第5話 脱走の機会?
明るい場所に出たことで、女装宦官は追ってこなくなった。一息ついたのも束の間、
紅い左目が剥き出しなのだ。
「とりあえず、髪で隠すしかないか」
悩んだ末、髪をボサボサにすることで目を隠し、俯きがちに女官の下へ報告に向かうことにした。
宮妓ごときに、と剣呑な目をしていた詰所の女官だったが、曄琳のあまりに悲壮感漂う姿に皆が息を呑んだ。そして、なんて酷な仕事を頼んでしまったのだろうと、涙ながらに礼まで言う始末である。さすがに曄琳の良心も痛んだが、本当の事は言うに言えない。
何もいなかったと伝えたにも関わらず、謝礼の上に感謝の気持ちと言われて多めに謝礼を握らされてしまった。
「申し訳ない気もするけど……ま、貰えるものは貰っておこう」
帰り道の途中で手渡された口止め料とやらの袋を開けてみる。すると、出てきたのはまさかの
外に出て換金すれば、これはこれで相当な額になる。これなら引き受けた甲斐もあったというものだ。
曄琳はにんまりすると、朝焼けに照らされる内教坊の門を潜り抜けたのだった。
◇◇◇
女装宦官の衝撃も日々薄れてきた、数日後。
内教坊から居住区の雑居舎に渡る回廊で、茗が曄琳を呼び止めた。
「
曄琳は脇に抱えていた譜を胸に抱き直し、足を止めた。夕餉まで時間があり、譜の整理をしようと思っていたところであった。
曄琳の左目は、眼帯がないため手持ちの包帯を巻いて隠していた。これでは負傷兵のような見た目だが、正規の眼帯は月末の衣類の配給まで待つしかない。
欲しいと思ったときに物の手配がすぐできないのも、宮中ならではの不便さである。
「はい、なんでしょう」
「
天長節――皇帝の誕生した日を祝う行事で、今月末に外廷でそれはそれは盛大に祝うと聞いていた。
一体何かと続きを待っていた曄琳の肩を、茗が勢いよく叩いた。
「おめでとう! 琴の人員が足りないから、小曄も補填で舞台に上がることになりそうよ!」
「え……?」
「急ぎ衣装の手配もかけておきなさいね。よかったわねぇ、大出世よ!」
曄琳はカチンと固まった。胸元に抱えていた譜がバラバラと地面へ落ちる。
「そんなに驚くこと!?」
「ほ、本当ですか?」
「当たり前でしょ! 嘘つくわけないわよ!」
もともとまだ出させてもらえないと諦めていた、外廷での仕事だ。その日は数百人という人間が宮門を出入りし、合法的に門を潜れる数少ない機会なのだ。
(これは……脱走の機会なのでは!?)
曄琳の頭の中で高らかに鼓笛が鳴り響く。あの女装宦官のことも頭から吹き飛ぶ勢いだ。
(こんなに早く機会がやってくるなんて思ってなかった。当日はすごい人手だろうから、うまく紛れ込めれば外に出れるかも!)
宮門の出入りは衛士に監視され、身分を証明する木簡を提示しなければ門を通してもらえない仕組みになっている。が、今回のような外廷での大きな宴席や節句行事がある場合には、人の往来が増えるためいちいち足止めされなくなるのだと聞いたことがある。
門を通行する集団に隠れてしまえば、外に逃げ出ることも可能やも。
高鳴る気持ちを抑えて喜ぶ曄琳に、同じく嬉しそうな茗が頭を撫でてくる。
「小曄が頑張ってきた証拠ねぇ。本当は舞で上がらせてあげたかったんだけど、目がねぇ……色々難癖つけられちゃって」
「そ、そうですか」
「あんたは踊れるし弾けるし、本当に有能ねぇ。あたしも鼻が高いわ」
嬉しそうに鼻の下を擦る茗に、チクリと曄琳の良心が痛んだ。もし脱走すれば、茗の期待や信頼を裏切ることになる。
(でも、私は色々知られたらまずいことにしかならない。それこそ茗姐様にも迷惑がかかるかも)
曄琳には墓まで持っていかねばならない秘密で溢れているのだ。
「……ありがとうございます。当日は頑張ります」
複雑な気持ちを隠して、曄琳は茗に頭を下げた。
やれるならやるしかないのだ。
落ちた譜を拾い、茗に続いて雑居舎に入ろうと扉を潜りかけたところで、にわかに外が騒がしくなった。
耳を澄ませてみると、教坊の外、外壁に沿うようにして門の方面へ近づいてくる音があった。
これは――初めて聞く音だ。
曄琳は聞き耳を立てる。
「あーっ!」
曄琳が気づいてから遅れることたっぷり十秒、窓際にいた宮妓のひとりが声を上げた。
「見て! 外に
宮妓らが一斉に窓や壁に張り付き、こっそりと
曄琳はその輪には加わらなかった。見ずともわかる。耳は近づいてくる足音をしっかり拾っているのだから。
いち、に、さん……七人。靴底と衣擦れの音、歩き方からして全員男。それと、金属音も聞こえる。こちらは……六つ。腰に帯びた剣が鞘の中で当たる音だ。護衛の者達だろう。
ただひとり帯剣していなさそうな者は、何か重いものを抱えているのか、すり足で歩いている。
「あらぁ、お可愛らしい〜」
「小柄ねぇ。抱っこしてみたいわぁ」
「馬鹿! 不敬罪で首を刎ねられるわよ!」
宮妓の賑やかしい声が一際大きくなる。天下の寧楽国が皇帝に対する態度ではない。
宮妓の頭越しに見えた人影に、曄琳も僅かばかし首を伸ばして覗いてみる。聞こえた音の答え合わせだ。
宮妓らが溶けたような笑顔で見守る先には、帯剣する六人の宦官に囲まれ、一人の美しい女官に抱えられた
噂には聞いていたが、思った以上に幼い。
曄琳は目を擦る。片目だけではよく見えないのだ。
主上は
(あんな幼い子を帝位に就かせるんだから、朝廷って恐ろしいところよね)
曄琳の感想も最もである。
幼すぎる皇帝の誕生は、昨年頭に先代の
崩御した時点で、ただひとりの皇子であった主上は齢四歳。立太子はされていたが、まさかこんなに早く帝位に就くとは誰もが想像していなかった。
即位に際して朝廷は大いに揉めたらしいが、それは曄琳の預かり知らぬところである。
(あの子が私の弟になるのかぁ。なんか変な感じ)
曄琳と皇帝陛下は、昭皇帝という同じ父を持つ異母姉弟という繋がりになる。育ちは天と地ほどに違うが。
宮妓らは、まるで主上を産んだのは私だと言わんばかりに窓に張り付き、一行が通り過ぎるのを眺めている。
「いいなぁ、後宮は。主上に足を運んでもらえるなんて」
「そりゃあ、あそこにいる女達は、そのためにいるんだもの。でも今は、妃嬪もほとんどいなくて空っぽって聞くわよ」
「何だっていいわよ、お会いできるんだからさ。あたし達も寧楽国の誇り高き楽人よ。妃嬪にだって劣らないわよ」
腐る宮妓を尻目に、曄琳は掖庭宮に吸い込まれていく一行の音を最後まで追っていた。内教坊は掖庭宮に隣接しているため、
曄琳はううんと首を傾げる。
全員男だと思ったのに、主上を抱えていたのは、遠目でも確かに柳のような、線の細い女官だった。
曄琳は眉を寄せる。歩き方の癖が男っぽい女性だったんだろうか。まあ、そういう人もいるにはいるが、違和感はある。曄琳の耳は、目で見るより正確なことが多いからだ。
――男のような、女の足音。
頭に過った先の出来事と、その可能性を急いで打ち消す。
(まさか、ね)
曄琳の思考を裂くように、遠くから刻告げの鐘が聞こえてきた。もう八つ刻だ。朝から練習詰めでは当然腹も減る。
「いいや忘れよう。深入りしない、忘れよう」
言い聞かせて、走廊を立ち去った。
この違和感が後々首を絞めることになるとも知らずに。
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