第15話 いざ脱走
――これはなかなか壮観な眺めだ。
宴の舞台に上がると目の前には諸官数百に皇帝、並びに皇太后陛下から皇家一門が並び揃う。
重苦しい雰囲気ではないにしても、独特の緊張感に肌がぴりぴりと痺れた。宴が始まる前はさざ波のようだと思っていた観客の話し声も、最早大勢の人の声が重なり過ぎて大風のようだ。
宮妓の舞で宴の幕が上がる。だからこそ、観客の期待をひしひしと感じる。取り囲む桟敷席から刺さる数千の眼に、身体を貫かれるような錯覚すら覚えた。
見上げた先の高台には御簾が下り、大勢の侍従が控えていた。片目な上に遠すぎてよく見えなかったが、
舞台に上がった舞姫が布を翻して華麗に舞い踊り始めると、曄琳ら
松明の爆ぜる音。
内人の舞踏の足音。
観客の息を呑む声。
薄闇の空に吸い込まれていく音の数々、なんと華やかで美しいことか。
曄琳は七弦琴を弾きながら、自然と脈が早くなるのを感じた。
(――でも)
「あの幼い皇帝が」「所詮」「皇太后様」「結局は
(私には、この世界は、多分合わない)
曄琳は揺れる音の中で、耳を揺らし続ける噂話や謗りに耳を塞ぎたくなる。
繊細で、この世のものとも思えない綺羅びやかな世界の裏は、こんなにも人間の思惑で満ちている。
(母様はこの世界から私を守ろうとしてくれたんだ)
人が隠そうと声を潜める話ですら嫌でも聞こえてしまう曄琳にとって、ここは煩すぎた。
――早く静かな場所へ行きたい。
曄琳は垂れてきた髪を払って琴に向き直った。
◇◇◇
演目が終わり、お疲れ様ぁと宮妓同士で肩を叩き合う集団からすり抜けて、曄琳はひとり大広場の外れにやってきた。天幕を張ったそこは、宮妓の荷を纏めて置く場所だ。
曄琳は痛む頭に呻き、こめかみを押して誤魔化す。
あれだけの人数の声をずっと聞き続けていたら、頭がおかしくなってしまう。
明滅する視界をやり過ごして天幕を潜る。
「えーと私の荷、私の荷……あった」
琴を仕舞う箱から荷詰めした袋を取り出す。背中に背負える程度の大きさに纏めたこともあり、嵩張らず機動重視で動きやすい。
(よし、後は門を潜るだけだ)
このまま目の前の
曄琳は丁寧に結い上げられていた髪を解き、わざと下の方で崩して結んだ。そして、持ってきていた普段着の上衣を背負った荷ごと覆うようにして羽織る。
これで荷運びの下女くらいには化けることができただろう。
準備万端、いざ出陣と意気込む曄琳だが、懐から漂う
一応でも見ておいた方がいいだろう。懐から取り出した
「話があります、
流暢な筆使いで綴られた端的な内容に、曄琳は眉根を寄せた。
(話って何だろう。いや待って、それ以前に――)
青延門は曄琳の脱出先の門だ。もし暁明と鉢合わせした場合、外に出ることは絶望的となる。
(青延門が使えないとなると、東側に抜ける門はその隣の
門と門の距離はおよそ一里。下調べでは、間にどこかの官庁の建物が入っていたので、
そういえばもうそろそろ昼九つ――暁明の指定している時間だ。早く逃げなくてはと曄琳は気合を入れる。
通用口の出入りを木陰から観察する。
この時間帯に門を出入りするのは、端女か宦官くらいしかいない。高官は軒並み宴に駆り出され、その部下らは業務時間で大半が皇城の庁舎に籠もっている。宴のために走り回る下っ端だけが、中と外をあちこち移動しているというわけだ。
(おっ、荷運び発見)
荷車を押して通用口を通ろうとする下働きの男女の群れが門の近くまで来ていた。曄琳は素早く近寄ると、最後尾に何食わぬ顔をしてくっついた。
いざ扉を潜る段になると、先頭の男が多少衛士とやり取りをした程度で大して引き止められる様子もない。緊張しながら曄琳がいそいそと横を抜けるときも、ちらりとこちらを一瞥するだけだった。
(思ったよりいけるな)
曄琳は扉を抜けて衛士の視界から外れたのを確認し、しめしめと荷運びの一団から離れた。
今の時間は門内へ入る人間の方が厳しく取り締まられるのだろう。一番厳しい朱天門を通り抜けられれば、後は消化試合だ。予想以上の楽さに曄琳は足取り軽く次の青芭門へと向かった。
いくつか角を曲がり、通り過ぎる官吏に頭を下げてやり過ごし、青延門には近寄らないよう遠回りをして、ようやく青芭門が見えるところまでたどり着いた。
青芭門は東側の一番端、南東に位置する門になる。都の中心からは外れた場所に出ることもあり、人の出入りも少ないと聞く。今も見た限り、衛士も一人しか立っていない。
「……よし、行こう」
曄琳は気合を入れると、眼帯を外して左目を髪で覆い隠す。眼帯は悪目立ちする。せめて門を出るまでは外しておいた方がいい。
そろりと門に近づく。青芭門の横、通用口を俯きがちに通り過ぎる。
通用口の横に立つ甲冑を着込んだ衛士がちらりと曄琳を見るが、特に何も言ってこない。肩透かしを食らった気分だ。
すんなり進むのは嬉しいが、何だか変だ。
当然あると思っていた木札の改めもない。さすがに外に出るときには軽く検閲が入るはずだ。
門を潜りかけた曄琳の足が止まる。嫌な予感がする。引き返そうと後ろを向いた瞬間、門の陰から小さな音がした。息を潜めていたのか、存在に全く気づかなかった。
その布ずれの音に金属音が交じった――それが剣先が地面を擦る音だとすぐに気づいた曄琳は、ひゅっと息を呑んだ。
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