ウォレスの理由 2
どのくらい泣いていただろう。
気づいたときには、扉の前ではなくソファに移動していて、ウォレスの膝の上に横抱きにされていた。
ぽんぽんと規則的に背中が叩かれ、髪を梳かれ、なだめるようなキスが額や頬に落ちる。
そのキスが唇に移動しそうになったとき、サーラはハッとして彼の口を両手で抑えた。
「んむぅ」
手のひらの下から、ウォレスの不満そうな声がする。
咎めるように眉を寄せた彼を見上げて、サーラは、咎めたいのはこっちだと思った。
サーラとウォレスは、もう、別れたのだ。
サーラの気持ちはウォレスにあるけれど、それとこれとは別の話なのである。
心が弱っている今は特にまずい。
このまま、縋り付いてしまいそうになるからだ。
早く離れなくてはと、ウォレスの膝から逃げようとすると、彼の左腕が腰にぎゅっと絡みついてくる。
「でん――」
か、と続けようとしたが、その前にサーラはひゅっと息を呑んだ。
右手でサーラの両方の手首をひとまとめに掴んだウォレスが、そのまま手のひらにちゅうっと吸い付いてきたからだ。
(何を――)
一瞬で、サーラの頭が沸騰した。
吸い付き、舐め、歯を立てて――綺麗な青銀色の瞳でサーラを射抜く。
こちらを見つめたまま、まるで見せつけるように、ゆっくりとした動作でウォレスがサーラの指に噛みついた。
力は入っていないので痛くはないが――痛くは、ないけれど……。
噛まれたところから、全身がびりびりとしびれていく。
拒絶して逃げなければと、頭の中にわずかに残った冷静な自分が警鐘を鳴らすけれど、まるで見えない鎖にがんじがらめにされてしまったかのように動けない。
しきりに瞬きを繰り返すサーラの濡れた睫毛の先から、残っていた涙が散っていく。
瞬きしかできないでいると、とさり、とソファに押し倒された。
ウォレスが手を伸ばし、涙で張り付いたひと房の髪をそっと払い、それから目を覆うようにしながら額を撫でる。
心臓がどくどくと大きくなって、息が苦しくなってくる。
酸素を求めるようにハッと息を大きく吸い込んだとき、ウォレスの唇が重なってびくりとなった。
息を吸うために開けた口の中に、ウォレスの舌が入り込んでくる。
何が起きているのか、わからなかった。
金縛りにあったように動けなくなったサーラの髪を梳き、頬をくすぐって、その手がそのまま首筋をなぞる。
見開いたままのサーラの瞳を、至近距離で射抜く青銀色の瞳は、どこか、怒っているように見えた。
「逃がさない」
唇が離れた途端に息苦しさに大きくあえいだサーラにのしかかったまま、ウォレスが低く言う。
何を言うのかと、問いかけたいのに唇と舌が痺れて言葉が紡げなかった。
「全部終わったら、君は逃げる気だろう?」
どうして、と問いたいけれどやはり声は出ない。
(どうして、わかったの……?)
アドルフとグレースの話を聞いてから――いや、その可能性に気づいてから、サーラはずっと考えていた。
これまでは、両親の――プランタット公爵家にかけられた冤罪を晴らしさえすれば、それでいいと思っていた。
サーラがサラフィーネ・プランタットの名を取り戻し、シャルやアドルフ、グレースも奪われた身分を取り戻すことができる。
子供のころと同じとはいかないだろうが、誰にも怯えず、視線を気にせず、堂々と生きていくことができるようになる。
そして、ウォレスの正妃にはなれなくとも、あわよくば側妃くらいにはしてもらえるかもしれないなんてずるい考えすら、ほんの少しだけ、抱いていた。
それが無理でも、せめて友人として、たまに手紙のやり取りくらいはできるのではないかと、甘いことを考えていたのだ。
(でも……)
真実は違った。
プランタット公爵家にかけられたのは冤罪だろう。
けれどもその冤罪を晴らせば丸く収まるなんて甘い現実ではなかったのだ。
どう転んでも――シャミナード公爵の企みを、戦争に発展することなく無事に阻止できたとしても、ディエリア国とヴォワトール国の関係は変わるだろう。
間違いなく両国間における協定は白紙に戻される。
ヴォワトール国におけるディエリア国への印象は地に落ち、ディエリア国から王家に妃を入れることはなくなるだろう。
そうなれば、ディエリア国の公爵家の血を引くサーラは、ヴォワトール国にとってマイナスでしかない。次期王になるウォレスの足かせにしかならない。
だからサーラは、もともとこの国にサーラという人間などいなかったのだと、アルフレッドに情報操作をさせて遠い別の国に向かうつもりだった。
二度とウォレスに会うことがないほど、遠い遠い国へ。――一人で。
一人と決めたのは、せっかく元の身分を取り戻すことができるシャル達を巻き込みたくなかったからだ。
彼らにはもう一度、ディエリア国でやり直してほしい。
プランタット公爵家にかけられた嫌疑が冤罪だったとわかれば、全部かどうかはわからないが、多少なりとも没収された領地や財産も戻って来るだろう。
そのすべてをアドルフたちに残して、「サラフィーネ・プランタット」は消えるつもりだった。
でもそれは、サーラが自分一人で考えて決め、誰にも教えていなかったことなのに、何故、ウォレスはわかったのだろう。
「馬鹿にするなよ。表情を見ていれば、君が何かろくでもないことを考えていることくらいわかる。そして君の性格からして、自分を犠牲にして周囲の人間を守ろうとするだろう。その中に私が入っていないはずがない。だって君は私が大好きだからな」
とんだ自惚れだと思ったけれど、否定はできない。
だってサーラは、彼が言う通りウォレスが大好きだからだ。大好きに――なってしまっていたからだ。
ウォレスは、はあ、と息を吐き出し、こつんとサーラの額に自分のそれをくっつけた。
「大好きな女の子に守ってもらわないと王になれないくらいなら、私は玉座なんていらない」
「な、にい……って」
ようやく発することができたかすれた声は、ちゃんと言葉になったかどうかはわからない。
ウォレスは、王になりたいから頑張っていたのではないのだろうか。
多忙の中わざわざ下町まで足を運んで、情報を集めて。
それなのに、何故、そんなに簡単に――
「簡単じゃない」
サーラの心を読んだのか、ウォレスは小さく笑った。
「簡単じゃないよ。ずっと考えて考えて、そして決めたんだ。君がいないなら玉座なんていらない。ずっとどうすれば君を手放さなくていいだろうかと考えていた。どうすればずっとそばにいられるだろうかと。でも答えはなかなかでなかった。わからなかったから。……でも、ようやくわかった」
そこから先は、聞いてはいけない気がした。
でもサーラは動けなくて――、唇にかかる熱い吐息に、頭の芯が痺れる。
「君がどこか遠くに行きたいなら、私も一緒に行く。この国は兄上がいれば安泰だ。だから私は、オクタヴィアンではなくただのウォレスとして、君の隣にいる」
そんなことは、許されるはずがない。
誰からも許可なんて下りるはずがないのに――
「君は自己犠牲ばっかりで、絶対に、自分で自分を幸せにできない人だから、私がずっとそばにいて君を幸せにするよ」
まるで、ウォレスがいないと、サーラは不幸になるような、そんな言い方。
なんて自信家なんだと笑おうとして、失敗した。
鼻の奥がツンと痛くなって、喉の奥がきゅっとなる。
自分の意思では止められない涙が目じりからこめかみを伝って、耳の上に流れ落ちた。
ウォレスが目じりに唇を寄せて、涙をなめとって、「しょっぱいな」と当たり前のことを言って笑う。
(この人は――)
どこまでわたしの心を奪い取れば気がすむのだろうか――と。
涙の味のするキスに目を閉じて、そう思った。
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