第6話 家族の幸せは

 午前中、戸倉弘子とくらひろこは家事を一通り済ませ、自宅のダイニングで、同居している息子のあきらにもらった数枚のコピー用紙を前に、頭を抱えていた。


 昔はこういう時にはチラシの裏などを使っていたものだが、昨今はすっかり裏が無地のチラシは少なくなった。不景気ゆえの経費削減の一環かも知れないと、晶から聞いたことがある。


 晶のお嫁さん、香苗かなえちゃんは今パートに出ている。不妊治療を始めると決めた時、それまで積み重ねて来た看護師のキャリアをあっさりと捨て、時間の融通が利きやすいシフト制のパートを始めたのだ。


 弘子は不妊治療の詳細は判らないが、香苗ちゃんいわく、治療のタイミングなどで急遽仕事を休むことになったりすることもあるのだそうだ。なので正社員だと職場に迷惑を掛けてしまったりと、大変とのこと。


 看護師はただでさえ激務で、その上夜勤もある。不妊治療をしながら勤めるのは難しいと判断したそうだ。香苗ちゃんが決めたことなのだから弘子は反対などはしない、と言うかできないが、シングルマザーで苦労して来たこともあり、キャリアを手放したのはもったいないと思ってしまうのだ。これも老婆心なのだろうか。


 弘子は行きつけのたこ焼き屋「さかなし」の女店主、渚沙なぎさちゃんがすすめてくれた通り、香苗ちゃんに手紙を書こうとしていた。コピー用紙に下書きをしてから、便箋びんせんに清書するつもりだ。


 晶は次男で、長男は離婚した元夫のもとで暮らしている。元姑が嫌がるので連絡などは取り合っていないが、多分愛されて立派に成長しているだろう。何より金銭的な心配が無かったはずなので、晶よりも手厚い教育を受けられたのだと思う。


 弘子もできる限り晶に不自由を感じて欲しく無いと、がむしゃらに働いた。公的支援を受け、元夫からのいくばくかの養育費もあったので、どうにか高校までは自力で出すことができた。


 晶には医療関係の仕事に就きたいという夢があったので、専門学校に進学した。だがその高額な学費を捻出するのが弘子には難しく、一部を奨学金に頼ることになった。


 本当なら、全額工面してあげたかった。それでも弘子の手では難しかった。元夫に頼ろうとも思ったのだが、長男の養育を理由に養育費は充分では無く、弘子も長男のためと言われると躊躇ってしまったのだ。もし訴えていても元姑に反対されただろう。


 それでも晶は無事に学校を卒業し、放射線技師の国家資格を取得して、大阪市内の総合病院に就職した。そうして真面目に働きながら奨学金を返済して。


 同じ病院に勤めていた香苗ちゃんと出会ったのだ。


 香苗ちゃんは明るくてはきはきした、とても気持ちの良いお嬢さんだった。晶に初めて引き会わされた時、香苗ちゃんの物怖じしない元気な挨拶と明るい笑顔は、弘子に良い印象を与えた。


 今は女性が家を仕切る時代では無い。共働きならなおさらである。晶の年収で夫婦ふたり暮らして行くことは可能だが、香苗ちゃんは看護師の仕事を続けることにした。将来子どもが生まれたりしたら、お金はあればあるだけ安心だからである。


 こうして香苗ちゃんと晶は、思いやりを持ち支え合って暮らして行くのだろうと、弘子は安堵していた。香苗ちゃんのご両親も良さそうな方たちだった。明るいお母さまと穏やかなお父さま。香苗ちゃんの性格はお母さま譲りなのだなと思ったものだ。晶は良い相手に巡り会えたと、弘子は誇らしくなった。


 そしてふたりは、晶が結婚するまで親子ふたりで暮らしていたあびこのアパートから近い場所に新居を構えた。晶は奨学金を返済するためにあまり貯金が無かったので、まずは賃貸から始めるとのことだった。ゆくゆくは戸建てなり分譲マンションなりが欲しいと言った。


 ちなみに晶の経済状態がその有様だったから、結婚式に披露宴、新生活のための費用は香苗ちゃんの貯金とご両親からの援助で賄わさせてもらった。事情が事情とは言え、本当にありがたいことである。


 そして少しして、弘子に晶と香苗ちゃんから同居の打診が来たのだ。


 弘子は迷った。弘子はもちろん香苗ちゃんをいびるつもりなんて無い。その苦痛は実際に受けたことがある弘子が誰よりも知っている。香苗ちゃんは晶の大事なお嫁さんなのである。大事にこそすれ、嫌な思いをさせるなんてあり得なかった。だから程よい距離を保とうとしていた。


 だが他人同士が一緒に暮らすのは大変である。生活リズムも家事などのやり方も違うだろうから、大なり小なり齟齬そごが生じるだろうと容易に予想できる。


 他人同士と言うなら夫婦もそうだが、最小単位でお互いに愛情があるから乗り越えられるのである。そこにどちらかの親などが混じり、価値観が増えてしまうと、まとまるものもまとまらなくなる。


 弘子は自分の息子である晶はもちろん、お嫁さんに来てくれた香苗ちゃんに幸せになって欲しかった。そのためには自分は不要である。弘子には援助できる土台も無いのだ。何より香苗ちゃんにいらない気を使って欲しく無かった。


 だから断ることにしたのだが、晶も香苗ちゃんも熱心だった。そこで何かあったら、つまりは香苗ちゃんが嫌な思いをする様なことがあれば、すぐにでも別居するという条件で、同居に踏み込んだのだ。


 いざ一緒に暮らすと、思った以上に快適で弘子は驚いた。長年一緒だった晶はともかく、香苗ちゃんは人との距離を取るのが絶妙に巧かったのだ。


 香苗ちゃん本人が意識しているかどうかは判らないが、それは香苗ちゃんの素晴らしい長所である。少しばかり思い込みが強いところがあって、はらはらすることもあるが、弘子はこの心地の良い生活を享受きょうじゅしていた。


 そして晶と香苗ちゃんは妊活にも励んでいた。香苗ちゃんは子どもが好きで、早く授かりたかった様だ。看護師と言う仕事は今でも女性が多いからか、妊娠や子育て期間の手当てが厚いのだそうだ。もし勤めていた病院を退職することになっても、看護師不足と言う背景も手伝って、再就職しやすいと聞いた。


 だが2年経っても懐妊かいにんの気配が無かった。そこで晶と香苗ちゃんは病院で検査を受けた。だがどちらにも全く原因が見つからなかったそうだ。ふたりとも健康で、子を授かることができる身体だったのだ。


 そこで夫婦は話し合った結果、不妊治療を受けることにしたのである。晶はそこまで積極的では無かったが、香苗ちゃんが譲らなかったのである。


 弘子としても、孫の誕生は喜ばしいものである。子を持つ親として、孫を抱くことは夢のひとつなのかも知れない。だがまだどこにも存在しない孫よりも、今目の前にいる息子とお嫁さんの方が大事である。


 弘子には不妊治療の経験は無いが、特に女性側にかなりの負担をいるものだと聞いたことがある。弘子は香苗ちゃんに無理をして欲しく無かった。


 確かに賑やかな家庭への憧れが無いわけでは無い。ずっと親ひとり子ひとりだったのだから。だがそれは誰かを犠牲にして作るものでは無い。弘子とて女性で人の親である。子どもが欲しいと言う香苗ちゃんの気持ちは分かるつもりだが、辛い気持ちを持ってまで叶えるものでは無い。


 ……そんなことは、妊娠に苦労が無かった弘子だから簡単に言えることなのかも知れない。それを思うと、本当の意味で弘子は香苗ちゃんに寄り添えていないのだろう。


 だがキャリアを手放し、子どもを授かるためにと動き出した香苗ちゃんは、明らかに溜め息が増えた。弘子に、そしてきっと晶にも愚痴ぐちひとつ溢さず、大丈夫と言いながら産婦人科に通う香苗ちゃんを不憫ふびんに思う様になってしまっていた。


 こんな考え方は傲慢ごうまんなのだろうと思うのだが、弘子が大事にすべきは、今ある家族なのである。


 子どもを望む人に諦めろと言うのは酷である。だがまだ若いのだから焦ることなんて無い。今は少し落ち着いてゆっくりすれば、と言う気持ちである。


 香苗ちゃんが明るく笑っているのが、晶と弘子の幸せなのである。子どもがいない楽しさだって絶対にある。子どもにとらわれることなんて無い。


 弘子はただ、香苗ちゃんに辛い思いをして欲しく無いだけなのである。


 ……そうやな。率直にそう書いてみよう。


 弘子はペンを持ち直し、コピー用紙に思うがままに滑らせた。

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