第51話 籠の鳥
ものすごく暇だ、と
正確に言うと天井ではなく、天蓋を仰いでいる。豪奢な
皇太后に捕まってから、一月が過ぎた。
捕まるという表現は今の曄琳にぴったりの表現だ。まさに軟禁、鳥籠の鳥というやつである。
皇太后にあてがわれた曄琳の宮は、沈花宮という。名前からして非常に嫌味だ。そして必要なときに皇太后に呼び出され、やれあの男の話を盗み聞け、やれあの官人の動向を探れと言われ。しかも大体が宴席の場であるため、酒の入った面倒な男の相手をせねばならず、ほとほと嫌気がさしていた。
宮妓は皇帝のお抱え楽師であったため、あからさまないたずらはなかった。が、庶民あがりの長公主ともなると、相手も正統な皇家ほど身構えずに済むのか、馴れ馴れしい態度を取られることもしばしば。殴ってやろうかと拳を袖の中で握ることは日常茶飯事だった。
曄琳は近づいてきた足音に、のろとろと身体を起こす。
「
紅琳というのは、長公主としての曄琳の名だ。この紅い目から、自然と呼ばれるようになった。
何名もの女官が食膳を持って入室してくる。淡々と並べられていく豪勢な食事。品数など十を優に超えている。皆で食べればきっと美味しいだろうに、と思ってしまう。
曄琳の世話を受け持つ筆頭女官がいつものように一歩前へ出る。
「本日の献立は――」
朗々と読み上げられる内容は、半分ほどしか理解できない。宮廷料理は庶民には縁遠い。何を何で蒸して、などわかるわけがない。
一通りの流れが終わると、曄琳はいつものように笑顔を作る。
「ありがとうございます。後でゆっくり食べるので、皆さんはどうぞ下がってください」
人に見られながら食べるというのはどうにも慣れない。それにこんなに立派な食事、ひとりで食べろという方が無理がある。
業務に忠実な女官はぴくりと眉を動かしはしたが表情は変えない。準備を終えると毒見役を残してすみやかに退出していく。
(教坊の食事の方がおいしかったなぁ)
箸を取るが、食欲はない。まず沈花宮から一歩も出れない時点で、腹が減る訳がない。飼い殺しにされている家畜はきっとこんな気分なんだろう。
そういえば、この宮に幽閉される直前に
碧鈴はその頑張りを認められ、場の雰囲気は悪くなかったとか。
四華の儀は顔見せの意味も強い。結局のところ、今後妃を左右するのは皇帝の寵愛だ。見事淳良の心を射止めれば、碧鈴にも可能性はある。老師を勤めた身としては応援したくもなる。碧鈴にもいつか会えればと思う。
――と、
――本当に変わった方。
――呪い子だって。
――あの
――紅い目が怖いわ。
いつものことだ。ここが離宮ということもあり、周囲には耳を妨げる騒音がない。こういった陰口は風に乗ってよく聞こえてきた。
今の朝廷がどうなっているのか曄琳にはわからない。情報が少なすぎるのだ。女官らは陰口は叩いても、それ以上の有益な話は沈花宮で話さない。どんどんとこの小さな宮の中に取り残されていく気がして、たまに恐ろしくなる。
「あのぉ、紅琳様。お召し上がりにならないのですか……?」
毒見役の女官がおずおずと切り出してくるも、曄琳は力なく微笑む。取り繕うのも疲れてきた。本来自分はこんなに愛想の良い人間じゃない。汚い言葉も使うし、足だって平気で投げ出す。近日中に絶対本性を出してやろうと心の中で誓う。
「私はあまりお腹が空いていないので、もしよろしければ、どうぞ代わりに召し上がってください」
「い、いいんですか……!」
目を輝かして食膳の前にすり寄ってきた女官。時折顔を合わせ、時折こうして食事を進めてみるとだんだんと打ち解けてきて、ぽつぽつと世間話を落としていってくれるようになった。貴重な外の情報源だ。
先の女官達はおそらく皇太后より『何も言うな』と命を受けている。業務に忠実に、余計なことは何も言わない。対してこの毒見役は殿中省管轄、皇家専門の
「最近、外で変わったことはありましたか?」
曄琳が問うと、毒見役は米粒をつけながら首を傾げ「特にありませんねぇ」と零す。
「何か大きな事件があっただとか、面白い話だとか」
「うーん……」
「……いっそ噂話とかでもいいんですけど」
「ううーん……」
うん駄目だ、今日は何もなさそう。
諦めて曄琳も箸を動かそうとしたとき、あっと声が上がった。
「一つございます!」
「なんでしょう」
「紅琳様の縁組のお話です!」
ぶふっと咽せた。
縁組。つまり――。
「こ、輿入れ……?」
「はい!」
「ちなみにお相手は」
「わたしが聞いたのは、
右僕射――尚書省次官、いや実質の長官か。多分皇太后派の人間なのだろう。
「皇太后様が他にも色々とお話を持ちかけてらっしゃるそうですよ! 殿方との縁組、素敵ですねぇ」
毒見役の夢見がちな呟きは置いておいて。
やはりあの人の企みだ。降嫁させて、いよいよ曄琳の自由を奪う気なのだろう。西方や従属国へ嫁に出されるより随分マシだが、それでも嫌なものは嫌だ。
(今度こそ脱走したいところだけど、皇太后に負けるのは癪だし、淳良の行く末はもっと気になる)
諦めて嫁に行くか――曄琳は箸を咥えたまま、考える。
見ず知らずの男のもとへ自分が嫁ぐ。手が触れることもあるだろう。いや、それ以上だってあるに決まっている。
知らぬ男に抱き寄せられ、口でも吸われる己を想像して――ぞぞぞと背筋に悪寒が走った。
無理だ、絶っ対に無理。多分泣く。
曄琳は箸を置いて吐息する。
抱き寄せられる姿に、どうしてもありし日の光景が重なって――心が締め付けられるようだ。
でも、と叱咤する。
やれと言われればやる。やれるだけの気合は持ち合わせているつもりだ。それが皇家の女の勤めなのだから。
今までの生き方が自由すぎた。今の不自由さがきっと、本来あるべき曄琳の生き方なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、夕餉を終えて。
そして、翌朝になって己の縁組が正式に決まったという話を聞き――もう一つ飛び込んできた内容に、曄琳は目をひん剥くことになる。
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