みえる彼らと浄化係

橘しづき

お隣さんと新しい仕事

第1話 顔も知らないお隣さん


 ベッドの上でごろりと寝転がり、ぼんやり白い天井を眺めていた。


 三年前に契約して始めた一人暮らしは随分慣れてきていて、いつの間にか物が増えてきてしまっている。ミニマリスト、という単語を最近知ったが、自分には程遠い存在だなと痛感している。可愛い写真たてを見つけるとつい購入してしまい、そのくせ飾りたい写真などあまりのないので、ただの置物と化している。


 こういう時、素敵な恋人でもいてくれれば、あの写真たてたちも出番だとばかりに輝いてくれるだろうに、あいにくそんな存在は今いない。


 右手にスマホを持ち、左手はセミロングの黒髪をくるくると指で巻いていた。


『……って、聞いてる? 遥!』


 友人の不機嫌そうな声がスマホから漏れてきて、慌てて返事を返した。


「ごめん! ぼうっとしてた! 新しいバイトに慣れなくて疲れててさ」


 素直に謝ると、同情した声で友人が励ましてくれる。


『あーまあ、大変だよねえ。さすがの遥も、会社の倒産までは救えなかったかあ』


「急に倒産だからね。まったくこっちのことも考えてほしいよ」


 私は大きなため息をついた。美和が励ますように言ってくる。


『でもまあ、焦らずいい所さがした方がいいよ。また急に倒産したりしても困るしさあ。とりあえずは短期のバイトで何とかなってるんでしょ?』


「余裕があるとは言えないけどね。いい所見つかるといいけどなあ」


 私はごろりと寝返りを打ちながらそう言った。


 事の始まりは二か月前のこと。勤めいた会社が、ある日突然倒産してしまった。


 それはもう本当に急なことで、いつものように出勤したら、会社中みんなが慌てたように動き回っていた。噂によるともうダメらしい、と誰かが教えてくれた。確かに経営は順調とは言えなかったが、それでもこんなに急に倒産してしまうなんて、誰が思っただろう。


 働き先を失ってしまった私は、再就職先を探すためにいろいろ頑張ってみたのだが、そうすぐにもいい所は見つからなかった。仕方ないので、とりあえずカフェのバイトを始めて食いつないでいる。ほかにも、一日単発のバイトなどでお金を稼ぐ日々。


 こんな展開は人生で初めての事だった。なぜなら、昔から私は『とても運がいい』人間だったからだ。


 小さなことで言えば、アタリつきアイスはしょっちゅう当たる。旅行に行けば絶対に晴れだし、テストのヤマもよく当たる。大きなものだと、普段乗っていたバスをたまたま乗り過ごしたら、大きな事故を起こしてた、なんてこともあった。受験も就職活動も、驚くほどあっさり決まり、この調子で順風満帆な人生を送るはずだった。これは友人にも有名は話で、倒産したと話をすると、『遥が勤めてるのに!?』と驚かれたほどだ。


 だから、こんな風に躓くのは初めて。でも悲観はしない、これまでラッキーな日々を送ってきたんだもん、神様だってたまには試練を与えたくなるでしょう。


 健康だし、会社が倒産するくらい、どうってことないと思ってる。ただ、ちょっと疲れているのは否めないけれど。


『遥のお母さんは心配してない?』


「あの人は楽観的だからねー。なんとかなるでしょ、ならなかったら帰ってくればいいんじゃない、ぐらいよ」


『あは、さすが井上家』


 自分の幸運な体質は遺伝らしく、母と弟も共通している。だからなのか、私、母、弟は基本楽観的だ。ちなみに父はごく普通の人で、むしろ心配性の部類に入るので、いつも胃を痛そうにしている。


 ちなみに、幸運体質だけではなく、不思議な物を見る能力も授かっている。それは黒いもやのようなものだ。時々しか見ないが、煙やキリとはまた違う、不思議な黒い空気を見ることがある。それはとてもよくないもので、近づかないように過ごしている。


 弟も同じように言っていた。だが母は、『あれはまき散らせる』と言っていたので、あの人は強すぎる。


「にしてもさあ、カフェのバイトだけど、めちゃくちゃ忙しくてさー目が回りそうなのー」


『遥が働いてるからじゃん? 今までそんなに繁盛してたの?』


「え、まじそういうこと? そういえば店長が、不思議そうにしてたわ……」


『さすがだねえー持ってるうー! 招き猫じゃん!』


「あれじゃない、私ってほら、石原さとみに似てるって言われるから勘違いした客が押し寄せ」


『一度も思ったことないから』


 やんややんやと、楽しい会話を重ねていると、隣から物音が聞こえた。これは玄関の扉が閉まる音だ。ちらりと時計を見上げてみると、時刻は二十二時を回っていた。


「あ、お隣さん帰ってきたな」


 つい言葉に出してしまった。


『お隣さん? ああ、前見た時、怪我してそうだったっていう、あの?』


 美和の話に頷いた。この部屋は角部屋なので、お隣さんは右隣一軒だけ。よくある一人暮らし用のアパートで、特に不満もなく暮らしている。


 三年前に越してきた時、隣に挨拶でも行こうかと思っていたけれど、心配性の父が止めた。『あえて女性の一人暮らしだとばらさなくていい、単身用のアパートなら挨拶なんか今時はしない』と言われたので、それもそうかと思い、特に何も言わなかった。


 最近までお隣とは顔を合わせたことはなかった。三年も経っているのになぜ? と不思議がられるかもしれないが、単純に生活リズムが違うようだった。それに、どうやらお隣さんは家に帰ってこない日も多いらしい。


 今まで普通の企業に勤めていた私は、朝早く出勤して夜帰宅するという、規則正しい生活を送っていた。だが、お隣は朝に家を出る様子は見られないし、夜中に帰宅することも多い。数日気配がしないことも多々ある。時折電話でもしているのか声が漏れてくることがあってどうやら男性らしい、とはわかっているものの、それだけ。おおかた彼女の所によく泊り込んだりしているのだろう。


 だがそんなお隣と、先日初めて顔を合わせることになった。


 朝早く起きる必要がなくなった自分は、最近夜更かしもよくするようになっている。遅くまで求人案内を見ていたところ、夜中の二時近くに、外から足音がしたのだ。


 普段なら、一人分の足音なんて気づかない。でもその日やけに耳についてしまったのは、その足音が何かを引きずるような音も連れていたからだ。


 本当に遅いスピードで、とん、ずる とん、ずるっと響かせている。恐らく、片足を引きずっているのだ。


 あまりにゆっくりな音だったので気になってしまった。私はなんとなく立ち上がり、玄関まで歩いてそっと扉を開けた。少しの隙間から外を覗いてみると、二軒隣りぐらいに、一人の男がいた。


 真っ黒なパーカーに、フードを深く被っている。背はまずまず高い。細身の体は、今にも倒れそうなぐらい背中を丸めており、俯いているせいもあって顔はまるで見えなかった。


 ふらふらとした様子で、右足を出したかと思うと、次に左足を引きずった。怪我をしている、とはまた違う気がした。まるで荷物を運んでるかのような引きずり方だったのだ。


 痛がるそぶりも何もなく、ただゆっくりゆっくりこちらに歩いてくる様子にぞっとした。……いや、私を震え上がらせたのは、彼の動作だけではない。


 体全体に、あの黒いもやを身にまとっていたからだ。


 慌てて扉を閉めた。


 勝手に覗いて勢いよく扉を閉めたなんて、感じが悪いことはわかっていた。でも咄嗟にそうしてしまったのだ。


 黒いもやは、基本的に場所や物にまとわりついていることが多く、人の周辺にいることはあまり見かけない。時々見たこともあるが、ほんの少し背負っているぐらいで、さっきの男の人ほど大量にもやが覆っているのは、初めて見たのだ。


 体を覆いつくすぐらいだった。あの人、大丈夫なんだろうか。


 少しして、隣の家のカギを開ける音がしたので、会ったことがないお隣さんだと判明した。部屋に入ってからは静寂が流れ、そのあとは何も異変はなかった。数日後、外出する音を聞いたので、彼は無事だということもわかっている。

 

 とにかく異様な光景だった。黒いもやも、足を引きずりながら俯いて歩く様も。

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