10.緩やかに風は吹き始め

 身支度を終えて覚悟を決め、司は格子扉を振り返る。

 ここを出ればあとは進むだけ。この場合、本来ならば鼓動はうるさいくらいに音を立てるのだろうが、脈とは無縁になった今の体はとても静かだ。

 だからといってもちろん心まで静かになったわけではない。あの月夜を思い出すだけで憎しみと怒りは容易く蘇る。


(俺は必ず、やりとげる)


 何しろ今の司にはユクミがいる。この灰色の世界を作れるほど強大な力を持つ彼女がいれば、隠邪などひとたまりもないはずだ。

 そう思って視線を下に下げると、キリリとした顔つきの幼い娘は、箪笥から出してきたばかりの真新しい草履を大事そうに抱えていた。そのギャップがなんだか微笑ましくて司はつい吹き出してしまう。


「どうした?」

「いや、なんでもないよ」


 笑ったことで肩に入り過ぎていた力が良い具合に抜けた気がする。司は今しがたよりも少し穏やかな心持ちで格子扉を開けた。途端に右から左へ柔らかな風が通り過ぎて行く。


「風だ」


 声をあげたのはユクミだった。彼女は司の横で目を丸くしている。


「この世界で風が吹いたのは、初めてだ」


 へえ、と司は思わず感嘆の声を漏らした。髪を撫でて去る風は、「いつものことだ」と言わんばかりの様子で正面の草原を揺らす。


「風も心境の変化があったのかな」

「きっと司が来たからだ。司は『約束の者』だから」


 ユクミが眩しそうに目を細めて自分を見るのが少し気恥ずかしい。司は照れ隠しに微笑ってから視線を外し、ユクミを促した。


「行こう」


 まっすぐに伸びている道へ足を踏み出す。止まない霧雨でぬかるんでいるのかと思ったが、状態は思いのほか良かった。司がそう言うとユクミは少し首を傾げる。


「司が来た時はこんな感じじゃなかったように思う。もっと水気を含んだ足音がしていた」

「そっか。……俺、来た時のことはほとんど覚えてないんだよな……」


 社へ向かって歩いた記憶はあまりに朧気なので司は初めて道を歩くような気分だ。何しろ道の幅も覚えていなかった。司とユクミが並んで歩ける程度しかない事実は、なかなかに『らしい』感じだなと思って小さく笑う。

 草と土の匂いを嗅ぎながら進むうち、直線的な木組みの鳥居が少しずつ大きく見えてきた。鳥居の向こうへも道と草原は続いているが、きっとくぐった途端に別の場所へ出るはずだ。でなければここに鳥居があるはずはない。

 そう思ってユクミに確認してみると、この世界を作った彼女は「うん」とも「ううん」ともつかない曖昧な返事だけをして早足になった。小さな足跡が司を置いて前へ進んでいく。


「実際に潜って確かめてみろ、ってことか」


 揺れる白い尾を見ながら苦笑するうち、先に着いたユクミが鳥居の目の前で立ち止まる。少し遅れて司もユクミの横に並び、木組みの鳥居を見上げた。この先はユクミが作った世界から出る。もしかすると猿の隠邪と聡一に鉢合わせるかもしれない。

 念のため右手で刀印を作り、体内の呪力を集める。


「……じゃあ、行くぞ」


 ユクミにとも自分にともつかない調子で声をかけ、司はゆっくり鳥居の中へ足を踏み出した。



***



 何の違和感もないまま鳥居を潜り抜けるが、司の予想通り景色は一変した。


 灰色の空の代わりに広がるのは明けの空。そして、道と草原の代わりに現れたのは小さな公園ほどの場所。

 司はこの景色を知っている。塚の頂上だ。やはり戻ってきた。

 思うと同時に司は構えの姿勢を取る。辺りに隠邪や聡一の気配はないが、今回も猿の気配が強大すぎて認知できないだけかもしれない。そもそも夜が明ければ隠邪は出ないものだが、あの規格外の隠邪にもその常識が当てはまるのかどうか分からないのだ。


「……ユクミ。近くに何かの気配は感じるか?」

「いない。人も。隠邪も」

「そうか」


 ユクミが誰も居ないと判断しているのなら平気だろう。確かに、あれから五日も経っているのなら聡一たちがこの場にいなくても不思議ではない。安堵した司は構えを解く。

 だが、次の問題がある。隠邪と聡一はどこへ行ったのだろうか。


 司は今来た方向を見る。すぐ後ろにあるのは木製の鳥居で、その奥に鎮座している社は大きさこそ違えどユクミがいたものとよく似ている。もちろん中に娘の姿はなく、ただ鏡が置かれているだけだが。


(なんで似てるんだろう。ユクミの世界と何かしら関連があるのか?)


 考えてみれば司は「各家の当主に口承で伝わる」というこの社のことをほとんど知らない。もちろん、ユクミのいた世界のことも。

 しかし聡一は違う。納賀良ながら家の当主である彼は、佐夜子からこの社に関して詳しく話を聞いているはずだ。もしかするとその情報を元にして、聡一は隠邪と組んで何かをしようと考えているのかもしれない。


 小さく唸った司は社を見ながら、わずかな可能性に賭けて尋ねてみる。


「……なあ、ユクミ。ユクミはこの社について何か知らないか?」


 しかしユクミからの返事はない。


「ユクミ?」


 振り返ると、社に背を向けたユクミは司の三歩前で空を見上げていた。その姿を目にして司は微笑ましい気持ちになる。


 空は、冬らしく凛と澄んだ空気の中で夜明けの色合いだ。地平線に近い場所の濃いオレンジは上に上がるにつれて少しずつ色を薄くし、そこからくるりと変わって水色になる。そうして今度は徐々に濃くなり、まだ明けきらぬ西の紺碧へと続いていくのだ。なんとも色鮮やかで美しい光景は、何百年ものあいだ灰色の空を見続けたユクミが心奪われても無理もないものだと思わせる。


 果たして今のユクミはどのような顔をしているのか。好奇心から彼女の顔を覗き込んだ司は、意外な様相に驚く。

 ユクミの表情はまるで誰かを睨みつけるような、あるいは何かに挑むような。とてもとても、険しいものだった。

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