第27話 蟲
*虫注意。
気づけば
「貧民街へ行く件ですが――」
暁明が小声で切り出す。声を出せないという設定に配慮してか、人気がなくとも大きな声では喋らないらしい。
「満月の日で。この日ばかりは後宮も門を閉じますから、外に出やすいでしょう」
月に一度、満月は宮廷全体で業務を止める。動いている部署は当然あるが、古来から休むというのが
「満月というと……五後日」
故に、月の満ち欠けは把握している。業務に関わってくるからだ。
「はい。急ですか?」
「いえ、早い方が私としても嬉しいので」
曄琳はようやく
「どなたが付き添いで来られるのでしょう? 私ひとりで野放しにするってことはないですよね」
「もちろん。
青芭門と聞くと、一回目の失敗を思い出す。
苦虫を噛み潰したような曄琳の表情に、暁明の双眸が弓なりに細められる。
「嫌なら場所を変えましょうか」
「結構です! 食時に青芭門。わかりました」
意地の悪いことをする。曄琳がつんと前を向くと、忍ぶ気のない笑い声が横から聞こえた。
姚人と一緒となると喧しい道中になりそうだ。そして、もしかしたら途中で彼を巻いて逃げ切れるかもしれないという淡い期待も浮かぶ。屈強な男についてこられるより、文官小姓の姚人の方が逃げる分には楽そうである。
曄琳の気分が少し浮上する。最近は碧鈴のことで占められていた頭が、脱走計画を練ろうと動き出す。また機会が巡ってくるとは思ってもみなかった。緩みそうになる頬を擦っていると、耳の奥で何かが引っかかるような音がした。
カリカリカリカリと。
続けて小さな音が耳の中をかき回す。
「ひぐっ」
ぞぞぞと背中に悪寒が走り、曄琳は耳を押さえて立ち止まった。
「どうしました?」
そんな曄琳に暁明が訝しげな顔をする。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。
どう例えたらいいのか。小さな陶の器の中を、何かが大量に引っ掻き回し続けている。
「ひいぃぃぃぃ!?」
「曄琳?」
「嫌な音! これ嫌いです、気持ち悪っ……!」
これまでの人生、あるゆる音を聞いてきた。
その中で一番可能性のあるものが頭に浮かび、肌が粟立った。
「虫! 虫です!」
曄琳はこの世で一番虫が嫌いなのだ。
曄琳は耳を押さえたまま周囲を見渡し音の出処を探る。本能が全力で場所を知ることを拒否しているが、それよりこの音を止めたい気持ちが勝った。
「虫……?」
「あっち、あっちです!」
暁明の腕を取ると、碧鈴の房室に入る。さっきより音が近い。ぞわぞわと震えが走る。
「陶器の壺の中だと思うんです。蓋は……多分紙です。そこに、こう……みっちり! たくさん詰まってるんです!!」
房室を見渡す。音源は――これだ。膝下ほどの高さはある赤茶の
畳んだ衣類が詰まった櫃の中、一番奥底まで漁って暁明と覗き込むと、両手に収まる程度の白い陶器の壺があった。思った通り、蓋は紙だ。薄紙を被せ、竹紐で縛って開かぬよう蓋がされている。
音は今もそこから鳴り続けているが、暁明にはさほど聞こえないようで、確認するように曄琳の顔を覗き込んでくる。
「これで合ってますか? というよりも、大丈夫ですか?」
顔色の悪い曄琳は無言で一度首を縦に振り、その後遅れて首を横に振ると、暁明の背後に隠れた。
――合っているが、大丈夫ではない。
盾にされた暁明は、意を汲み取ったのか肩をすくめると壺に向き直った。
ゆっくりと壺の蓋を取った暁明が、中を確認するやいなや、慌てた様子で蓋を被せた。
曄琳には見ずとも中身がわかっている。
大量の
毒蟲がみっちりと詰まっているのだ。
狭い容器の中、外へ出せと暴れる無数の脚の音が鼓膜を搔き回し、曄琳は青褪める。
「これは、一体」
「ひぇ、お願いですから近づけないで……」
曄琳が情けない声を出して尻餅をつき、暁明の腰に縋る。膝をついたままの暁明は、呆気に取られたように平素と違う曄琳を見下ろす。
「いつもの
「いいじゃないですか! 本当に嫌なんですよ!」
見た目でも、毒があるからでもなく、音が嫌なのだ。
詳細を語るのもおぞましい。奴らの立てる音全て、身体が受け付けない。
「わかりました。ですがこれを外へ持ち出すので、一度離れてください」
無理やりに引き剥がさないのは暁明なりの思慮なのだろう、曄琳は尻を床につけたまま壁まで後退すると、耳を塞いで出来る限り音を遮断する。
暁明はそれを珍獣を見るかのような顔で見やり、房室の外へ出た。
完全に暁明の姿が見えなくなると、曄琳は頬を
その中の見知った顔が曄琳の姿を認めて破顔した。
「あっ! 宮妓さーん!」
姚人のよく通る高めの声に、暁明は指を唇に当て静かにするよう促す。そして手早く
「勤務中は静かになさい。姚人、これを先に持ち帰っておいてください」
「なんですか、これ。菓子の壺?」
恐れ知らずの姚人が壺に顔を近づけるのを見て、曄琳はひぃとまた声を漏らした。
「中は見ない方が身の為ですよ」
「うっ……わかりました」
なんとなく察したのか、姚人は顔から思い切り壷を引き離し、何度も頷く。
暁明の部下に引き渡された壺は、殿中省の殿舎に持ち帰られるようで、神妙な顔になった姚人らとともに速やかに姿を消した。
曄琳は横に立つ
「姚人さんって、少監の女官姿を知ってたんですか」
「当然でしょう。業務中に主人がふらりと姿を消せば、彼らは探すに決まっています」
「でも、私にこの秘密を知ってる人間について話した時に、名前は……」
「ああ、そういうことですか。彼らの名を上げるには及ばない。私の部下なのですから」
その横顔は言い切るに足る自負に満ちている。
(彼らは絶対に少監を裏切らない……それだけ信の厚い人間を部下に集めてるのか)
暁明は若い。ここに至るまで官人として彼が積み上げてきたものを感じ、曄琳は素直に彼へ敬意を抱いた。
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