夏の夜の秘密 1

 一週間後――


 三回のダンス練習で、リジーは何とか踊れるというレベルにまで達した。

 細いヒールの靴でまっすぐ立つこともままならなかったことを考えると、リジーはかなり努力をしたと思う。


(まあ、執念ともいうけどね)


 リジーのパーティーへの憧れは並々ならぬものがあったということだ。

 はじめてのダンス練習の日から、ウォレスとサーラの間にはぎこちない空気が流れていた。

 あれ以来ウォレスはサーラの秘密を暴こうとはしていないのでひとまず安堵しているが、油断はできない。


(このまま忘れてくれればいいんだけど……)


 サーラの秘密なんて、暴いたところで何のメリットもないのだから。

 パン屋ポルポルを閉め終え、空が茜色に染まったころ、店の前に一台の黒塗りの馬車が停車した。

 御者台のマルセルが扉を開けると、サーラは思わず目を見張る。

 座席に座っていたのは、艶やかな黒髪を撫でつけ、鮮やかなコバルトブルーのタイを締めたウォレスだ。

 いつも高級そうな服に身を包んでいるが、こうして髪をきちんと整えるとまた雰囲気が変わって見える。


「どうぞ」


 マルセルに手を借りてサーラが馬車に乗り込むと、馬車が静かに動き出す。

 菓子屋パレットに向かい、リジーを拾うのだ。

 そして、一度ウォレスが下町で使っている東の一番通りの邸へ向かい、ドレスに着替えることになっていた。


 馬車の中に気まずい沈黙が落ちる。

 ウォレスは黙ってこちらを見つめているが、唇はきゅっと一文字に引き結ばれていた。

 菓子屋パレットまで馬車で二、三分もあればたどり着くと言うのに、そのわずか数分が長い。


 馬車が停車し、リジーがどこか緊張した面持ちで、けれども元気よく馬車に乗り込んできたとき、サーラはほっと息を吐き出した。


「ウォレス様、今日は本当にありがとうございます!」


 リジーの声で、そういえばまだ礼も言っていなかったなと思い出した。


「いろいろと便宜を図ってくださり、ありがとうございます」


 改めてサーラも礼を言うと、ウォレスが目を細めて微笑む。


「この程度、別に構わないよ」


 馬車が東の一番通りの邸に停車すると、玄関ホールにはベレニスのほかに六人のメイドがいた。これまでこの邸で見かけた人数の中で、今日が一番多い。


「ウォレス様はこちらへ。お嬢様方のお支度には時間がかかるものでございます」

「ああ」


 ちらりとこちらに視線をよこしたウォレスは、ブノアにそう言われてダイニングの方へ向かった。

 サーラとリジーは、ベレニスとメイドたちに先導されて二階へ上がる。


「サーラさんはこちらへ、リジーさんはこちらへお願いいたします」


 支度の部屋は分けるようだ。

 三人のメイドに連れられて部屋に入ると、サーラはまずバスルームへ連行された。

 あれよあれよという間に服をはぎ取られ、お湯の準備が整っているバスタブに入れられる。


(あ、気持ちいい……)


 薔薇の香油が落とされているお風呂はいい香りがして、湯加減もちょうどよかった。なによりバスタブが広い。

 サーラの家にもバスタブはあるが、小さくて狭くて、とてもではないがお湯につかってリラックスできるような代物ではないのだ。

 足を延ばしてもなお余るバスタブの、なんと贅沢なことだろう。


 サーラがゆったりとバスタブにつかっている間に、メイドたちが髪を洗ってくれ、そのあとで一度バスタブから出されて体が洗われる。

 そしてまたバスタブにつかって体が温まった後は、マッサージ台に誘われた。

 ちょうどいい力加減でマッサージされて、サーラがあまりの気持ちよさにまどろんでいると、「起きてくださいませ」と肩をゆすられる。ガウンを着させられると、今度は慌ただしくバスルームから連れ出された。


 シルクのドロワーズにストッキング、コルセット。それから胸元には多少の詰め物がされる。

 銀糸の刺繍の入った二の腕の半ばまである手袋をつけられ、淡いブルーのドレスが着させられた。少し大きかったウエストは、サーラの腰にピッタリ沿うように直されている。

 背中の編み上げのリボンが締められ、今度はドレッサーの前に座らされた。

 一人のメイドが、まだ少し湿っている髪を丁寧にタオルでぬぐいながら、「髪型にお好みはございますか?」と訊ねてくる。


「あまり派手でないものでお願いします」

「かしこまりました」


 髪の水分をしっかりと拭った後で、温めたコテで丁寧に緩く髪が巻かれていく。


「まあ、ここだけ金色ですのね」


 髪を巻いていたメイドが、サーラの後ろの当たりの髪を見て驚いた声を上げた。


(あ、しまった! 染粉が落ちかけていたみたいね……)


 サーラは舌打ちしたい気分だったが、表情には出さず曖昧に笑う。


「金色の髪が目立たないようにできますか?」

「やってみましょう」


 優秀なメイドは、余計な詮索はしないようだ。

 ゆるく巻かれた髪を一部残し、丁寧に編み込んでいく。

 真珠で作られた上品な髪飾りで彩られて、髪のセットが終わると今度は化粧だ。

 髪が整えられている間に、一人のメイドが化粧水などで肌を整えてくれていて、もう一人がカラーの組み合わせを決めていた。


 眉が整えられ、薄くおしろいがはたかれる。

 化粧をされている間に、首元には髪飾りとお揃いの真珠の首飾りを、耳には金と真珠の飾りが付けられた。

 パーティーのはじまりまであまり時間がないとはいえ、息の合ったすごい連係プレーである。

 あっという間に化粧が終わり、メイド三人は満足そうに頷いた。


「お綺麗ですよ」

「ええ、もともとお綺麗でしたけれど……、きっと旦那様も驚かれることでしょう」

「とっても素敵です。仕上げに香水を使いますが、三種類ご用意しております。こだわりがないのであればこちらで選ばせていただいてもよろしいでしょうか?」

「お願いします」


 サーラが頷けば、メイドは三つの香水瓶の中から迷わず一つを選んだ。スズランの優しい香りのする香水である。


「本日の旦那様の香水と相性がいいものを選ばせていただきました」


 ふふ、とお茶目な顔をして笑うメイドに、サーラは困ったように笑う。

 本日のウォレスの香水は、スズランをベースにシトラス系の香りがブレンドされているものらしい。


「本日使用したお化粧品は、後ほど届けさせていただきますね」

「え? いえ! そんな、さすがにもらえません」

「サーラ様がお受け取りにならない場合、処分されるだけですので、どうぞお気になさらず」


 捨てるのはもったいないでしょう? と微笑むメイドは、本当に本当にできるメイドだ。

 そう言われると断れず、サーラは申し訳なく思いながらも頷いておく。

 メイドに連れられて部屋を出ると、ちょうどリジーも支度を終えて部屋から出てきたところだった。


「サーラ!」


 髪を結いあげて、化粧をしてもらったリジーが頬を紅潮させて駆け寄ってくる。


「サーラ、すごいの! どうしよう! このドレスもアクセサリーもお化粧品も、全部くれるんだって!」


 まだパーティー会場にも向かっていないと言うのに、早くもリジーの興奮は最高潮のようだ。


「うん、すごいね。でも落ち着いて。今からそんなだと、すぐに疲れちゃうよ」

「だってだって!」


 リジーが興奮のまままくしたてようとしたとき、背後からコホンと咳払いの声がした。

 見れば、ベレニスが微苦笑を浮かべている。


「あまりお時間がございませんので、お話は馬車の中でお願いできますか? そろそろルイス様もご到着かと」


 パーティーに招待してくれたルイスがここに迎えに来てくれることになっているのだ。

 リジーがルイスと、サーラがウォレスとペアになる予定である。

 できることならリジーとペアを変わってほしかったが、ダンスの腕前を考えた結果、リジーにウォレスと踊らせるのは酷だろうとベレニスが判断したらしい。ウォレスならばリジーのフォローくらい簡単だろうが、技量の差は圧倒的で、悪目立ちするだろうと。

 ルイスをリジーに張り付かせておいて、できるだけダンスを踊らなくてすむようにさせる計画のようだ。


(まあ、一応踊れるようになったと言っても、基本のワルツだけだからね)


 リジーが恥ずかしい思いをしなくていいための措置だと言われれば、サーラも頷くよりほかはない。

 リジーも自分のダンスの腕前は理解しているようで、ルイスと踊りやすそうな曲を一曲か二曲踊るだけにとどめておきたいと言っていた。


 リジーとともに階下へ向かうと、玄関ホールにはルイスと、それからウォレスが待っていた。

 ルイスも今日はとてもめかしこんでいて、どこからどう見ても良家のお坊ちゃんという感じである。まあ本当に良家のお坊ちゃんなのだが。


「楽しんでいらっしゃいませ」


 ベレニスとブノア、それからメイドたちに見送られて、サーラとリジーは、ウォレスたちとともに馬車に乗り込んだ。

 御者を務めるのはいつも通りマルセルである。

 ゆっくりと動き出した馬車に身を任せて、サーラはそっと息を吐いた。


(……パーティー、か)


 リジーに押し切られてパーティーに出席すると聞いたシャルが、ひどく心配していたことを思い出す。


(何もないといいけど……)

 ここには、サーラを知る者はいない。

 それはわかっているし、パーティーが開かれるのは貴族の邸でないことはわかっているのだが――


 かつてすべてを捨てたはずのものが、遠くで手招きしているような、そんな妙な胸騒ぎを覚えてしまった。




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