、いつしか司の目の奥からも厳しさが消え、雰囲気がとても優しくなっている。ユクミはこんな司を初めて見た。


 そもそもユクミと司が会ったのは数日前で、しかも司はその大半を眠ったまま過ごした。実質の交流時間は半日程度なので、ユクミの知らない司の表情があるのは当然だ。分かってはいるのだが、疎外感を感じてユクミは居たたまれなくなる。思わず一歩後ずさったところで美織と目が合った。


「こんにちは」


 司がようやくユクミを見る。彼の視線が泳いでいるのはユクミに対してどういう態度を取ろうかと悩んでいるためだろう。察したユクミは司が何か言うより先に口を開いた。


「私は、散歩してただけ」


 言い切ったユクミの前で美織が膝をつく。


「一人だと危ないわ。お父さんかお母さんは近くにいる?」

「……いる」


 いる、と発するのは少し胆力が必要だった。

 美織の後ろから知穂が顔を出し、好奇に満ちた表情で問いかけてくる。


「きもの。しちごさんなの?」


 “しちごさん”というのは良く分からないが、違うことだけは間違いないので首を横に振り、ユクミは『散歩』を装って適当な方向へ歩き出す。


「あ……」


 低い声は何かを言いかける様子だ。黙って目だけで制したユクミは、そこに片手を少女と繋いだ司の姿を見つける。駄目だと言っていたわりに結局は押し切られたのか、と思うと同時にユクミの胸の奥が少しざわつく。どうしてざわつくのか、その理由が分からないのがまた不快だった。わずかに眉を顰め、ユクミは三人に背を向ける。


 もともとユクミは司がどこへ行くのかも何をするのかも聞かされずにこの場まで来た。つまり今のユクミは司にとって不要な存在なのだから、ここにいなくたって構わない。むしろ、居ない方がいいのかもしれない。


 だけどこれは決して仲間外れではない、とユクミは自分に言い聞かせる。

 司は何か考えがあってここへ来た。

 例えば、あの知穂や美織から何か話を聞き出そうとするなど、だ。

 その場合、ユクミがいない方が都合がいい。だから離れる。それだけだ。


(今は司の好きにさせておいて、私は頃合を見て合流しよう)


 自分にも司にも術はかけてあるから簡単に敵に見つかることはないのだし、司の位置ならユクミはすぐに分かる。少し離れていてもなんの問題もないはず。

 一つ頷いたところで不意に正面の空が揺れる。青い空に現れたのは、上下が逆となった朽葉色の山だ。


(……まただ)


 この異界は奇妙だ。

 まず、空には時々違う風景が混ざる。不意に現れ、気づくと消えている、というのを何度も繰り返している。

 他にも音が奇妙だ。今も草履の下で聞こえていたカポ、コポ、という音が急に、ザリ、ゾリ、という音に変わる。見えているものは同じだというのに。

 奇妙さは風景や音にとどまらない。木や草、風も含めて奇妙だ。すべてが在るようで無い。それは人間だって例外ではない。

 人間は一応“人間”としての体裁を整えてあるのでこの異界の中では一番マシな存在だが、しかし友介や知穂、美織も含めて、ユクミがこの場へ来るまで見た中に正しく『人間』と呼べる者は誰一人としていなかったのだ。

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