第49話 駆け引き




 


「たった一度。まだ寵愛を得る前に、主上が気まぐれに手を出された下級の妃。それが櫻花インファ妃だった。あのときはまだ櫻花という名も頂いていなかったから、シェン妃と呼ばれていたけれど」


 ロンの表情は会ったときと何ひとつ変わらず穏やかだ。しかし、口調は苛烈さを増す。


「彼女が身籠ったと知った主上は、とても驚かれていた。当時後宮を取り仕切っていた私に、適当な宮をあつらえるよう仰ったわ。特に思い入れもない下級妃、身重の身体に無理はさせぬよう住まいだけは与えて、時折顔は出してやろう。主上はその程度のお考えだったのよ……初めはね」


 でも、と続く言葉の先に朧の全てが詰まっていた。


「すぐに主上は彼女に夢中になった。夜伽もなく、腹が膨れた、ただ語らうだけの関係の彼女に。主上はあっという間に彼女を貴妃へと押し上げて、他の妃のもとへと通うこともなく、ただ……ただ会うためだけに、あの人のもとへ毎夜毎夜足を運んでいた」


 曄琳イェリンが口を挟む間もなかった。朧の目が曄琳を射抜く。


「私の言いたかったことはわかるかしら。櫻花妃は、主上の特別だった。あなたを授かったことを含めて、全てが特別な人だった」

「だから…………だから、追い出したと?」

「追い出したのではないと、先程言ったばかりよ」

「でも結果としてあなたは、母がいなくなった後もなお、母の面影を塗りつぶした!」


 曄琳は声を荒げる。

 朧の心情は、理解はできるが納得はしない。同情もしない。ひとりに向けられることはないと思っていた愛が、突然現れた女に注がれる――後宮という場所にあって、それがどれほど苦しく辛いことであったか。だとしても、それが母を傷つけていい理由にはならない。


「母のありし日の姿は、あなたの虚言で潰された! 先帝の心に残っていたはずの思い出も、あなたの嘘で別のものに書き換えられた! こんなに残酷なことはないでしょう!?」


 朧のやったことはあまりに利己的で。曄琳は震える肩を怒らせる。

 しかし、朧は動じることもなく微笑む。


「なら、あなたのその紅い目のせいだとは思わない?」

「………………は」

「その嘘の始まりは? あなたが紅い目をして生まれてきたから、楚蘭は出ていく決意をした。あなたが普通の瞳をして生まれてきていれば、きっとこんな逃亡劇は起こらなかった。私がどうこうするきっかけは、あなたの目が始まりよ」

「なにを」

「全てのきっかけはあなたよ、曄琳」

 

 何を言う。知っている。そんなことは百も承知だ。

 一体何度考えたことか。もし普通の瞳なら、紅くなければ、そうすれば母は、己は、もしかしたら、と。


 しかし――それをこの人に断じてほしくない。曄琳は拳を握る。この女に踏みにじられることだけは許せない。

 出会ったときに普通の女性に見えたが、今は違う。この女はあまりに傲慢で、己のことしか考えていない。 

 曄琳は顎を引き、壇上の女を見据える。


「私はこの目を誇りに思っています」


 確かに目を見張る気配があった。曄琳はまくしたてる。

 

「母が自慢だと言ったこの目を。母以外にも、この目を愛してくれた、受け入れてくれた人を否定するようなことを私はしません」


 王城へ来てたくさんの人に大切にしてもらった。目を知ってもなお、抱きしめてくれた人がいたのだ。

 

「随分強気ね?」


 朧が試すように囁く。しかしそんな揺さぶりは無意味だ。曄琳はにやりと口角を上げる。

 

「そうですよ。母と先帝の愛の結実が私。なら……私が目を否定することで、あなたは救われるんでしょう? そんなこと、あなたの前で死んでもするもんですか」

「……」

楚蘭チュランの娘は、かわいそうな娘なんかじゃない。あなたの思惑には乗らないわ」


 楚蘭は曄琳の目に後悔などしていなかったのだから。その一点だけは穢されたくない。勝手に決めつけるなよと、曄琳は刺すような視線を向ける。


  

 ――朧の口から、小さく息が漏れた。そして。


「っ、あははは! 素敵! 気に入ったわ!」


 声を立てて笑い出した。


 なぜ笑う。曄琳は呆気にとられて反応が遅れる。朧はひとしきり笑い、眦の涙を拭うとうっとりと曄琳を見下ろす。


「簡単に認めるようなら哀れな娘よと切り捨てようと思っていたんだけど……気が変わったわ」


 これは喜んでもいい流れだろうか。


「あなたにはいいがあるそうね? ねえ、曄琳。取引しましょう」


 ……前言撤回、よくない流れだ。


「あなたが長公主として宮廷に戻るなら、楚蘭の名誉を回復するわ」


 何を提案されても突っぱねる。そのつもりだったのに――体温がすうと下がった気がした。

 

「……どういう意味です」

「そのままの意味よ。あなたが戻ってきてくれるなら、私があなたを認めるわ」


 それはつまり――。

 

「私が長公主として認められれば……私は正当な皇家の血を引く人間となり、母が不貞をしたという話は嘘になる……?」

「頭が回るのね。賢い子は好きよ」

「あなたが私を認めたとして周りは信じますか?」

「見くびらないでちょうだい。私はそれができるのよ」

「過去の自身の行いが間違いだったと……公言できるのですか?」

「ええ、あなたにはそれだけの価値があるわ」


 どこかに穴がないか――しかし、いくら探っても逃げ道が見つからない。

 

 この提案を受け入れるか、跳ね除けるか。

 二つにひとつなのだ。


(なら、私は……)


 どちらかしかないなら、答えは決まっている。

 利用されるのだとわかっていても、これしかないのであれば。曄琳はゆっくりと口を開いた。


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